白い布
指さされたクロードは、しばらく、何も言わなかった。
砂時計の砂が、また、ひと筋、落ちる。
やがて、彼は、ふっと、息を吐いて、笑った。
「ミレイユ嬢。あなたの勇気には、敬意を表します」
声は、まだ、優しかった。
けれど、その優しさの下で、何かが、軋んでいるのが、わかった。
「ただ、判事長閣下。この方は、被告の、お友達です。お茶会の日も、レティの、そばにおられた。友人の言葉は、どうしても、庇う方へ、傾くものでは」
「友人であることは、否定いたしません」
ミレイユは、扇も持たない手を、胸の前で、ぎゅっと、握った。
「ですが、見たものは、見たままです。あの日、私は、卓の端で、焼き菓子の皿を、並べておりました。そのとき、白い手袋の方が、杯の前に、立たれたのです」
「白い手袋?」
「はい。他の方々は、素手でした。お茶の席では、手袋を外すのが、作法ですから。覚えているのは、それだけ、ひとりだけ、外していなかったからです」
天幕の中が、ざわめいた。
ルクレール卿が、書記官に、顔を向ける。
「記録せよ。……クロード殿。あの日、手袋を、していたか」
「していました。母の形見に、素手で触れるのは、気が引けますので」
即答だった。
否定すれば、嘘になる。彼は、それを、よく、わかっている。
「では、杯に、触れたことは、お認めになる」
「触れましたとも。預かっていた、杯ですから。お茶会の席に、運び、卓に置いたのも、私です。それは、先ほども、申し上げた通り」
彼は、にこやかに、続けた。
「ですが、触れた、と、毒を入れた、は、別の話です。閣下は、公平な方と、伺っております」
巧みな、切り返しだった。
ミレイユの肩が、わずかに、縮む。イザベルが、その背に、そっと、手を添えた。
そのとき、私の背後で、椅子が、きしんだ。
「閣下。発言を、許可願います」
ジルベールだった。
彼は、被告席のすぐ脇で、一歩、前へ出る。
「監視騎士団、ジルベール・ロシュ。レティシア嬢の、監視を、任されていた者として、申し上げます」
「許す」
「お茶会の準備について。杯を卓に置いたのは、クロード殿、とのこと。では、杯の、中身は、いつ、誰が、満たしましたか」
ルクレール卿の目が、わずかに、細くなる。
「あの杯には、お茶が、注がれていたのではない。レティシア嬢が、殿下に、お渡しする、祝福の、一杯、だったと聞く。その、中身を、杯に注いだのは」
「それは」
クロードが、口を、開きかけた。
そこへ、私が、立ち上がった。
「私です。閣下」
視線が、一斉に、こちらへ、集まる。
膝は、まだ、少し、震えていた。けれど、声だけは、きちんと、出た。
「杯の中身は、侍女の、ニナが、厨房から、運んだ、銀の壺から、私自身が、注いだものです。壺の、お茶に、毒は、ありませんでした。その後、殿下に、杯を、お渡しするまでの間に、杯の中に、何かが、入ったのだと、思います」
「根拠は」
「壺から、同じお茶を、飲んだ、人が、他にも、いたからです。誰も、倒れて、おりません」
天幕が、しん、と、静まった。
ルクレール卿は、顎に、指を当て、長く、考え込む。
「……つまり、毒は、杯そのものに、仕込まれていた。あるいは、注いだ、後に、加えられた」
「はい」
「杯を、最後に、整えたのは」
「手袋の、方です」
ミレイユが、はっきり、言った。
クロードの口元が、ほんの少し、引きつる。それでも、彼は、笑みを、保っていた。
「閣下。ひとつ、申し上げても。毒を入れた者が、わざわざ、人前で、白い手袋を、はめたまま、杯に、触れるでしょうか。目立つにも、ほどがある。私が犯人なら、手袋など、外します」
「……なるほど」
ルクレール卿の声が、わずかに、揺れた。
その揺れを、傍聴席の誰もが、聞き取った。
悔しさが、胃の底から、せり上がる。
あと、一歩。どこか、あと一歩が、足りない。
そのとき、デュボワ卿が、そっと、私に、目配せをした。
ヴェルニエ卿が、短く、頷く。
デュボワ卿は、立ち上がり、静かに、告げた。
「判事長閣下。その手袋について、確かめたい、ことがございます」
「申せ」
「クロード殿は、いま、素手で、おられる。あの日の、手袋は、どこに」
クロードの視線が、ほんの一瞬、泳いだ。
「……さあ。どこかに、しまったか、洗ったか。ずいぶん前のことですので」
「では、念のため、外套の中を、改めさせていただいても」
「構いません。何も、出ませんよ」
彼は、両腕を、広げてみせた。
騎士のひとりが、近づき、外套の、内側を、探る。
私は、息を、止めた。
騎士の手が、止まる。
ゆっくりと、引き出されたのは、折りたたまれた、白い布、だった。
「判事長閣下。こちらが」
ルクレール卿の前に、布が、広げられた。
手袋、ではなかった。大きな、白い、絹の、ハンカチーフ。
端に、小さな、刺繍が、ある。
銀糸で、縫い取られた、細い、三日月の模様。
「それは、母の、形見の、杯と、揃いの、布です」
クロードが、穏やかに、言った。
「杯を、包むための、布。持ち歩くのが、習慣なので」
「習慣、ですか」
ルクレール卿は、布を、光に、かざす。
隅の方に、薄く、淡い、黄味がかった、染みが、ひとつ、残っていた。
「……これは」
天幕の空気が、変わった。
クロードは、まだ、微笑んでいる。けれど、その指先は、外套の、袖口を、固く、握りしめていた。
「ロベール医師を、これへ」
判事長が、書記官に、命じる。
「布の染みを、見てもらおう。外に、待たせてあると、聞いている」
ジルベールが、短く、頷いた。
最初から、そのつもりで、手配していたのだ、と、わかった。
天幕の入口が、再び、開く。
白い髪の、小柄な、老医師が、薬箱を、抱えて、入ってきた。
ロベール医師は、判事長に、深く、頭を下げた。
「王女殿下の、遺体を、検めた者として、お答えします」
「この布の、染みを、見てほしい。何の、跡か」
医師は、白い布を、受け取り、窓の光に、透かした。
鼻先に、近づけ、目を閉じる。それから、薬箱から、小さな硝子の瓶を、取り出し、染みの端に、一滴、垂らした。
淡い黄色が、すっと、薄青に、変わっていく。
医師の肩が、小さく、揺れた。
「判事長閣下。これは、お茶の、跡では、ございません」
「では」
「月下草の、汁です。乾くと、このように、黄味を、帯びる。この薬液に、触れると、青く、変わる。殿下の杯の、内側に、残っていた、毒と、同じ反応です」
天幕の中の、ざわめきが、爆発した。
傍聴席の、誰かが、立ち上がる。誰かが、悲鳴に近い声を、上げる。
ルクレール卿が、手を、挙げた。
「静粛に。静粛に、せよ」
ざわめきが、波のように、引いていく。
その中で、クロードだけが、動かなかった。
「……クロード殿」
判事長の声は、低く、そして、重い。
「この布は、あなたの、外套の、内側から、出てきている。そして、杯の毒と、同じ、反応を、示した。説明を、聞こう」
クロードは、ゆっくりと、顔を、上げる。
微笑みは、まだ、そこにあった。けれど、それは、仮面のひびを、必死に、抑えているような、ひどく、疲れた、笑みだった。
「……薬草の、汁は、庭にも、台所にも、ありますよ。判事長閣下。何かの拍子に、布が、触れたのかもしれない」
「月下草は、屋敷の庭には、生えておりません」
ロベール医師が、静かに、言った。
「北の、山奥にしか、自生しない、薬草です。許可なく、扱える者は、限られております。侯爵家の、薬草庫にも、ございません。……私が、ここ三年、取り寄せた記録も、ございません」
その言葉が、杭のように、クロードの、足元に、打ち込まれた。
私は、彼を、見つめた。
小さい頃、庭で、転んだ私を、抱き上げてくれた人。
母の、墓前で、並んで、手を、合わせてくれた人。
あの、優しい、眼差しの、どこまでが、本物で、どこからが、芝居だったのだろう。
答えは、たぶん、永遠に、わからない。
それでも、今は、見届けなければならなかった。
クロードが、私と、目を合わせた。唇が、動く。声は、なかったけれど、「ごめんね」と、言ったように、見えた。私は、目を、そらさない、と、決めていた。
隣から、ジルベールの、低い声が、耳に、届く。
「息を」
「……三つ、数えています」
「それでいい。最後まで、見届けろ」
彼の声は、いつもより、わずかに、やわらかかった。その響きだけで、折れかけた足に、力が、戻る。
ルクレール卿は、書記官に、何事かを、書き取らせていた。羽根ペンの音が、天幕の中で、やけに、大きく、響く。
傍聴席の、後ろの方で、アルベールが、顔を、覆っていた。
誰も、彼に、声を、かけない。かけられない。彼自身も、それを、わかっているようだった。
砂時計の、砂は、なおも、細く、細く、落ちていく。
処刑まで、あと三十五分。




