伯父上
執務室の空気が、凍りついたのが、扉の隙間からも、わかった。
父は、まっすぐ、卓の前へ歩いていった。
灰色の外套の背中は、昨夜よりも、ずっと、しゃんとしている。杖はない。膝も、震えていない。
「……伯父上」
クロードの声が、一拍遅れて、聞こえた。
「お元気そうで、何よりです。別邸で、お休みになっていたはずでは」
「その別邸から、昨夜、駆けてきた」
父の声は、低く、はっきりしていた。
「心を病んだ人間の足で、一日分の道を、夜通し来られると思うか、クロード」
椅子が、ひとつ、倒れる音がした。
司祭のベネディクトが、思わず立ち上がったのだ。
「こ、侯爵閣下……」
「失礼、司祭殿。お騒がせした」
父は、静かに、頭を下げた。
その振る舞いは、どこからどう見ても、正気の、侯爵だった。
「アルベール殿も、お久しぶりです」
「……閣下」
アルベールの声が、小さく、震えている。
「お元気で、いらっしゃったのですね」
「ああ。娘の件で、ずいぶん、痩せたがね」
私は、扉の陰で、口元を押さえた。
隣で、ジルベールが、小さくうなずく。出ていい、という合図ではない。ただ、ここにいる、と、教えてくれる、うなずきだった。
*
「伯父上。お体に、障ります」
クロードの声が、いつもの調子を、取り戻した。
「きっと、気持ちが高ぶっておられるのです。お疲れでしょう。ここは、僕に、お任せいただいて」
「任せる?」
父は、卓に手をついた。
「何を、任せるのだ。私の署名を、書き写して、委任状を作ることか」
「……伯父上」
「小書庫の引き出しから、出てきた。何十枚という、署名の練習が。私の字を、私より上手に書けるようになるまで、お前は、練習したそうだな」
クロードは、答えない。
「なぜだ、クロード」
父の声が、ほんの少し、揺れた。
「お前を、息子のように、育てたつもりだった。亡き姉上の忘れ形見として。レティと、分け隔てなく」
「ええ。感謝しています」
クロードは、静かに、答えた。
「伯父上は、僕を、息子のように扱ってくださった。……ただ、一度も、跡継ぎとしては、扱ってくださらなかった」
「それは」
「いいんです。わかっています。ヴァルモンの名は、レティの婿に渡るもの。僕は、その陰で、帳簿をつける人間だった」
声は、柔らかいままだった。
けれど、その柔らかさの底に、長い年月をかけて、積もった何かが、見えた気がした。
「それから、この指輪印」
父は、ティシエから受け取った写しを、卓に広げた。
「左縁の擦れ。これは、十年前、私が馬から落ちて、石に当てたときの傷だ。お前が、手当てをしてくれた。覚えているだろう」
「ええ。覚えています」
「その指輪が、五月三日に、お前の手元にあった。それが、この写しに残っている」
沈黙が、降りた。
遠くで、通りを行く荷車の音が、やけに、大きく聞こえた。
「……伯父上」
クロードは、静かに、息を吐いた。
「そのことなら、説明できます」
「聞こう」
「あの指輪は、伯父上が、僕に託されたのです。五月一日の夜に」
息が、止まる。
この人は、また、新しい嘘を、作った。
「伯父上は、あのとき、お疲れのご様子でした。『この指輪を、お前に預ける。もしものときは、お前が家を守れ』と、そうおっしゃった。……お酒が、少し、入っておられたせいか、翌朝には、ご記憶がないようでしたが」
父の肩が、わずかに、動いた。
「私が、そう言ったと」
「ええ。僕は、その言葉を、重く受け止めました。だから、伯父上の名で、後見を申し立てようとしたのです。伯父上の、お望みどおりに」
きれいに、繋がっている。
記憶のない夜。酒。翌朝の、空の指。あらゆる欠落を、自分に有利に、埋めてしまう。
扉の陰で、私は、爪を掌に食い込ませた。
父の言葉は、記憶のなさを、逆手に取られる。
そのとき。
*
「恐れながら」
意外な声が、割って入った。
司祭ベネディクトだった。
「わたくしは、いま、はじめて、侯爵閣下に、お目にかかりました」
老いた声が、小さく、震えている。
けれど、言葉は、はっきりしていた。
「サン=ロラン殿は、わたくしに、『侯爵は、心を病み、わが子すら、見分けられない』と、おっしゃいました。しかし、いま、目の前におられる閣下は、あまりにも、正気でいらっしゃる」
「司祭様。それは」
「わたくしは、聖職者です。偽りの証言に、神の名を、使うわけには、参りません」
クロードの肩が、わずかに、動いたのが、見えた。
初めて、彼の背中が、こわばった。
「アルベール様」
ティシエが、静かに、続けた。
「あなたは、どうお考えですか」
「……私は」
アルベールは、しばらく、黙っていた。
そして、深く、息を吸う。
「私は、さきほど、この診断書を見て、一瞬、信じかけました。侯爵閣下が、お倒れになったのかと」
自嘲するような、笑いが、混じった。
「愚かでした。私は、人の言葉を、あまりにも、簡単に、信じる。一度は、誤って、一人の女性を、疑い、見捨てた。そして、今日は、あやうく、同じ過ちを、別の形で、繰り返すところだった」
「アルベール様……」
「サン=ロラン。あなたの言葉は、聞きやすい。だから、危ない」
その声は、静かな怒りに、満ちていた。
「私は、あなたの証人には、ならない」
*
扉が、勢いよく、開いた。
「そこまでだ」
デュボワ卿だった。
後ろに、ヴェルニエ卿と、二人の騎士。そして、ジルベール。
私は、ジルベールの背中に、半ば隠れるようにして、敷居の手前で、足を止めた。
執務室の全員の目が、こちらを、向く。
「サン=ロラン。公文書偽造の行使、および、その未遂の嫌疑で、貴殿を、拘束する」
「令状は?」
「ここにある」
ヴェルニエ卿が、折りたたんだ書面を、卓に置いた。
「法務院の、仮の令状だ。この診断書の、透かしの件。それに、五月三日の、委任状の登記申請。いずれも、公証人の、証言と、証拠が、揃っている」
クロードは、書面を、ちらりと見た。
それから、ゆっくりと、笑った。
「早いですね」
「あなたが、そう、仕向けた」
ジルベールの声が、冷たかった。
「あなたは、九刻に、ここへ来る、と自分から言った。罠だと、知っていて。なぜだ」
「さあ」
クロードは、肩をすくめた。
「確かめたかったのかもしれませんね。伯父上が、本当に、レティの味方になったのか。……それだけです」
二人の騎士が、その両脇に立つ。
今度は、縄が、かけられた。細い、麻の縄が、手首に、巻かれる。
クロードは、少しも、抵抗しなかった。
「レティ」
扉のところに立つ私に、彼は、視線を向けた。
穏やかな、いつもの声だった。
「本当に、生き延びたいかい」
胸が、跳ねた。
デュボワ卿が、眉を寄せる。ジルベールの肩が、わずかに、張りつめた。
「もし、生き延びたいなら。正午の前に、もう一度、僕に会いにおいで」
「サン=ロラン」
「ただし、ひとりで。誰にも、言わずに」
クロードは、笑った。
その笑顔は、昔、庭で、私に、飴をくれたときと、少しも、変わらなかった。
「すべての答えを、教えてあげる。……君が、知りたがっている、ことのすべてを」
縄が、引かれる。
二人の騎士に連れられて、彼は、扉の向こうへ、消えていった。
階段を、降りる足音が、遠ざかる。
私は、扉の枠を、強く、つかんでいた。
指先が、冷たい。
「……罠だ」
ジルベールが、低く、言った。
「わかっています」
「行くな」
「わかっています。でも」
*
連行の足音が、階段の下に消えたあと、執務室には、重い沈黙が残った。
「……レティシア」
呼ばれて、顔を上げると、アルベールが、こちらを見ていた。
疲れた顔だった。けれど、目だけは、昨日よりも、はっきりしている。
「今日の正午、私は、広場へ行く」
「アルベール様」
「君の無実を、信じる、とは、まだ言えない。それでも、この目で、確かめる。何が、本当だったのかを」
彼は、一度、唇を噛んだ。
「それが、遅れた者の、せめてもの務めだ」
「……ありがとうございます」
私は、深く、頭を下げた。
アルベールは、短く、うなずいて、司祭のそばへ歩いていく。
ふと、思った。
この人も、嘘をつかれた側の一人だったのだ。同じ人間に、同じやさしい声で。
父が、アルベールの前に、歩み寄った。
「アルベール殿。今日、見ていてくれたことに、礼を言う」
「いえ。私は、何も」
「違う。あの子の言葉に、頷かなかった。それは、簡単なことでは、なかったはずだ」
父は、深く、頭を下げようとして、アルベールに、慌てて、止められた。
「やめてください、閣下。私は、あなたの娘さんに、返しきれないほどの、借りがあります」
その言葉を聞きながら、私は、胸の奥の、固く冷えていたものが、ほんの少し、ゆるむのを感じた。
ティシエが、書類を、静かに、片づけはじめる。
その手つきは、いつもどおり、丁寧だった。
私は、胸の内ポケットの、青い硝子玉を、そっと、握った。
処刑まで、あと二時間半。




