無罪
判事長の前まで、歩いていく。
たった数歩の距離なのに、ひどく長く感じた。
ルクレール卿は、卓の上の羊皮紙を、一枚、手に取る。法衣の袖が、さらり、と、鳴った。
「被告、レティシア・ド・ヴァルモン。あなたは、この三週間、王女殿下に対する毒殺の罪で、死刑を宣告されていた。本日の再審は、その判決を見直すために、開かれた」
「はい」
「裁判は、証拠に基づいて、行われるものだ。そして、証拠は、時に、誤りを含む。……この、旧い判決が、まさに、そうだった」
彼は、羊皮紙を、静かに、広げる。
天幕の中は、息をする音さえ、聞こえなかった。
「再審において、当法廷が、確認した事実を、順に述べる。ひとつ。あなたの、筆跡と、された遺書、および脅迫状は、あなた自身のものではなく、練習によって、模された、偽造である。その、偽造を行ったのは、クロード・ド・サン=ロランである。クロード本人が、署名入りの供述で、これを認めた」
ペンの音が、天幕の隅で、規則正しく、走る。
「ふたつ。王女殿下が、口にされた、杯の毒は、月下草と、眠り草の混合である。その毒は、杯を預かっていた、クロードの手によって、仕込まれた。これも、供述、物証、証人の証言が、一致している」
「みっつ。侯爵家の、見張りの騎士、ルネ・ガルニエは、人質をとられ、偽の証言を強いられていた。その、証言は、すべて、無効とする」
「よっつ。あなたは、毒を、知らずに、杯を、手渡した、にすぎない。故意は、認められない」
一語ごとに、胸の奥の、固く結ばれたものが、ほどけていく。
私は、膝が、がくり、と、折れそうになるのを、必死にこらえた。
「以上の、事実から、先の、死刑判決を、破棄する」
ルクレール卿は、そこで、いったん、言葉を、切った。
天幕の中の、全員が、息を、止めた。
「レティシア・ド・ヴァルモン。あなたに、罪は、ない。無罪を、言い渡す」
その瞬間、世界が、音を、失った。
*
最初に聞こえたのは、すすり泣きだった。
傍聴席の、誰かの。次いで、父の、押し殺した、嗚咽。
「……無罪」
声に、出して、繰り返してみる。
舌の上で、ころころと、転がる、不思議な、響き。
「判事長」
ジルベールが、一歩、前へ出た。
「刑の、執行は」
「無論、中止だ。いま、広場に、通達を、出す。書記官、直ちに、執行官へ、書面を」
ペンが、紙の上を、素早く、走った。
書記官が、走り出して、天幕の外へ消えていく。遠くで、誰かが、叫ぶ声が、聞こえてくる。
ルクレール卿は、法衣の襟元を、わずかに、緩めた。
その顔には、堅物と呼ばれる人の、鋭さよりも、深い、疲れが、にじんでいた。
「レティシア嬢」
彼は、声の調子を、変えた。
「法廷を代表して、詫びたい。あなたは、三週間のあいだ、本来なら、味わわずに済んだ、恐怖の中に、置かれた。法の、手続きは、守られていたが、真実には、届いていなかった。……この罪は、あなたではなく、法廷にある」
深く、頭が、下げられる。
判事長が、被告に、頭を、下げた。
天幕の中が、ざわり、と、揺れた。
それは、きっと、この国の、法廷では、めったに、見られない光景だったのだろう。
「顔を、上げてください、閣下」
私は、思わず、そう言っていた。
「閣下は、最後に、耳を、傾けてくださいました。それだけで、私は、救われました」
「……」
「ありがとうございました」
ルクレール卿は、ゆっくりと、顔を、上げた。
厳しい目が、ほんの少しだけ、やわらいでいた。
「礼には、及ばぬ。あなたが、最後まで、自分の足で、立っていた。それが、すべてだ」
判事長は、そこで、床の上の、クロードへと、視線を、移した。
「クロード・ド・サン=ロラン。あなたの罪は、本日の、再審の、範囲を、超える。王女殿下の毒殺、偽造、誘拐に準ずる強要。それらは、別の、法廷で、改めて、裁かれる。それまでは、医師の、監視下で、療養し、拘束される」
「……はい。仰せの、通りに」
クロードは、横たわったまま、目を、閉じた。
その顔は、不思議なほど、穏やかだった。罰を、待つ者の、顔というより、長い旅の、終わりを、迎えた者の、それに、近い。
「また、本件の解決に、尽力した、監視騎士団の、ジルベール・ロシュに、法廷は、感謝を、表する」
ジルベールは、姿勢を、正し、短く、一礼した。
「職務を、果たしただけです」
「その、職務を、果たし続ける、ことが、どれほど、難しいか。我々は、今日、見せられた」
判事長の、言葉に、ジルベールの、耳の先が、ほんのり、赤く、なった気がした。
気のせいかもしれない。けれど、私は、そっと、目を、そらして、見ないふりをした。
傍聴席の端で、アルベールが、深く、頭を、垂れている。顔を上げたとき、その目は、赤かった。私と、目が合う。彼は、何かを、言いかけて、唇を、結び、ただ、深々と、一礼する。
謝罪の言葉は、いまは、まだ、要らなかった。それは、もう少し、落ち着いてから、聞けばいい。
*
そのとき、外から、鐘の音が、響いてきた。
ごおおん、と、重く、深く。
鐘楼の、大きな鐘が、正午を、告げていた。
ひとつ。ふたつ。
鳴り響くたびに、天幕の布が、かすかに、震える。
いつもの癖で、私は、鐘の数を、数えていた。
十二回目の音が、消えたとき。
私は、まだ、ここに、立っていた。
「……生きています」
自分でも、おかしなことを、言ったと、思う。
けれど、誰も、笑わなかった。
背後から、大きな手が、私の肩を、そっと、包んだ。
ジルベールだった。
「ああ。……生きている」
低い声が、耳もとで、震えていた。
振り返ろうとして、うまく、できなかった。涙が、あとからあとから、あふれて、視界が、にじんでしまって。
「泣け。今は、泣いていい」
その、短い許しに、堰を、切られた。
私は、声を、出して、泣いた。三週間分の、恐怖と、悔しさと、安堵が、いっぺんに、あふれ出す。
彼は、何も、言わなかった。
ただ、私の、背中を、ずっと、支え続けてくれた。
*
どれくらい、そうしていただろう。
やっと、顔を上げると、天幕の中には、たくさんの人が、立っていた。
父。デュボワ卿。ヴェルニエ卿。ミレイユと、イザベル。老医師ロベール。それに、ルネと、同僚の若い騎士。
誰もが、泣き笑いの、顔をしていた。
「お嬢様」
最初に、声をかけてくれたのは、広場で見かけた、老婆だった。
いつの間にか、天幕の入口に、立っていた。使用人たちを、代表するように。
「よく、ご無事で。……このばあやは、毎朝、お嬢様のために、パンを、焼いて、おりましたよ」
「……ええ。知っています。いつも、おいしかった」
「これから、また、焼きますとも。毎朝。いつまでも」
老婆の、皺だらけの顔が、くしゃりと、歪んだ。
私は、その手を、取った。ごつごつとした、働き者の、手だった。
「はい。……お願いします」
ミレイユが、駆け寄ってきて、私に、抱きついた。
「よかった。よかった、レティシア様!」
その後ろで、イザベルが、扇で、目もとを、隠しながら、そっぽを、向いている。肩が、小さく、震えていた。
デュボワ卿が、父の肩に、手を置く。
父は、深く、頷いて、それから、私を、見た。
「レティシア」
その声は、驚くほど、静かだった。
「帰ろう。……家へ」
「はい、お父様」
私が、頷くと、父は、初めて、笑みを、見せる。
ひどく、不器用で、ぎこちなくて、けれど、どこまでも、あたたかい笑顔だった。
*
天幕の外に出ると、まぶしい、光が、目を、刺す。
広場は、人で、あふれていた。
けれど、さっきまでの、罵声は、もう、どこにもない。誰もが、じっと、こちらを見つめていた。
台の上の、黒い布は、すでに、騎士たちの手で、取り払われはじめていた。
無骨な、木の台が、むき出しに、なっていく。
その光景を、私は、静かに、見つめた。
あの上に、立つはずだった。
それが、いま、解体されていく。
風が、頬を、撫でた。
湿った、あたたかい、五月の、風だった。
「レティシア嬢」
後ろから、ジルベールが、そっと、声をかけた。
「歩けるか」
「はい。……少し、足が、ふわふわしますけれど」
「なら、私の腕に、つかまれ」
差し出された、腕に、迷わず、手を、かけた。
彼の、体温が、袖越しに、伝わってくる。
一歩、踏み出す。
石畳が、足の下で、確かに、固い。
私は、生きている。
その事実が、ようやく、体の芯まで、しみわたっていった。
人垣が、ゆっくりと、左右に、割れる。
その、真ん中を、私は、ジルベールと、並んで、歩いていく。
どこかで、誰かが、拍手を、はじめた。
ひとり、ふたり。やがて、それは、広場全体に、広がっていく。
空を、見上げる。
雲の切れ間から、正午の、まっすぐな日差しが、降りそそいでいた。
私は、目を、細めて、その光を、全身に、浴びた。




