仮定の話
息を、三つ、数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。
「……信じません」
私は、格子の向こうの顔を、まっすぐ、見た。
「あなたは、嘘をつくとき、右手の親指を、人差し指の側面に、押しつけます。昔から。小さいころ、私に、『僕は、食べていない』と言いながら、飴の袋を隠していたときも」
クロードの右手が、ぴたりと、止まる。
格子を握っていた左手とは、反対側の手だった。親指が、人差し指の腹に、確かに、食い込んでいた。
「……参ったな」
彼は、その手を、ゆっくりと、開いて、笑った。
「そんなことまで、見ているんだね」
「十年、見てきましたから」
「そうだったね」
声に、わずかな、疲れが、滲んでいた。
昨夜までの、完璧な微笑みでは、なかった。
「じゃあ、言い方を、変えよう」
クロードは、寝台に、腰を下ろし直した。
膝の上で、両手を組む。
「仮の話を、しようか。レティ。ただの、仮定の話だ」
「仮定」
「もし、僕が、あの杯に、毒を入れたとして。それは、誰のためだったと、思う?」
息が、浅くなった。
この人は、聞かれることを、承知で、話している。けれど、あくまで、「仮定」の形を、崩さない。あとで、すべてを、翻せるように。
扉の外で、ジルベールが、微かに、身じろぎする気配がした。
「……殿下の、ためでは、ない」
「そうだね。殿下は、何の関わりも、ない人だ」
「では」
「君のためだ」
穏やかな、声だった。
「君が、あの夜の、お茶会で、杯を、口にする。眠るように、静かに、意識を失う。そこに、君の筆跡の、遺書がある。君は、自分の意思で、命を絶った。そう、見える形で」
胸の奥が、冷たく、凍っていく。
私の、筆跡の、遺書。
「……五月十二日の、夜、縄の前に、あなたが、いたのは」
「同じ、理由だよ。二度目の、機会だった」
その答えは、あまりにも、淡々としていた。
「けれど、君は、二度とも、生き延びてしまう。一度目は、殿下が、君の杯を、取ってしまった。二度目は、朝になって、君が、目を覚ました」
「……」
「不思議だったよ。ただの、偶然とは、思えなかった。まるで、誰かが、君を、守っているようで」
クロードの、視線が、ふいに、遠くなった。
「だから、さっき、聞いたんだ。『君は誰だい』って。……君は、本当は、何者なんだい、レティ」
私は、答えなかった。
答えられなかった、というほうが、正しい。
自分が、何者なのか。
この世界の外から来た、という事実は、あまりにも、遠くて、あまりにも、重かった。
「あなたが、ここまで、私を、殺したがった理由を、教えてください」
「殺したがった、わけじゃない」
クロードは、静かに、首を横に振った。
「君が、いなくなればいい、と思っただけだ。……君の名前が」
「名前?」
「ヴァルモンの、嫡女、レティシア。その名前が、あの家から、消えれば、それで、よかった」
声は、ひどく、穏やかだった。
けれど、その穏やかさが、かえって、背筋を、ぞくりと、させた。
「そうすれば、僕は、堂々と、伯父上の跡を継げる。君を、どこか、遠くへ、連れていける。……ひとつも、傷つけず、ひとつも、失わず。それが、いちばん、美しい形だと、信じていたんだ」
「あなたは、誰かを、傷つけました」
「ああ」
彼は、あっさり、認めた。
「殿下は、気の毒だった。……だから、もう、これ以上、犠牲を、増やしたくない。それが、さっきの、取引だ。君が、頷けば、すべて、丸く収まる」
「美しい形、ですか」
声が、少し、掠れる。
「殿下は、もう、戻りません。ルネの妹さんは、薬を盾に、脅されている。お父様は、眠らされて、指輪を、奪われました。それでも、あなたは、傷つけずに済んだと、おっしゃるのですか」
「……」
「あなたが言う『ひとつも失わない』の中に、あなた以外の、人間は、入っていないのではありませんか」
クロードは、すぐには、答えなかった。
窓の光が、ほんのわずか、傾いた。
「……そうかもしれない」
低い声だった。
「僕は、ずっと、自分の、手の届く範囲の人間しか、見ていなかった。それが、いちばん、確かなことだと、思っていたから」
「その範囲に、私も、入っていましたか」
「いちばん、真ん中にね」
迷いのない、答えだった。
それが、いちばん、恐ろしい。
私は、立ち上がった。
椅子が、石の床を、擦って、鳴る。
「兄様。私は、頷きません」
「どうして」
「私の名前を、あなたに、預けるつもりは、ありません。私が、私として、生きたいからです。誰かに、都合のいい形で、生かされるのでは、なく」
クロードの目が、ほんの少し、見開かれた。
そして、苦く、笑った。
「やっぱり、昔の君じゃ、ないんだね」
「はい」
「寂しいな」
その呟きは、嘘では、なかった。
私にも、わかる。それが、また、胸を、締めつけた。
「私も、寂しいです。昔の兄様のことは、ずっと、好きでしたから」
「……過去形、なんだね」
「はい。そうしなければ、私は、前へ、進めないので」
*
そのとき、懐の中の、小さな硝子玉が、ころりと、転がり出た。
内ポケットから、ふいに、落ちたのだ。
石の床の上で、からん、と、澄んだ音を、立てる。青い、小さな、丸い玉。
「あ」
私が、拾おうとした、そのとき。
「それは」
クロードの声が、変わった。
格子の向こうで、彼が、身を乗り出していた。
顔から、血の気が、引いている。目が、玉に、釘付けになっていた。
「どこで、それを」
「……母の、お守りです。ガスパールが、今朝、渡してくれて」
「叔母上の」
彼の唇が、わなないた。
「……残して、いたのか。あの人は」
「兄様?」
「なぜ、ガスパールが。……いや。まさか」
呟きは、途切れた。
そして、クロードは、ふいに、口をつぐんだ。
次の瞬間には、もう、いつもの微笑みを、顔に、貼りつけていた。
「何でもない。……綺麗な、玉だね。レティに、よく似合う」
けれど、私は、見てしまった。
一瞬、彼の目の奥に、浮かんだもの。
それは、怯えだった。
扉の外で、剣の柄が、ことり、と、鳴る。
十分が、終わった、合図だった。
「時間のようだね」
クロードは、寝台に、深く、腰を下ろした。
「行きなさい、レティ。……また、正午に」
「兄様」
「その玉は、大事に、持っておくといい。……僕のものでは、ないけれど」
最後の言葉の意味が、わからなかった。
けれど、私は、玉を、拾い上げて、強く、握りしめた。
扉が、開く。
外の、冷たい空気が、流れ込んでくる。
*
廊下に出ると、ジルベールが、そこに、立っていた。
剣の柄から、手を離さず、全身を、板のように、固くしている。
「……大丈夫か」
「はい。大丈夫、です」
答えたとたん、膝が、がくん、と、折れた。
彼の腕が、すかさず、私の肩を、支える。
「無理を、した」
「少し」
支えられたまま、深く、息を、吐く。
ジルベールは、何も言わずに、私の肩を、支え続けていた。
その手の力は、強くも、弱くもなく、ただ、そこに、あった。
「息は」
「三つ、数えました」
「よく、耐えた」
昨夜も、聞いた言葉だった。
けれど、今朝の、その短い声は、昨夜よりも、ずっと、近くで、響いたのだ。
廊下の隅の、小さな机には、ヴェルニエ卿の書記官が、座っていた。
私が頭を下げると、書記官は、慌てて、立ち上がろうとした。
「いえ、そのまま。ありがとうございます」
「……手が、止まりませんでした。あんな話を、聞いたのは、初めてで」
ペンを持つ手が、まだ、震えている。机の上に、びっしりと、書きつけられた、紙の束があった。
「全部、聞いた」
ジルベールが、低く、言った。
「あの男が、仮定の形で、認めたことも。五月十二日の、夜のことも。……記録は、残った」
「でも、『仮定』と、言いました」
「わかっている。証拠としては、弱い。だが」
彼は、私の手の中の、青い玉に、視線を落とした。
「あの男が、初めて、動揺した。これは、記録に、ない」
「……この玉に」
「そうだ。何か、ある」
私は、手のひらの玉を、見つめた。
青い、透きとおった玉。冷たくて、丸くて、小さい。
ふと、思い出した。
母の杯の、底に、描かれていた、小さな、青い百合。
あの青と、この玉の青は、同じ色だった。
「ロシュ卿」
「何だ」
「杯を、見せてもらえますか。……いますぐ」
そこへ、階段を、駆け下りてきた足音があった。
ヴェルニエ卿だった。
「ロシュ。いま、書記官の記録を、読んだ。……杯の件か」
「はい。証拠保管庫に」
「上の階だ。案内する」
ヴェルニエ卿は、歩きながら、私の顔を、ちらりと見た。
「ヴァルモン嬢。あなたの目は、事件が終わったら、騎士団で、雇いたいくらいだ」
「ご冗談を」
「半分は、本気だ」
「もっとも、先に、あなたの再審を、通してからだが」
その、わずかに、和らいだ口調に、肩の力が、少しだけ、抜けた。
階段を、上がる足音が、石壁に、よく響く。時間は、もう、あまり、残っていない。
それでも、足は、不思議と、軽かった。
処刑まで、あと一時間半。




