十一刻五十分
「飲ませます。支えてください」
ロベール医師の声に、ジルベールが、クロードの上体を、そっと、抱え起こした。
匙が、青ざめた唇に、運ばれる。白い粉は、水に溶けて、唇の端から、こぼれかけた。
「飲み込め。……飲め、クロード」
医師が、顎を、軽く、押さえる。
喉が、かすかに、動いた。ひとくち。もうひとくち。
「いいぞ。そのまま」
ジルベールが、低く、励ます。普段の、冷静な声と、同じなのに、どこか、必死さが、滲んでいた。
彼は、見張るべき、罪人の体を、抱えている。それなのに、その腕は、まるで、大切な誰かを、支えるように、慎重だった。
ロベール医師は、第二の、薬包を、開く。
「これは、毒の、巡りを、遅らせる。……あとは、本人の、体力と、気力だ。クロード殿、聞こえますか。あなたの、命は、あなたのものだ。ここで、手放すな」
返事は、ない。
けれど、唇の端が、わずかに、動いた気がした。
私は、握った手を、離さない。
冷たい指が、ほんの少しだけ、握り返したように、思えた。気のせいかもしれない。それでも、私は、その小さな力を、信じたかった。
天幕の中は、誰も、口を、開かなかった。
砂時計の砂が、落ちる音。羽根ペンの、乾いた音。遠くで、群衆の、ざわめく声。
やがて、ロベール医師が、深く、息を、吐いた。
「……脈が、戻ってきた。完全ではないが、持ちこたえるでしょう。意識も、すぐに、戻るはずです」
その言葉に、父が、床に、額を、つけるようにして、泣いた。
「……すまない、クロード。すまなかった。生きて、くれ。それだけで、いい」
父の、掠れた声に、天幕の誰もが、目を、伏せた。裁く側も、裁かれる側も、ここでは、ただの、ひとりの人間だった。
ミレイユが、両手で、口を、覆う。イザベルは、天を仰いで、小さく、息を、ついた。
「……よかった」
声に、出していた。
自分でも、驚くほど、素直な、ひとこと。
*
クロードのまぶたが、ゆっくりと、持ち上がった。
焦点の定まらない瞳が、天幕の天井を、さまよう。
やがて、私の顔に、たどり着いた。
「……レティ」
「はい。ここに、います」
「……ああ。失敗、したのか」
かすれた声で、彼は、苦く、笑った。
「死なせては、もらえなかった。……君は、本当に、厄介な、従妹だ」
「ええ。とても、厄介です。覚悟してください。罪は、生きて、償っていただきますから」
涙が、勝手に、こぼれる。
それでも、声は、はっきりと、出た。
ルクレール卿が、椅子の背から、身を、乗り出した。
「クロード・ド・サン=ロラン。意識が、あるなら、聞け。いまの、供述を、正式な、供述書として、記録する。内容に、誤りが、あれば、この場で、訂正せよ」
「……はい」
クロードは、ジルベールの腕に、支えられたまま、ゆっくりと、頷いた。
「ひとつ、訂正を。……先ほど、私の、生い立ちを、少し、飾って、話しました」
天幕が、ざわめく。
「まず。私の母は、伯父上の、妹では、ありません。サン=ロランの、父の、妻でした。私が、この家と、つながるのは、叔母上……レティの、お母上が、父の、妹だったからです。血の上では、伯父上と、私は、他人だ」
父が、小さく、頷いた。
「……そうだ。血は、つながって、いない。それでも、亡き妻の、兄の子を、私は、甥と、呼んだのだ」
「ありがとうございます、伯父上」
クロードは、静かに、続けた。
「母は、私が、七つのとき、すでに、亡くなっている。父、ラザール・ド・サン=ロランは、十四のときまで、生きました。サン=ロランの家は、旧い名と、痩せた領地しか、持たない、貧しい家で」
彼は、目を、閉じた。
「十年前、父と、この屋敷を、訪ねた日のことを、覚えています。叔母上が、父に、金の、無心を、受けて、困ったように、笑っていた。……それから、父が、亡くなって、私は、引き取られた」
「その、金の話は」
デュボワ卿が、静かに、問う。
「ヴェルナ銀山の、ことですか」
「……ええ。叔母上は、ご遺言に、書き残しました。レティが、十八になる前に、亡くなれば、銀山は、サン=ロランの家に、戻る、と。私は、その場で、聞いていました。ですから、ずっと、知っていた」
天幕の中の空気が、冷えた。
「後見の、申し立ては、二番目の、道でした。一番目は、もっと、単純です。レティが、十八の、誕生日を、迎える前に、死んでくれれば、それで、足りた。……自殺に、見せかけようとした夜も、あの杯を、今夜返そうとしたのも。すべて、零時に、間に合わせるため、でした」
私は、息を、のんだ。
ジルベールが、前に、言っていた通りだった。あの人は、お金のために、私を、殺そうとしていたのだ。
けれど、クロードは、そこで、ふっと、微笑んだ。
「ところが。零時を、過ぎたとき、私は、……安堵して、しまった。『もう、レティを、殺さなくて、いい』と。自分でも、おかしいくらい、肩の力が、抜けた」
私は、零時の鐘を、思い出す。
十八になった、その瞬間。祝う声は、ひとつも、なかった。それでも、私は、生きて、その鐘を、聞いたのだ。
あのとき、別の場所で、この人も、同じ鐘を、聞いていた。そして、肩の力を、抜いていた。そう思うと、胸の奥が、ずきりと、痛んだ。
彼は、天井を、見つめた。
「そのとき、はじめて、わかったんです。私は、とっくに、君を、殺したくなんて、なかった。……なのに、やめることが、できなかった。やめる理由も、勇気も、見つけられなかった」
「兄様」
「だから、今日の、再審では、すべてを、話そうと、決めていた。……話し終えたら、あとは、自分で、片をつける、つもりでした。それが、あの、薬包です」
ルクレール卿は、重く、息を、吐いた。
傍聴席の、あちこちから、嗚咽にも、怒りにも、聞こえる、ざわめきが、漏れる。人は、これほどの、真実を、一度に、聞くと、感情の、置きどころを、見失うのだと、思った。
「愚かな、男だ。そして、卑怯な、男だ」
「……はい。仰る通りです」
「だが、いまの供述は、すべて、記録した。書記官、供述書を、こちらへ」
デュボワ卿が、一歩、進み出た。
「判事長閣下。ひとつ、整理を。零時を過ぎた、現在、レティシア嬢は、すでに、十八歳。成年に、達しておられる。したがって、補足遺言の、後見に関する、条項も、後見人の、申し立ても、前提を、失っております」
「うむ。銀山の権利は、現時点で、被告本人に、帰属している、と、いうことだな」
「はい。ただし、有罪の、まま、刑が、執行されれば、全財産は、没収されます」
その言葉が、静かに、天幕の中に、落ちた。
私は、はっと、息を、のんだ。
銀山も、屋敷も、母の、遺したものも。この判決ひとつで、すべてが、消える。同時に、私の、命と、一緒に。
「……閣下」
父が、顔を、上げた。
その目には、涙の跡が、残っていたが、声は、不思議なほど、澄んでいた。
「私は、娘の、無実を、確信しております。どうか、公正な、ご判断を」
「承知している、侯爵」
ルクレール卿は、父に、短く、頷き返した。その横顔は、堅物と呼ばれる、判事長のものとは、少し、違って見えた。法の、重みを、背負う者の、疲れと、迷いが、そこに、にじんでいる。
*
書記官が、薄い羊皮紙の束を、運んでくる。
ペンと、インク壺が、クロードの前に、置かれた。
「署名を。自分の、手で」
ジルベールが、クロードの腕を、支える。
震える指が、羽根ペンを、握った。
ペン先が、紙に、触れる。
かすれた線が、ゆっくりと、名前の形を、描いていく。
クロード・ド・サン=ロラン。
デュボワ卿が、それを、覗き込んで、静かに、言った。
「……練習帳の、筆跡と、同じ癖だ。はねの、角度も」
ティシエが、立ち上がり、署名を、確かめる。
「確かに、本人の、署名と、認めます。公証人として、立会いを、いたします」
その声は、少し、かすれていた。
彼にとっても、この事件は、大きな、傷だったのだろう。
ルクレール卿が、書記官に、顔を向けた。
「この署名と、被告の名を、真似た、練習帳の、筆跡との、同一性も、記録に、加えよ。偽造の、経緯が、これで、すべて、つながる」
「かしこまりました」
書記官の、ペンが、紙の上を、走る。その音が、ひどく、重く、響いた。
書記官が、署名の、乾くのを、待って、羊皮紙を、判事長の前に、運ぶ。
ルクレール卿は、一枚ずつ、目を、通した。
天幕の中は、再び、静まり返る。
砂時計の、砂は、もう、残りわずかだった。
細い糸のような、最後の砂が、さらさらと、落ちていく。
ルクレール卿は、最後の、一枚を、置いて、顔を、上げた。
その視線が、まっすぐ、私に、注がれる。
「十一刻五十分。再審の、期限だ」
彼は、ゆっくりと、立ち上がった。
法衣の裾が、静かに、揺れる。
「被告、レティシア・ド・ヴァルモン。前へ」
私は、膝の上で、拳を、一度だけ、握りしめた。
それから、立ち上がる。
ジルベールの手が、背中を、そっと、押した。
『行け』と、言うように。
振り返ると、彼は、小さく、頷いた。
「見ている。最後まで」
唇だけが、そう、動いた。それだけで、十分だった。
「……はい」
足が、一歩、前へ出る。
石の床の冷たさが、靴底から、伝わってきた。
判事長が、息を、吸う。
天幕の、全員が、同じように、息を、止めた。
処刑まで、あと十分。




