杯の底
証拠保管庫は、本部の三階の、いちばん奥にあった。
階段を上がるあいだ、私は、青い玉を、掌の中で、握りしめていた。母の遺したものが、まだ、どこかに、あるかもしれない。その思いだけで、足が、前へ、出ていた。
鉄の扉に、錠が三つ。
ヴェルニエ卿が、腰の鍵束から、順に、鍵を選んでいく。かちり、かちり、かちり。重い音が、三度、廊下に響いた。
「ここだ」
扉の向こうは、窓のない、細長い部屋だった。
両側の棚に、封をされた箱が、整然と並んでいる。燭台の火が、箱の札を、ひとつずつ、照らしていく。
「ヴァルモン家の件は、この棚だ」
ヴェルニエ卿が、白い布をかけた、小さな箱を、卓に置いた。
布を取ると、金縁の白い杯が、そこにあった。
昨夜、卓の上で、水を湛えていた杯。
母の、杯。
「触れても、いいですか」
「記録は、私が取る。どうぞ」
保管庫の係の騎士が、帳面を広げて、ペンを構えた。
「証拠物件、白磁の杯、金縁。開封、午前十刻半」
淡々とした声が、これから起こることの、重さを、いっそう際立たせた。
私は、手袋をした手で、杯を、そっと、持ち上げた。
縁は、よく磨かれている。内側にも、傷ひとつない。底には、小さな、青い百合の絵が、ひとつ。
指先で、その青を、なぞった。
つるりとした、冷たい感触。絵ではなく、硝子のような手ざわりだった。
「……やっぱり」
胸の内ポケットから、青い玉を、取り出した。
それを、百合の中央に、そっと、近づける。
色が、ぴたりと、重なった。
いや、それだけではない。百合の花芯のところに、ごくわずかな、丸い凹みがある。玉と、同じ大きさの。
「ロシュ卿。見ていてください」
「ああ」
ジルベールの声が、すぐ後ろで、低く、答えた。
彼の手は、私の背中の近くに、そっと、添えられている。触れては、いない。ただ、いつでも、支えられる距離に。
私は、玉を、凹みに、はめ込んだ。
かちり。
小さな音が、鳴った。
続けて、杯の底が、ほんのわずかに、持ち上がる。
縁を押さえて、底を、半回転させると、ぱかり、と、二重底の蓋が、外れた。
*
中には、薄い、巻いた紙が、入っていた。
羊皮紙ではない。母が、いつも使っていた、薄い、水色の便箋。
その上に、小さな、折りたたんだ書面が、一枚、重ねてある。
息が、止まった。
「触れるな」
ヴェルニエ卿が、手袋を、差し出した。
「封蝋の跡が、ある。公証人の印だ。記録しながら、開く」
「はい」
書面を、そっと、卓に広げる。
冒頭に、見慣れた、細い字が、並んでいた。
『補足遺言書。ヴァルモン侯爵夫人エレオノール、これを記す』
母の名前を、そこで、初めて、はっきりと、目にした。
エレオノール。幼いころ、私を、「レティ」と、呼んでくれた声が、耳の奥で、よみがえる。
「読み上げる」
ヴェルニエ卿が、低い声で、読んでいった。
『一、家督は、嫡女レティシアに。二、嫡女が成人前に欠けるときは、侯爵の指名による。ただし、指名には、公証人ティシエ、および、ヴェルディ神殿司祭の、連署を要する。三、いかなる後見も、この二者の同意なくしては、成立せぬものとする』
読み終えて、部屋に、しばらく、沈黙が落ちた。
「……これが」
ジルベールが、低く、言った。
「あの男が、後見に、司祭を、連れてきた理由か」
「司祭様と、ティシエ先生の、連署が、必要だったから」
「そうだ。あの男は、この補足遺言の、存在を、知っていた。だから、二人を、同席させて、署名させようとした」
ヴェルニエ卿が、静かに、続けた。
「日付は、三年前。ティシエ殿の、封印つき。偽造では、ありえない」
「それでは」
「この書面があれば、あの男が、いくら、侯爵の名で、後見を申し立てようと、司祭の署名がなければ、無効だ。そして、司祭は、今朝、署名を、拒んだ」
私は、卓の端を、強く、握った。
エレオノール。
母は、自分の死のあとの、私のことまで、考えていた。病に伏せりながら、公証人を呼び、杯の底に、言葉を沈めて。
あの人は、それを、知っていたのだ。
知っていて、この杯を、十五日間、自分の手元に置いた。母の形見だと言って、何度も、磨いて。
杯の、二重底を、開ける、鍵を探すために。
*
便箋の方を、開く。
水色の紙に、見慣れた、やわらかい字が、並んでいた。
『愛するレティへ。
これを、あなたが読んでいるとき、わたくしは、もう、側にいないでしょう。
あなたの手が、この杯を開けたということは、きっと、とてもつらい時なのでしょう。
ひとつだけ、伝えておきます。
クロードは、優しい子です。それは、本当のこと。
けれど、あの子は、誰かを愛すると、その人の意思を、知らぬ間に、ないものにしてしまう。守りたいという気持ちが強すぎて、相手の「選ぶ」という力を、奪ってしまうのです。
あなたは、あの子の優しさに、すべてを、預けてはいけません。
あなたの人生は、あなたのものです。
そして、どうか、覚えていて。
わたくしは、あなたを、とても、誇りに思っています。
母より』
手紙の最後の行が、にじんで、見えなくなった。
涙が、紙の上に、ぽたり、と、落ちる。
「……読んでも、いいですか」
ジルベールの声が、そっと、傍で、響いた。
「はい」
「いや、違う。私は、読まない。……ただ、そこに、いてもいいか」
「いて、ください」
彼は、黙って、一歩、横に寄った。
視線を、卓の端に逸らしたまま、私の肩の、すぐそばに、立つ。
その距離が、ひどく、ありがたかった。
ふいに、視界の端に、白いものが、差し出される。
ジルベールの、手巾だった。顔は、卓の端を向いたまま、腕だけが、こちらへ、伸びている。
「……以前は、渡しそびれた」
「覚えて、いたんですか」
「忘れては、いない」
私は、それを、受け取って、目元を押さえた。
洗いたての、石けんの匂いが、ふわりと、漂う。
私は、便箋を、胸に抱いた。
母は、わかっていたのだ。あの人の、優しさの、形を。
そして、それを、私に、伝えるために、この小さな杯の、底に、言葉を、残してくれた。
涙が、ぼろぼろと、こぼれる。
けれど、不思議と、心は、静かだった。
*
「……ヴァルモン嬢」
ヴェルニエ卿が、そっと、声をかけた。
「手紙は、あなたの私物だ。持っていなさい。補足遺言は、こちらで、証拠として、預かる」
「はい」
「これで、動機は、確定した。あの男が、あなたを、消そうとした理由。後見を、急いだ理由。杯を、十五日間、手放さなかった理由」
彼の声は、静かだったが、確かな、重みがあった。
「だが、まだ、足りない。これは、動機だ。実行の、証拠ではない」
「わかっています」
「司祭ベネディクト殿にも、使いを出そう。補足遺言の連署人として、再審の場で、証言してもらう」
ヴェルニエ卿が、書記官に、素早く、指示を出した。
「ティシエ殿にも、同じく。二人が揃えば、この書面の、重みは、動かない」
「ガスパール殿には、あとで、確認しよう」
ジルベールが、青い玉に、視線を落とした。
「なぜ、彼が、これを、持っていたのか」
「奥様から、預かった、と言っていました。『お嬢様が、本当に、お困りの時に』と」
「奥様は、すべて、見越しておられた」
静かな、感嘆だった。
私は、青い玉を、もう一度、握りしめた。
小さな硝子の冷たさが、母の手に、どこか、似ている。
そのとき、廊下の向こうから、荒い足音が、近づいてきた。
「ヴェルニエ殿! ロシュ!」
デュボワ卿だった。
顔が、紙のように、白かった。
「何があった」
「神殿から、いま、確認が取れた。……『別れの茶』だ」
その言葉に、背筋が、冷えた。
クロードが、何度か、口にした、あの言葉。「最後の、お茶会ですから」。
「処刑前、囚人に、一杯の茶を供する、古い習わしがある。神殿の者が、立ち会って、囚人が、最後に口にするものだ。その茶を、用意する役目を、サン=ロラン殿が、親族として、昨日の昼に、申し出ていた」
「神殿は、それを」
「許可した。まだ、彼が、拘束される前のことだ。変更は、効いていない」
デュボワ卿の声が、低く、揺れていた。
「あの男は、広場で、茶を、持たせる気だ。誰の手を、使うかは、わからんが」
私は、手の中の、便箋を、強く、握った。
母の言葉が、胸の底で、静かに、響いている。
『あなたの人生は、あなたのものです』
「その茶は、一滴たりとも、口にするな」
ジルベールが、低く、言った。
「何が出されても。誰が、勧めても。私が、先に、毒見をする」
「ロシュ卿が、毒見を?」
「私が、そばに立つ。あなたの杯は、すべて、私の手を、通す」
命じるような、声音だった。
けれど、その奥に、隠しきれない、必死さが、あった。
「……はい」
「息は」
「数えます」
「行きましょう」
自分の声が、驚くほど、はっきりと、聞こえた。
「広場へ。私の、再審の場へ」
処刑まで、あと一時間。




