壁の向こうの声
ティシエの事務所は、石畳の通りに面した、古い二階建てだった。
黒い幌馬車が、裏口の前で止まる。
朝の通りは、荷車の音と、パン屋の呼び声で、にぎわっていた。誰も、この小さな馬車に、目を向けない。
「こちらへ」
扉を開けたのは、細身の老人だった。
銀縁の眼鏡の奥の目が、昔と同じ、静かな色をしている。公証人ティシエ。母の遺言を預かってくれた、あの人だった。
「お嬢様」
彼は、それ以上、何も言わずに、深く頭を下げた。
私も、頭を下げた。言葉を出せば、泣いてしまいそうだったから。
階段を上がりながら、ティシエは、ぽつりと言った。
「あなたが十歳のころ、この事務所の机の下で、私の印章を、並べて遊んでおられた。覚えておいでですか」
「……はい。叱られると思って、隠れました」
「叱りませんでしたよ。あまりに、きれいに並べておられたので」
眼鏡の奥の目が、ほんの少し、細くなった。
それだけの会話で、胸の中の何かが、静かに、ほどけていく。
*
二階の奥の保管室は、書類棚に囲まれた、窓のない小部屋だった。
埃と、古い羊皮紙の匂い。壁際に並べた椅子に、私と、ジルベール、デュボワ卿、ヴェルニエ卿が座る。父は、いちばん奥の、扉に近い席に腰を下ろした。
隣の執務室との境は、薄い板壁が一枚。
耳を寄せなくても、椅子を引く音や、紙をめくる音が、はっきりと伝わってくる。
「静かに」
デュボワ卿が、指を唇に当てた。
八つ半の鐘が、通りの向こうで、遠く鳴る。
私は、内ポケットから、ガスパールにもらった青い硝子玉を、そっと取り出した。
指の腹で、ころりと転がす。冷たくて、丸い。母が、枕元に置いてくれていたもの。
「それは」
「お守りです。母の」
ジルベールは、それ以上、聞かなかった。
ただ、私の膝の上で、小さく震える手の甲に、自分の指先を、一度だけ、軽く重ねた。
合図を決める、と言うように。
「三度、叩く。それが、『動くな』だ。二度、叩けば、『出ろ』」
「わかりました」
指の温度は、すぐに離れる。
それでも、そこに、まだ、残っている気がした。
階段を、いくつもの足音が、上がってきた。
先頭の軽やかな足音。それに、重い足音と、杖をつく音。
「ティシエ先生。おはようございます」
穏やかな声が、壁の向こうで、響いた。
クロードだった。
背筋が、ひやりと、冷たくなる。
隣で、ジルベールの指が、そっと、私の肘に触れた。大丈夫だ、と、言うように。
*
「お約束どおり、立会人をお連れしました」
クロードの声は、いつもと同じ、明るさだった。
「こちらは、ヴェルディ神殿の司祭、ベネディクト様。それから、アルベール様です。お二人に、証人をお願いしました」
「ようこそ」
ティシエは、感情のこもらない声で、応じた。
「雨が、上がりましたね。こんな朝に、お邪魔して、申し訳ない」
「いいえ。天気は、事務の妨げになりません」
世間話は、そこで、あっさりと、切り落とされた。
「ご用件を、伺いましょう」
「ええ。実は、困ったことになりまして」
椅子の軋む音。紙の擦れる音。
「伯父のヴァルモン侯爵が、愛娘の事件の衝撃で、心を病まれました。別邸で、昼も夜も、うわごとのように、同じことを繰り返しておられる。夜中に、亡き奥方の名を呼んで叫び、食事も、ほとんど、お取りにならない。使用人たちも、見ていられない、と、口をそろえて申します。これでは、侯爵家の財産の管理も、娘の再審の手続きも、立ち行きません」
「それで」
「ですから、侯爵に代わって、私が、すべての書面を預かる。その後見を、正式に、登記したいのです」
息が、止まった。
後見。父を、判断能力のない者として、扱う。そうすれば、父の言葉は、すべて、法廷で、無効になる。
あの人は、父を、この世から、消すつもりなのだ。
死ななくても、いい。声だけを、奪えば。
「後見が登記されれば、侯爵の証言は、法廷では、一切、採用されん」
デュボワ卿が、唇を動かさずに、囁いた。
「そして、後見人であるクロードが、侯爵家の代理として、再審の申請を、取り下げられる」
血の気が、引いた。
父の証言だけではない。再審そのものが、あの人の手で、閉じられてしまう。
「根拠は」
「こちらを」
紙が、卓の上に広げられる音。
「侯爵ご自身の、後見委任状。そして、主治医のロベール先生の診断書です。署名と、指輪印が、ございます」
「拝見しましょう」
しばらく、紙を繰る音だけが続いた。
「司祭様」
ティシエが、静かに、問いかけた。
「あなたは、侯爵閣下に、お会いになりましたか」
「いえ。ただ、サン=ロラン殿から、お話を。侯爵は、最近、ひどく、取り乱しておられると」
「伝聞、ですね」
「……はい」
司祭の声が、わずかに、揺れた。
「わたくしは、診断書の件は、聞いておりませんでした。ただ、お力になれば、と」
「司祭様は、お人がよろしい」
クロードの返事は、柔らかかった。
その柔らかさが、かえって、司祭を黙らせた。
「アルベール様は」
「私は」
アルベールの声は、硬い。
「侯爵閣下とは、事件の前に、何度か、お会いした。理知的で、冷静な方だった。……いまの話は、にわかには、信じがたい」
「ええ。私も、信じたくありませんでした」
クロードの声には、沈痛なものが、混じっている。
聞き慣れた、あの響き。本物の、哀しみにしか聞こえない、あの声。
今朝、私に「おやすみ」と言ってくれた父は、あんなにも、はっきりと、していたのに。
私は、胸の前で、拳を握りしめた。
隣のジルベールが、静かに、首を横に振る。まだ、出てはならない、という合図だった。
*
「では、この診断書を、確かめましょう」
ティシエは、動じなかった。
「医師ロベール殿は、閣下を診察したのは、いつ」
「五月の、十日です。別邸で」
「閣下は、五月三日から、別邸にいらした。十日に、誰か、客がありましたか」
「ええ。私が、ロベール先生を、お連れしました」
クロードは、淀みなく、答えた。
「先生は、侯爵に会って、『心神耗弱の兆候あり』と、お書きになった。ご覧ください、先生の署名が」
「確かに、署名は、ある」
ティシエの声が、そこで、少し低くなった。
「ただし、日付が、おかしい。この診断書の日付は、五月十日。ところが、使われている紙の透かしは、五月十五日以降に、新しく、出回ったものです」
壁の向こうで、一瞬、空気が、固まった。
「……そうでしたか。それは、私にも、わかりかねます。先生の、手違いでは」
「手違い、ですか」
ティシエは、紙を、静かに、卓に置いた。
「サン=ロラン殿。私は、この事務所を、四十年、預かっています。紙の質は、見れば、わかります」
沈黙が、降りた。
アルベールが、小さく、息を吸う音が、聞こえた。
「サン=ロラン。……これは、どういうことだ」
「アルベール様。落ち着いてください。これは、先生の、お間違いで」
「私は、あなたの手紙で、ここへ呼ばれた」
アルベールの声が、はっきりと、低くなった。
「あなたは、私に、『レティシアの件の整理に、立ち会ってほしい』と書いた。後見の話など、ひと言も、なかった」
「後見は、整理の一部です」
「違う。これは、侯爵の口を、封じるための、手続きだ」
その言葉に、保管室の全員が、息をのんだ。
アルベール。
かつての私の婚約者が、いま、自分の目で、見極めようとしている。
「私は、署名しない」
アルベールは、きっぱりと、言い切った。
「診断書にも、後見の申立書にも。事実が、確かめられるまで」
クロードの返事は、なかった。
長い、沈黙のあとで、笑い声が、聞こえた。
「……アルベール様。あなたも、レティと、同じことを、おっしゃるんですね」
声は、まだ、穏やかだった。
けれど、その奥に、冷たい刃のようなものが、見えかけていた。
「では、仕方ありません。後見は、あきらめましょう。ですが、先生」
椅子の脚が、床を、擦る音。
「侯爵ご自身が、いらっしゃれば、話は、早いですよね」
息が、止まった。
「伯父上を、お連れすれば、いい。ここへ。いま、すぐに。……そこに、いらっしゃるんでしょう、伯父上」
声が、壁の、こちら側へ、向けられた。
デュボワ卿が、立ち上がりかけて、止まった。
ジルベールの手が、私の肘を、強く掴む。
父が、ゆっくりと、椅子から立ち上がった。
ためらいは、なかった。扉の取っ手に、手をかける。
「お父様」
「いいんだ、レティ」
父は、振り返って、小さく、微笑んだ。
「あの子に、私の声で、答える時が来た」
扉が、静かに、開く。
父の背中が、光の中へ、歩み出ていく。
開いた扉の隙間から、クロードの横顔が、見えた。
笑顔は、貼りついたまま、動かない。ただ、その目だけが、父を、じっと、見つめていた。
まるで、長いこと、待っていたものが、ようやく、現れたとでも言うように。
処刑まで、あと三時間。




