別れの茶
「受けます」
私は、判事長に向かって、はっきりと、告げた。
「別れの茶を、いただきます。ただし、条件があります」
「申せ」
「茶葉も、湯も、茶碗も、すべて、騎士団の方に、用意していただきたいのです。クロード兄様は、淹れてくださるだけ。それでも、よろしいでしょうか」
クロードは、すぐに、頷いた。
「もちろんだよ、レティ。むしろ、そうしてほしい。君を、疑わせたまま、終わりたくないから」
天幕の中が、小さく、ざわめいた。
父が、何か言いかけて、やめる。デュボワ卿は、私の顔を、まじまじと、見つめていた。
ルクレール卿は、しばらく、考えるように、目を、細める。
天幕の外では、群衆の、ざわめきが、いつのまにか、低くなっていた。何が、行われているのか、誰も、わからないのだろう。ただ、時を告げる、鐘楼の、影だけが、確実に、石畳の上を、動いていた。
「……よかろう。ただし、時間は、限られている。正午の鐘が、鳴りはじめる前に、済ませること」
そう言って、書記官に、短く、合図を送る。
ジルベールが、すぐに、動いた。
外に控えていた騎士のひとりに、何かを、告げる。やがて、卓の上に、手際よく、器具が、並べられていった。
小さな、素焼きの茶壺。
銀の盆に載った、白い茶碗が、ふたつ。
湯気の立つ、鉄の薬缶。
茶葉の入った、紙の袋は、ジルベール自身が、封を切って、ひとつまみ、掌に、乗せてみせた。
「見てくれ。ありふれた、野の茶だ。団の、炊事場にある、ものを、持ってきた」
誰に、見せるでもなく、彼は、掌の茶葉を、天幕の中に、ゆっくりと、巡らせる。
疑いようのない、乾いた、茶色の葉。
クロードは、静かに、椅子から、立ち上がった。
見張りの騎士たちが、半歩、前に、出る。
「大丈夫ですよ。逃げも、暴れも、しません。それに」
彼は、両手を、広げて、にこりと、笑った。
「あの、白い手袋は、もう、ありませんから」
その冗談とも、自嘲ともつかない、言葉に、ジルベールだけが、眉をぴくりと動かした。
*
湯が、注がれる。
茶葉が、ゆっくりと、ほどけていく。
天幕の中に、素朴な、草の香りが、立ちのぼった。
それは、私の知っている、どの、お茶会の香りとも、違っていた。社交の席で出される、花と蜜の香りではない。もっと、ありふれた、生活の匂い。庭の、片隅で、母が、摘んでいた、野草のお茶に、どこか、似ている。
「覚えているかい。叔母上が、よく、こんな香りの、お茶を、淹れてくれた」
クロードが、茶壺を、傾けながら、言った。
「叔母上……君の、お母上は、私にも、同じ茶碗で、同じお茶を、出してくれたんだ。客用の、立派な、カップじゃなくて。家族と、同じ、素朴な、陶器で」
私は、息を、のんだ。
母の、記憶。私が、まだ、小さかった頃の、こと。
「ある日、叔母上が、私に、こう言った。『クロード。あなたは、お客さまじゃ、ないのよ。うちの子ですからね』と」
クロードの手が、ほんの少し、止まる。
「……嬉しかった。本当に、嬉しかったんだ。だから、あの人が、亡くなったとき、私は、泣けなかった。泣いたら、居場所が、本当に、なくなる気がして」
「兄様」
「あの人が、亡くなる、前の晩。私の手を、取って、『レティを、頼みます』と、言ったんだ。……守る、つもりだった。本当に」
茶碗に、金色の、お茶が、満ちていく。
その、澄んだ色が、涙のにじんだ、視界で、ゆらゆらと、揺れた。
「……約束を、破ったのは、私だ」
クロードは、ふたつの茶碗を、卓の上に、並べた。
「どうぞ、レティ」
その手を、ジルベールが、遮った。
「待て」
彼は、私の前の茶碗を、手に取る。
一同の視線の中で、ためらいもなく、口に、運んだ。
ひとくち。ふたくち。
喉が、ゆっくりと、動く。
私は、膝の上で、拳を、固く、固く、握りしめた。
三つ、数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ、と、心の中で、唱える。
ジルベールは、茶碗を、卓に、戻した。
「……毒は、ない」
その一言に、天幕の中の、全員が、そっと、息を、吐いた。
彼は、残っていた、お茶を、すべて、飲み干してから、もう一度、茶壺から、注ぎ直した。
「どうぞ」
「……ありがとう、ございます」
私の手は、少しだけ、震えていた。
彼の、指先が、ほんの一瞬、私の指に、触れていく。熱い、と、思った。温かい、ではなく、熱い。
見上げると、ジルベールは、すっと、視線を、逸らしていた。
その耳の先が、わずかに、赤い。
*
ふたりで、茶碗を、掲げる。
古い習わしの、乾杯のかたち。
「レティ。……君に、会えて、よかった」
クロードは、そう言って、茶碗を、口に、運んだ。
私も、静かに、ひとくち、含む。
素朴な、草の味。
ほのかな、甘み。喉を、すべり落ちていく、あたたかさ。
涙が、ぽろり、と、頬を、つたった。
泣くつもりは、なかったのに。
「おいしいです」
「そう。それは、よかった」
クロードは、目を、細めた。
「叔母上の、淹れかたを、思い出しながら、淹れたんだ。ずっと、練習していた。……いつか、君に、飲んでもらう日が、来たら、と」
「兄様」
「ごめんね、レティ。本当に」
彼の手から、茶碗が、すべり落ちた。
からん、と、乾いた音が、天幕に、響いた。
割れた茶碗の、破片の中に、金色の、お茶が、広がっていく。
「……クロード?」
彼の、体が、ぐらり、と、傾いだ。
見張りの騎士が、慌てて、支える。クロードの、顔から、血の気が、引いていた。唇が、薄く、青い。
「ロベール先生!」
傍聴席で、椅子が、倒れる音が、した。
アルベールだった。彼は、顔色を、失ったまま、通路に、飛び出してくる。
「殿下は、……いや、医者を! 水を、持ってきてくれ!」
声は、裏返っている。それでも、誰よりも、早く、動いたのは、彼だった。彼は、愚かでは、なかった。ただ、遅かった、だけなのだ。
私は、もう一度、叫んでいた。
医師が、薬箱を、抱えて、駆け寄る。
「脈が、弱い。……何か、口に、した。茶の、前に」
ロベール医師は、クロードの、口を、無理に、開かせる。
奥歯の、あたりに、小さな、破れた、紙片が、挟まっていた。
「薬包です。……毒を、仕込んでいた」
ジルベールが、低く、唸った。
「……最初から、自分で」
「兄様!」
私は、床に、膝をつく。
クロードは、焦点の合わない目で、私を、見上げていた。そして、かすかに、唇を、動かした。
「……だい、じょうぶ。罪は、……ちゃんと」
言葉は、そこで、途切れた。
「死なせるな」
ルクレール卿の声が、天幕を、貫いた。
「その男は、裁きを、受けねば、ならぬ。命を、絶つことで、罪から、逃れることなど、許さぬ。医師、何としても、持ちこたえさせよ」
「……承知、いたしました」
ジルベールが、奥歯を、噛みしめる音が、聞こえた。
「捜索は、した。外套も、袖も、靴も。……歯の奥までは、見ていなかった」
低い、悔しさの、にじむ声だった。私は、振り返って、首を、横に、振る。あなたの、せいじゃない、と、伝えたくて。彼は、ほんの少し、目を、伏せた。
ロベール医師は、額に、汗を、浮かべながら、薬箱を、探る。
「月下草と、眠り草の、混合なら、解毒の薬が、ある。ただし、飲み込む力が、残っていれば、の話だ」
「どのくらい、猶予が」
「……十分も、あれば、御の字です。急がねば」
医師の、短い、答えに、背筋が、凍る。それでも、彼の手は、一度も、止まらなかった。小さな、薬瓶の栓を、抜き、白い粉を、匙に、移していく。
ジルベールが、クロードの体を、支え、床に、横たえた。デュボワ卿が、上着を、脱いで、枕に、あてがう。誰もが、ひとつの目的のために、動いている。その輪の外で、ミレイユが、水差しを、抱えて、走ってくる。イザベルが、濡らした布を、差し出した。
私は、クロードの手を、そっと、握る。
冷たかった。さっきまで、茶碗を、包んでいた、手なのに。
許さない、と、言ったばかりだった。
それなのに、いま、私は、この人を、死なせたくないと、必死に、願っている。矛盾している、と、わかっている。わかっていて、それでも、手を、離せなかった。
肩に、大きな手が、置かれる。ジルベールだった。何も、言わない。けれど、その手の重みが、崩れかけた私を、支えてくれた。
「兄様。死んでは、だめです」
声が、かすかに、震えた。
「生きて、罪を、償ってください。……お願い、です」
父が、膝を、折って、クロードの傍らに、崩れ落ちる。
「クロード。クロード……!」
絞り出すような声が、天幕の中に、響いた。
天幕の外で、群衆が、どよめく。毒を、あおった、という声が、人づてに、広場へ、流れ出したのだろう。ざわめきが、波のように、広がっていく。
四半刻を告げる、鐘楼の鐘が、一度、重く、鳴った。
正午まで、あと、十五分。




