革の袋
「……判事長閣下」
最初に口を開いたのは、ジルベールだった。
「月下草の入手先について、ひとつ、お伝えしておくべき者がおります。証言を、許可願います」
「誰だ」
「ルネ。ヴァルモン家の、元・見張りの騎士です」
天幕の隅に、立っていた青年が、びくり、と、肩を揺らした。
顔色は、ひどく悪い。けれど、足は、まっすぐ、前へ出た。
「ルネ」
クロードが、柔らかく、呼んだ。
「おまえには、無理をさせたね。もう、いいんだよ。下がっていなさい」
「……いいえ」
ルネの声は、掠れていた。
「もう、下がりません」
彼は、判事長の前で、片膝をついた。
「ルネ・ガルニエと申します。私は、これまで、嘘をついて、まいりました。その、償いを、させてください」
「許す。述べよ」
「私の、妹、コレットが、人質に、とられていたのです。クロード様の、指示に従わなければ、妹の、身の安全は、保証しない、と」
天幕が、ざわめいた。
クロードは、小さく、首を振る。
「ひどい言いがかりだ。私が、そんなことを」
「コレット嬢は、すでに、保護しております」
ジルベールが、遮るように、言った。
「昨夜のうちに、騎士団が、郊外の宿から、お連れした。いまは、団の、詰所で、安全に、過ごしておられる。傷ひとつ、ない」
ルネの背中が、大きく、震えた。
それから、堰を切ったように、顔を、覆う。
「……ありがとう、ございます。……ありがとう、ございます」
帽子を脱いだ若い騎士が、そっと、ルネの隣に、歩み寄った。広場で見かけた、あの同僚だった。何も言わず、彼の背に、手を、置く。ルネは、その手に、すがるように、しばらく、顔を伏せていた。
私は、胸の前で、そっと、手を握った。
この人は、ずっと、ひとりで、耐えていたのだ。見張りの顔のまま、怯えながら、それでも、私の部屋の前に、立ち続けて。
ルクレール卿が、咳払いをした。
「ルネ・ガルニエ。話を、続けよ」
「はい」
ルネは、顔を、上げた。
「お茶会の、数日前。私は、クロード様から、小さな、革の袋を、預かりました。『庭の薬草だ。厨房の、老女に、渡してほしい』と」
「中身は」
「見るなと、言われました。ですが、開けた、袋の口から、黄色い、粉が、こぼれたのです。見慣れぬ、においが、しました」
クロードの、笑みが、すっと、薄くなる。
「私は、おそろしくなって、袋を、渡さずに、自分の、寝床に、隠しました。その後、あの、悲劇が、起きて。……ずっと、口に、できなかった」
「その袋は」
デュボワ卿が、静かに、問う。
「いまも、お持ちですか」
「いえ。昨夜、ジルベール様に、お渡しいたしました。寝床の、床板の、下から」
ジルベールが、懐から、小さな、革の袋を、取り出した。
擦り切れた、茶色の袋。口は、細い紐で、結ばれている。
ロベール医師が、袋の口を、そっと、開く。
中を、覗き込んで、顔を、上げた。
「間違いありません。乾燥させた、月下草。それも、かなりの、量です」
「待ってください、閣下」
クロードが、穏やかに、口を挟んだ。
「その袋は、ルネの寝床から、出たのでしょう。ならば、ルネ自身の、持ち物では、ありませんか。妹を助けたい一心で、誰かに、罪を、着せようとしている。そうは、考えられませんか」
悪くない反論だった。
傍聴席の何人かが、迷うように、顔を見合わせる。ルネが、唇を、噛みしめた。
「袋を、お改めください」
デュボワ卿が、淡々と、言った。
「袋の、底の、縫い目の内側に、小さな、刻印が、あります。ロベール先生、お願いします」
医師が、袋を、裏返し、虫眼鏡を、当てる。
やがて、ゆっくりと、読み上げた。
「……三つの、星と、一羽の、鳥。サン=ロラン家の、旧い、紋章です」
天幕の中の空気が、凍りついた。
紋章。それは、クロードの、生家であるサン=ロラン家の、さらに古い時代のもの。屋敷の、古い蔵書の、背表紙にも、同じ印が、押してあった。
「ルネ殿に、そのような、旧家の、袋を、手に入れる、縁は、ございません」
デュボワ卿の、声は、冷ややかなほど、静かだった。
「この袋の、持ち主は、おのずと、わかります」
クロードは、何も、答えなかった。
ただ、微笑みを、貼りつけたまま、袋を、見つめている。
「そして、こちらは」
ジルベールが、もうひとつ、懐から、小さな、紙包みを、出した。
「ルネの寝床の、隣の、棚から、見つかった、もの。眠り草の、粉です。月下草と、混ぜれば、杯の中で、時間差で、効き目が、出る」
ロベール医師が、うなずいた。
「ええ。私が、殿下の、症状から、推測した、毒の、調合と、一致します」
その瞬間、私は、確信した。
もう、言い逃れは、できない。誰の目にも、そう、見えた。
ルクレール卿は、書記官に、手を止めるな、と、目で、命じる。ペンが、紙の上を、走る音だけが、天幕の中を、埋めていった。
天幕の中が、また、ざわめきはじめる。
ルクレール卿が、手を、挙げるまでもなく、人々は、息を、のんで、静まった。
クロードは、ひとつ、深く、息を、吐いた。
「……参りましたね」
その声は、驚くほど、穏やかだった。
追い詰められた者の、声では、なかった。
「ルネ。おまえは、本当に、優しい子だ。そんな、袋を、持っていたなんて」
「クロード様」
「私は、ただ、おまえの妹を、守ってやりたかっただけなのに。……残念だ」
そのとき、長椅子から、重い音が、した。
父が、立ち上がったのだ。
「クロード」
低い、かすれた声だった。
父の顔は、血の気が、失せていた。それでも、目だけは、まっすぐに、甥を、見据えている。
「おまえの、母は、私の、妹だった。……その、妹の、忘れ形見を、私は、実の息子のように、思ってきた」
「存じております、伯父上。感謝も、しております」
「ならば、なぜ」
父は、そこで、言葉を、詰まらせた。
一歩も、動けないまま、肩を、震わせている。
クロードは、父を、見つめ返した。
その瞳に、ほんの一瞬、深い、深い、哀しみが、よぎったように、見えた。
「……それは、あとで、お話しします。伯父上」
ぞくり、と、背筋が、冷えた。
ここまで、証拠を突きつけられても、彼は、まだ、「善人」の仮面を、かぶり続けている。
「判事長閣下」
クロードは、ゆっくりと、一礼した。
「状況が、変わったようです。これ以上は、私の口から、お話しするより、レティと、直接、話をさせていただけませんか」
「被告と?」
「はい。従妹と、二人きりで、とは、申しません。この場で、皆様の、前で。……私が、なぜ、あんなことを、したのか。レティには、知る権利が、ある」
天幕の中が、静まった。
それは、自白の、前触れなのか。
それとも、最後の、罠なのか。
天幕の外では、正午を待つ群衆の、低い、ざわめきが、波のように、寄せては、返していた。窓の布の、向こうで、鐘楼の、影が、少しずつ、石畳を、短くしていく。
私は、膝の上で、ぎゅっと、拳を、握った。
思い出すのは、幼い日のこと。
熱を出して、寝込んだ夜、枕もとで、こっそり、飴を、くれた従兄。「内緒だよ、レティ」と、笑った顔。
あの笑顔を、私は、いまでも、憎みきれずにいる。それが、いちばん、悔しかった。
視界の隅で、アルベールが、立ち上がりかけて、また、座った。
何かを、言いたそうに、こちらを、見ている。けれど、いまの彼に、できることは、何もない。それを、彼自身が、一番、わかっているのだろう。
私は、思わず、ジルベールを、見上げる。
彼は、私の視線を、まっすぐに、受け止めた。そして、ほんのわずかに、首を、横に、振った。『受ける必要は、ない』と、言うように。
けれど、私は、前へ、進み出た。
「お受けします」
「レティシア嬢」
「大丈夫です。……聞きたいのです。あの人の、口から」
ジルベールは、ひとつ、息を、吐いた。それから、何も言わずに、半歩、下がる。けれど、離れはしなかった。私の、すぐ後ろ。腕を伸ばせば、触れられる距離に、彼は、立ち続けていた。
ルクレール卿は、しばらく、私を、見つめていた。
やがて、砂時計に、目を、やる。
「許可する。ただし、あと、二十五分だ。その間に、すべてを、語れ」
デュボワ卿と、ヴェルニエ卿が、低く、言葉を交わす。ミレイユは、イザベルの袖を、そっと、握りしめていた。天幕の中の、誰もが、息を、深く、潜めている。羽根ペンの音さえ、止まっていた。
クロードが、微笑んだ。
その笑みは、初めて、仮面では、なかった。
悲しみとも、安堵とも、つかない、素の、笑みだった。
まるで、長いあいだ、背負ってきた荷を、ようやく、下ろせる、と、でも言うような。
その顔を、見て、私は、はっきりと、痛いほど、わかった。この人は、最初から、最後まで、私の、知っている、あの従兄でも、あったのだ、と。
処刑まで、あと二十五分。




