牢の中の取引
「行くな」
ジルベールは、同じ言葉を、もう一度、繰り返した。
事務所の裏口に停めた幌馬車のそばで、私たちは、四人で輪になっていた。
デュボワ卿と、ヴェルニエ卿。ジルベールと、私。少し離れて、父が、黙って、立っている。
「あの男が、ひとりで来い、と言ったのは、あなたを、人質に取れる状況を作りたいからだ」
「わかっています」
「牢の中でも、あの男は、危険だ。口ひとつで、人を動かす」
「わかっています。それでも」
私は、胸の内ポケットを、指で押さえた。
「あの人は、私に、何かを、言いたがっています。人を殺そうとした人間が、あんな顔で、『すべての答えを』と言うのは、ただの罠だけでは、ない」
「あなたは、あの男に、情がある」
ジルベールの声が、低くなった。
「それが、危ない」
「あります。そこは、否定しません」
自分でも、少し、意外なほど、静かな声で、答えられた。
「十年、兄様だった人です。憎めないところが、まだ、残っています。でも、だからこそ、わかることがあるんです」
「何が」
「あの人は、追いつめられると、嘘が、荒くなる。そして、ひとつだけ、本当のことを、混ぜる癖があります」
デュボワ卿が、腕を組んだ。
「根拠は」
「昨夜、お父様の指輪のことで、『託された』と、言い直しました。あれは、嘘です。でも、『五月一日の夜』という日付だけは、本当でした。あの夜、お父様が眠らされた、その事実を、嘘の中に、紛れ込ませたんです」
父が、小さく、息をのんだ。
「あの人の嘘は、事実の周りに、巻きつけて、作られています。話させれば、ほころびが、必ず、見える」
「……それを、直接、聞き取る気か」
ヴェルニエ卿が、ゆっくりと、言った。
「もし、あなたが、あの男の誘いに乗らなければ、どうなる」
「あの人は、正午まで、何も、話さない。広場で、私が、処刑台に立つのを、静かに、待つだけです」
「そして、乗れば」
「話すかもしれません。指輪の、行方を」
誰も、すぐには、答えなかった。
やがて、デュボワ卿が、低く、言った。
「条件を、つける」
「はい」
「ロシュを、同行させる。牢の戸口から、一歩も、離れさせない。扉は、開けたままだ。制限時間は、十分。あの男が、少しでも、あなたに触れようとすれば、その場で、踏み込む」
「十分で、足ります」
「足りなくても、十分だ」
ジルベールが、短く、言った。
「それ以上は、私が決める」
「……はい」
「それと」
デュボワ卿は、私の目を、まっすぐ、見た。
「あの男が、『ひとりで』と言ったことを、最初に、本人に伝えなさい。こちらが、一人ではない、と。隠さずに」
「隠さずに、ですか」
「そうだ。隠せば、あの男は、それを、利用する。最初から、見せておく。そのうえで、話すかどうかを、選ばせる」
私は、無言で、うなずく。
ジルベールは、まだ、納得していない顔をしていた。けれど、デュボワ卿の裁定に、それ以上は、逆らわなかった。
「……私が、戸口に立つ」
低い、声だった。
「あなたが、一度でも、私の名前を、呼べば。私は、扉を、蹴破る」
「約束します」
その返事に、彼は、ほんのわずか、まぶたを伏せた。信じる、とも、許す、とも言わない。ただ、受け取った、という合図だった。
父が、そっと、私の頭に、手を置いた。
「レティ。お前の母が、いつも、言っていた。『怖いときは、息を、三つ数えなさい』と」
「……はい、お父様」
「数えてから、話しなさい。あの子の言葉は、ゆっくり、聞くのがいい」
私は、父の手の温かさを、ひたすら、胸に刻んだ。
*
騎士団本部の、地下の牢は、昨夜まで、私が見ていた石の部屋よりも、ずっと、寒かった。
細い廊下の突き当たりに、鉄の扉がひとつ。
その手前で、ジルベールが、立ち止まる。
「ここまでだ。私は、扉の脇に、立つ」
「はい」
「十分、数える。私の、剣の音が、鳴ったら、それが、終わりの合図だ」
彼は、剣の柄を、指で、ことりと叩いた。
それが、彼なりの、最後の合図だ。
扉が、軋みながら、開く。
牢の中は、狭かった。
石の壁。小さな窓。鉄の格子の向こうに、簡素な寝台。
その上に、クロードが、座っていた。
手首には、まだ、縄の痕が残っている。外套は、剥がされて、シャツ一枚。それでも、背筋は、まっすぐだった。
「来てくれたんだね」
クロードは、顔を上げて、微笑んだ。
本当に、嬉しそうに。
「ありがとう、レティ。待っていた」
「兄様。最初に、言っておきます」
私は、格子の手前で、立ち止まった。
「私は、ひとりでは、来ていません。扉の外に、ロシュ卿がいます。会話は、聞かれます」
「そう」
「それでも、話しますか」
「ああ。構わないよ」
クロードは、意外なほど、あっさりと、うなずいた。
「むしろ、聞いてもらったほうが、いい。……君が、そう言うと、わかっていたから」
背筋が、冷えた。
この人は、私が、正直に打ち明けることまで、読んでいたのだ。
「座って、いいよ。長くは、ならない」
格子の前に、小さな椅子が、置かれていた。
私は、腰を下ろして、父の言葉を、思い出した。息を、三つ、数える。
「兄様。聞きたいことが、あります」
「うん」
「指輪は、どこですか」
クロードは、まばたきをした。
そして、くすりと、笑った。
「いきなり、核心だね」
「十分しか、ありません」
「そう。……そうだったね」
扉の外で、一定の間隔で、靴の踵が、床を打っている。ジルベールが、時間を、数えているのだ。
彼は、寝台の端に、腰を沈めた。
窓から差し込む光が、シャツの白を、冷たく、浮かび上がらせている。
「ずいぶん、急ぐんだね。まだ、お茶も、出していないのに」
「牢に、お茶は、ありません」
「そうだった。残念だ。君と、最後に、飲みたかったのに」
冗談めかした声の裏で、その言葉だけが、妙に、本気に聞こえた。
「指輪の、前に。ひとつ、取引を、持ちかけたいんだ」
「取引?」
「正午、君は、広場に立つ。それは、確定している。けれど、僕が、ひとつ、手を回せば、君を、助けられる」
息が、止まった。
「処刑台に立つ前に、眠り草の、薬を飲んでもらう。ほんの少し、量を、減らしたものを。心臓が、止まったように見えて、実際には、眠っているだけの、薬を」
「……何を、言っているの」
「死んだことに、するんだ。君を。ヴァルモンの、レティシアとして、死んだことに。そのあとで、僕が、君を、国の外へ連れていく。誰も、君を、知らない土地で、新しい名前で、生きるんだ」
声は、あくまで、穏やかだった。
けれど、その言葉の底に、昏い熱が、あった。
「馬車は、もう、手配してある。国境の宿場町に、小さな家も。窓から、葡萄畑が見える家だ。レティは、昔、そういう景色が、好きだったよね」
「……」
「パンを焼いて、庭に花を植えて。誰にも、呼ばれず、誰にも、裁かれずに。それが、僕に、できる、いちばん、確かな贈り物なんだ」
「伯父上の家督は、僕が継ぐ。君は、僕の、そばで、生きればいい。……君を、失いたくないんだ、レティ」
格子の向こうの顔を、私は、じっと、見つめた。
母が亡くなったあの夜、泣きじゃくる私を、黙って、背中に負ぶってくれた、少年の面影が、確かに、そこに、ある。
けれど、その優しさは、いつのまにか、私の意思を、どこにも置かない形で、育ってしまっていた。
胸の奥が、冷えきった。
この人は、本気だ。本気で、これを、「愛」だと、信じている。
けれど、私は、ひとつ、気づいていた。
「兄様」
「何だい」
「昨夜の、水差しの毒を、ベルナール先生が、調べました。月下草と、眠り草。そして、先生は、こう言いました。『この量であれば、一口で、夜明け前には』」
クロードの目が、わずかに、動いた。
「眠るだけの薬では、ありませんでした。心臓を、止める量でした」
「……先生の、見立てが、大げさだったのかも」
「兄様」
私は、ゆっくりと、言葉を、選んだ。
「あなたは、昨夜、私に、あの水を、飲ませようとしました。眠るだけの薬なら、あんなに、はっきり、『最期の夜だ』と、言う必要は、なかった」
沈黙が、降りた。
鉄の格子の向こうで、クロードの笑みが、少しずつ、消えていく。
「……そうか」
低い声だった。
今までに、聞いたことのない、冷たい声だった。
「やっぱり、レティは、変わったんだね」
「変わっていません。ただ、見えるものが、増えただけです」
「いいや。昔の君は、僕の言葉を、疑うということを、知らなかった」
彼は、静かに、立ち上がった。
格子に、手をかける。指が、鉄の棒を、ゆっくりと、握る。
「なら、本当の話を、しよう。ひとつだけ」
私は、動かなかった。
扉の外で、ジルベールの気配が、はりつめたのがわかる。
「王女殿下に、毒を、盛ったのは」
クロードは、囁くように、言った。
「僕じゃない。……と、言ったら、君は、信じるかい?」
廊下のほうで、剣の柄が、かすかに、鳴った気がした。
処刑まで、あと二時間。




