指された男
広場は、すでに、人であふれていた。
幌馬車の窓の布を、ジルベールが、指で、わずかにずらしてくれる。
その隙間から、石畳の広場が、見えた。
中央に、組まれた、木の台。
その上に、黒い布をかけた、低い台座が、ひとつ。あれが、私の、立つはずだった場所。
胃のあたりが、きゅっと、縮む。
けれど、今朝までの、足元が崩れるような感覚は、なかった。
「再審の場は、あの白い天幕だ」
ジルベールが、広場の端を、指した。
台の脇に、大きな白い天幕が、張られている。法務院の旗が、湿った風に、はためいていた。
「判事長のルクレール殿は、堅物だが、公平だ。証拠が揃えば、動く」
「揃っていますか」
「揃えるんだ。いまから」
彼は、短く、言い切った。
私は、母の便箋を、内ポケットの奥に、しまい直した。青い玉は、指輪のように、人差し指に、ぎゅっと、握りこむ。
馬車が止まる。
扉が、開いた。
*
群衆が、ざわり、と、揺れた。
「あれが、毒の令嬢か」
「ずいぶん、顔色が、いいじゃないか」
「再審だって? 今さら」
声は、遠慮もなく、飛んでくる。
ジルベールが、私の斜め前に、立った。肩幅の広い背中が、風除けのように、視界を遮る。
「歩け。前だけ見て」
「はい」
石畳を、一歩ずつ、進んでいく。
両側に、騎士団の者たちが、人の壁を、作ってくれていた。その後ろから、投げられる視線の、刺々しさに、足が、止まりかける。
ふと、人垣の端に、小さな影が、見えた。
籠を抱えた、老婆。厨房で、毎朝、私に、パンを焼いてくれた人だった。
彼女は、何も言わずに、胸の前で、両手を、組み合わせていた。
その隣で、見張りの若い騎士が、そっと、帽子を、脱ぐ。ルネの同僚だった。
屋敷の使用人たちが、あちこちに、立っている。
誰も、声は、上げない。ただ、黙って、そこに、立っていた。
涙が、にじみそうになって、私は、顔を、上げた。
「息は」
「三つ、数えました」
「結構」
ジルベールの背中が、わずかに、揺れる。
笑ったのかもしれない、と思った。
*
天幕の中は、薄暗く、ひんやりとしていた。
正面の高い席に、白い髪の男が、座っている。
法務院の黒い法衣。鷲のような鼻筋。判事長ルクレール。
その左右に、書記官が、二人。
右手の長椅子には、父と、ティシエが、並んで、座っていた。そのうしろに、司祭ベネディクト。後方の傍聴席には、アルベールの姿も、見えた。
「被告席へ」
ルクレール卿の声は、乾いて、よく通った。
「レティシア・ド・ヴァルモン。あなたは、すでに、死刑の判決を、受けている。本日の再審は、新たな証拠の、申し立てによるものだ。その申し立ては、誰が」
「私です」
父が、立ち上がった。
「ヴァルモン侯爵ギヨーム。娘の、父として、再審を、申し立てます」
「侯爵。あなたは、先日、別邸に、引きこもっておられたと聞くが」
「ええ。愚かにも、無実の娘を、見捨てました。その、償いに、参りました」
その声は、天幕の中に、深く、響いた。
傍聴席の人々の、ざわめきが、ぴたりと、止まる。
「結構。では、証拠の提出を。ただし、本日の再審は、十一刻五十分を、期限とする。正午の鐘とともに、いかなる判断であれ、刑は、執行される」
期限を告げる声は、冷静だった。
砂時計が、書記官の机の上に、ひっくり返される。細い砂が、さらさらと、落ちはじめた。
ルクレール卿が、書記官に、合図を、送った。
そのとき、天幕の入口が、開く。
二人の騎士に、挟まれて、入ってきたのは、クロードだった。
縄は、外されている。シャツの上に、薄い外套が、かけられていた。顔には、疲れが、浮かんでいる。けれど、背筋は、まっすぐで、微笑みは、崩れていない。
「遅くなりました。判事長閣下」
クロードは、丁寧に、一礼した。
「ヴァルモン侯爵家の、甥、クロード・ド・サン=ロランです。本日の再審に、親族として、出席させていただきたく」
「あなたは、公文書偽造の嫌疑で、拘束されていると聞いている」
「ええ。ですが、私は、無実を、確信しています。この場で、すべてを、明らかにしたい。そのために、特別の許可を、いただきました」
彼は、被告席の私に、視線を、移した。
「おはよう、レティ。眠れたかい」
「……はい。おかげさまで」
皮肉に、聞こえないよう、静かに、答える。
彼は、嬉しそうに、まぶたを、細めた。
デュボワ卿が、眉を寄せた。
ヴェルニエ卿が、小さく、首を振る。止められなかった、という合図だった。
クロードは、父の方へ、向き直った。
「伯父上。おはようございます」
「……クロード」
「お目にかかれて、嬉しいです。お元気で、何より」
声は、あくまで、優しかった。
その優しさに、天幕の中の空気が、少しだけ、揺らいだ。
*
デュボワ卿が、立ち上がった。
「判事長閣下。まず、事実を、整理いたします」
彼は、持参した書類を、卓に広げた。
署名の練習の束。公証人ティシエの、写しと、書き込み。偽造の診断書。そして、母の、補足遺言書。
ひとつずつ、淡々と、説明していく。ルネの供述書も、その中に、加えられた。ルネ本人は、天幕の隅で、青ざめた顔のまま、まっすぐ、立っている。
ルクレール卿の、眉が、少しずつ、寄っていった。
「補足遺言書の、封印は」
「ティシエ殿が、確認しております」
ティシエが、立ち上がった。
「間違いなく、私の手による、封印でございます。三年前の、ヴァルモン侯爵夫人の、ご依頼で」
ルクレール卿は、黙って、書類を、見つめる。
やがて、ゆっくりと、顔を上げた。
「動機は、理解した。後見を、急いだ理由も。……だが」
彼は、デュボワ卿を、まっすぐに、見た。
「動機は、動機にすぎぬ。王女殿下を、死に至らしめた、毒を、誰が、杯に入れたのか。それを、直接、示す証拠は」
「それは」
デュボワ卿の声が、わずかに、詰まった。
「現在のところ、状況証拠が、中心です」
「状況証拠だけでは、一度下した判決は、覆せぬ。法の、重みというものがある」
その言葉に、傍聴席が、ざわついた。
クロードが、そっと、微笑んだ。
「判事長閣下。私からも、よろしいでしょうか」
「許す」
「私が、杯に、毒を入れた、と、申し立てる者は、おりますか」
天幕の中が、静まった。
「私は、あの杯を、十五日間、預かっておりました。それは、事実です。けれど、毒を入れたという証拠は、どこにも、ない。布越しに、杯に触れていたのは、母の形見を、汚さないための、習慣です」
「……」
「疑われるのは、構いません。ですが、証拠なき疑いで、人を裁くのは、危うい。それは、昨日までの、レティの、判決と、同じではありませんか」
巧みだった。
自分が、疑われている立場を、逆手に取って、「証拠なき裁き」の、危うさを、説く。
天幕の人々の、顔に、迷いが、浮かぶのが、見えた。
私は、拳を、握りしめる。
あの人は、最後まで、一人の、役者だった。
「……証人は」
ルクレール卿が、低く、言った。
「実際に、毒を入れる場面を、見た者は、おらぬのか」
その問いに、傍聴席の後方から、静かな声が、答えた。
「おります」
天幕の布が、ふわりと、揺れた。
後ろの席から、立ち上がったのは、小柄な、少女だった。
灰青の外套。几帳面に、結われた髪。小さく角ばった字を書く、あの人。
ミレイユ。
隣で、堂々とした背筋の、令嬢が、扇を、閉じて、立ち上がった。
イザベル。
彼女は、私と目が合うと、ほんのわずかに、あごを引いた。『見ていますわ』と、言うように。
昔は、近寄りがたいほど、まぶしく見えた人が、いまは、頼もしい味方の顔をして、そこに立っている。
私は、震えそうな膝に、そっと、力を込めた。あの日、怯えて、うつむいていた少女が、いま、私のために、立ってくれている。その事実が、胸を、まっすぐに、支えてくれた。
「判事長閣下。私、ミレイユと申します」
細い声が、天幕の隅まで、届いた。
「あの日、王女殿下の、お茶会で。杯の置かれた、卓の、すぐそばに、おりました」
クロードの肩が、わずかに、動く。
「見たままを、お話しします」
ミレイユは、まっすぐに、前を、見た。
「レティシア様が、殿下に、杯をお渡しになる、少し前。卓に、近づいた方が、おられました」
天幕の中の、全員が、息を、止めた。
被告席の脇で、ジルベールの指が、私の椅子の背に、そっと、触れる。触れたまま、動かない。そこにいる、とだけ、伝えるために。
「その方は、白い布で、杯を、包み直して。内側に、指を、触れぬよう、そっと、置いて。……そして、にこやかに、立ち去られました」
「その方の、名は」
ミレイユは、ゆっくりと、片手を上げた。
その指先が、まっすぐに、ひとりの、男を、指した。
指された男の顔から、貼りついていた微笑みが、はじめて、音もなく、剥がれ落ちる。
砂時計の砂が、さらさらと、落ちていく。誰も、まだ、その音以外を、立てなかった。
処刑まで、あと四十分。




