客のままだった人
天幕の中央に、ふたつの椅子が、運ばれてきた。
ひとつは、私の席。もうひとつは、クロードの席。
その間には、小さな卓が、置かれた。傍聴席から、手を伸ばせば、触れられるほどの、距離だった。
縄は、ない。見張りの騎士が、ふたり、彼の背後に、立っている。
ジルベールは、私の後ろで、じっと、動かない。その気配だけが、背中を、あたためていた。
「ありがとう、レティ。座ってくれて」
クロードは、先に、口を、開いた。
「ずっと、考えていたんだ。いつか、君に、すべてを話す日が、来るのなら、どんな顔をしていよう、と。……結局、こうして、笑っている」
その声には、もう、取り繕う色が、なかった。
疲れた大人の、飾りのない声。幼い頃、枕もとで聞いた、あの声と、同じだった。
「教えてください。クロード兄様」
私は、昔の呼び名で、問いかけた。
「どうして、私だったのですか」
彼は、一度、目を閉じた。
それから、ゆっくりと、話しはじめる。
「私の父ラザールは、君の、お母上の、兄だった。サン=ロラン家は、旧い名だけが残った、貧しい家でね。父は、その名を守ることに、疲れ果てていた」
父が、わずかに、顔を、伏せる。
「母は、私が七つのときに、父は、十四のときに、亡くなった。そして、このお屋敷に、引き取られることに、なったんだ。……伯父上は、親切だった。本当に。食べるものも、着るものも、不自由なく、与えてくださった」
「……だが」
父が、低く、言った。
「おまえを、息子と、呼んでやることは、できなかった」
「ええ。それが、当然でした。私は、客だったのです。いつまでも、客のまま、ありました」
クロードは、薄く、笑った。
「屋敷の、どの部屋に入っても、どこか、よそ者の、気がした。家族の食卓の、いちばん端。レティの、誕生日の祝いの席でも、私は、いつも、少し、うしろに、いた」
「……そう、思わせて、しまったのだな」
父の声は、ひどく、小さかった。
「義兄の子を、預かった、と。そればかりを、考えて、おまえが、何を、欲しているのかを、一度も、訊かなかった。……愚かな、伯父だ」
「伯父上のせいでは、ありません」
「いや。私の、せいだ。おまえの、せいでは、ない。……だが、毒を入れたことは、おまえの、罪だ」
クロードは、しばらく、父を、見つめていた。
「……はい、伯父上。それは、私が、負います」
そう答えた声は、幼い子どもが、叱られたあとのように、あどけなく、聞こえた。長い年月、胸に、しまいこんできた何かが、ようやく、父に、届いたのかもしれない。それでも、取り返しのつかない時間は、砂時計の砂のように、もう、戻らなかった。
父は、顔を、上げる。
涙が、頬を、伝っていく。それでも、父は、目を、そらさない。
私は、息を、のんだ。
思い返せば、そのとおりだった。誰かが、悪意を持って、彼を、遠ざけたわけではない。けれど、誰も、その距離に、気づこうとしなかった。
「やがて、侯爵家の、跡継ぎが、いないことが、問題になった。男子が、いなかったから。君が、嫡女として、すべてを継ぐと、決まったとき。……私の中で、何かが、切れたんだと、思う」
「それで」
デュボワ卿が、静かに、口を挟んだ。
「後見人の立場を、狙われた」
「狙った、というより、それしか、残されていなかった。レティが、成人して、家を継げば、私は、この家を、出ていくしかない。けれど、レティが、成人できなければ。あるいは、後見が、必要な、状態に、なれば」
その先は、言わなくても、わかった。
後見人として、侯爵家の、すべてを、動かす。誰にも、疎まれず、誰の、客にも、ならずに。
「……あの毒の、ことも」
私の声は、思ったより、落ち着いていた。
「あなたは、最初から、私が、杯を、渡す場面を、狙っていたのですね」
「そうだよ。お茶会の、日。杯の、中に、毒を入れて、君の手から、殿下に、渡るように、した」
天幕が、ざわり、と、鳴った。
ミレイユが、息を、のむ音が、聞こえた。イザベルが、その肩を、抱き寄せる。天幕の外から、正午を待つ、群衆の、ざわめきが、薄い布を、通して、にじんでくる。ここだけが、世界から、切り離されたように、静かだった。
「殿下には、申し訳ないことをした、と、思っている。……思っている、つもりだ。けれど、あのとき、私の頭には、ひとつの、答えしか、なかった。レティが、いなくなれば、すべてが、解決する、と」
クロードの声が、わずかに、震えた。
「怖かったんだよ、レティ。この家で、居場所を、失うのが。……そんな、愚かな理由で、君を、地獄へ、突き落とした」
「月下草は」
ロベール医師が、低く、問うた。
「どこで、手に入れました」
「二年前、北の修道院に、遊学した折に。薬草園の、片隅に、その、花が、咲いていました。修道士の、目を、盗んで、少しだけ、持ち帰ったのです。そのときは、使うつもりなど、なかった。……本当に」
彼は、自嘲するように、笑った。
「ルネと、コレットには、取り返しのつかない、ことを、した。あの兄妹は、何も、悪くない。それだけは、はっきり、言っておきます」
ルネが、唇を、噛みしめたまま、深く、深く、頭を、下げる。妹の名が、出た瞬間、その肩が、小さく、震えていた。
クロードは、傍聴席の、アルベールに、ふと、目を、向けた。
「アルベール殿。あなたを、責める、つもりは、ありません。あなたが、揺れていたことを、私は、知っていた。その、迷いに、つけ込んだのは、私です」
アルベールは、何も、答えなかった。唇を、固く、結んだまま、膝の上の、拳を、見つめている。
私は、膝の上の、手を、ぎゅっと、握りしめた。
息を、三つ、数える。ひとつ、ふたつ、みっつ。数えるあいだに、泣き出しそうな、自分を、なんとか、押しとどめた。ここで、泣いてしまえば、この人の言葉を、きちんと、聞き届けられなくなる。
怒りは、あった。怒りは、確かに、あった。けれど、同時に、胸の底に、冷たい、哀れみが、広がっていく。
もし、あの頃の私が、一度でも、彼の隣に、座って、「兄様は、何が、したいの」と、訊いていたら。そんな、ありもしない、たらればが、頭の中を、よぎっては、消えていく。
「……兄様」
「うん」
「私は、あなたを、許しません」
はっきりと、告げる。
クロードは、ほんの少し、目を、見開いた。
それから、嬉しそうに、まぶたを、細めた。
「そうだね。それが、いい」
「でも、あなたが、この家で、ひとりだったことは、わかりました。気づけなかった、私にも、責任の、一端は、あるのだと、思います」
「レティ」
「だからこそ。……あなたの罪は、あなたの、罪として、裁かれてください。誰かの、せいにせず。私の、せいにも、せずに」
背後で、ジルベールが、小さく、息を、吸う音が、した。
咎めるでも、褒めるでも、ない。ただ、私の、言葉を、最後まで、聞いてくれていたのだと、それだけで、わかった。
天幕の中が、しん、と、静まり返る。誰かが、小さく、鼻をすする音が、した。
ルクレール卿が、ゆっくりと、頷く。
「クロード・ド・サン=ロラン。いまの、供述は、すべて、事実か」
「事実です」
「毒を、杯に入れた。その、罪を、認めるか」
「認めます」
はっきりとした、答えだった。
父は、両手で、顔を、覆う。デュボワ卿が、静かに、目を、閉じた。
そのとき、ふっと、クロードが、顔を、上げた。
「ただ、判事長閣下。ひとつだけ、お願いが、あります」
「申せ」
「処刑の、時刻は、変えられない。それは、わかっています。ですが、その前に。……レティに、別れの茶を、淹れて、あげたい」
私は、目を、見開いた。
「別れの茶、とは」
「古い、習わしです。罪人と、親族が、最後に、共に、茶を、飲む。私が、淹れたいのです。この手で、最後に」
天幕の中の、空気が、ぴんと、張りつめた。
ジルベールの手が、私の椅子の背を、ぎゅっと、掴む。
罠、かもしれない。
誰もが、同じことを、考えている。それが、肌に、伝わってくる。
けれど、クロードの、瞳は、澄んでいた。
澄み切って、まるで、すべてを、手放した人の、目に、似ていた。
「……閣下」
私は、判事長を、見た。
「その、お茶の件。後ほど、お答えしても、よろしいでしょうか。いまは、考える時間を、いただきたく」
「よかろう。ただし、鐘までは、あと、二十分だ」
ジルベールが、身をかがめ、私の耳もとで、ささやいた。
「受けるなら、毒見は、私が、する。茶葉も、湯も、茶碗も、すべて、こちらで、用意する」
「……はい」
「どんな、結論でも、私が、そばにいる。それだけは、忘れるな」
短い言葉だった。けれど、迷いかけていた足が、まっすぐ、床を、踏み直す。
砂時計の、砂が、また、ひとつ、音を、立てた。
処刑まで、あと二十分。




