九刻の前
朝食の盆が運ばれてきたのは、六つの鐘のあとだった。
卓の上には、焼きたてのパンと、薄く切ったチーズ。それに、ジルベールが毎朝かならず用意させる、湯気の立つ茶。
けれど、誰も、あまり手をつけない。広げられた見取り図のまわりに、デュボワ卿と、ヴェルニエ卿、ジルベール、父、そして私が、肩を寄せていた。
「ティシエ殿の事務所は、通りに面した二階建てだ」
デュボワ卿が、図面の一点を、指で叩く。
「一階が受付と待合。二階に、公証人の執務室と、奥の保管室。保管室と執務室のあいだには、薄い壁が一枚。壁の板は、古い。耳を押し当てれば、隣の声が、聞こえる」
「そこに、潜む」
「そうだ。私と、ヴェルニエ殿。それに、ロシュ」
ジルベールが、図面に目を落としたまま、うなずく。
そのとき、私は、思い切って、口を開いた。
「あの」
全員の視線が、こちらを向く。
「私も、連れていってください」
「ならん」
デュボワ卿の返事は、早かった。
「あなたは、死刑囚だ。屋敷から出ること自体が、すでに規則の逸脱だった。さきほどの取調べは、例外中の例外だ」
「わかっています。でも、あの人は、私の足音を、覚えている」
私は、膝の上で、手を握りしめた。
「クロード兄様は、私が、どこにいるのか、必ず、探します。聞き耳を立てて、気配を探る。もし、私が屋敷に残っていれば、『あの子は、ここにいない』と、すぐに、見抜かれてしまう。かえって、罠だとわかってしまいます」
「……理屈は、通っている」
ヴェルニエ卿が、ぽつりと言った。
「だが、危険すぎる」
「ロシュ卿が、ずっと、そばにいてくれます」
私は、ジルベールを、見た。
彼は、図面から顔を上げなかったが、わずかに、まぶたが動いた。
「……私の判断で、いいのか」
「はい」
「なら、言う。連れていくべきだ」
デュボワ卿が、眉を寄せた。
「ロシュ」
「あの男は、レティシア嬢が来ていないと、確かめたがる。見つけられなければ、探す。探させれば、手を、打ち間違える」
ジルベールの声は、淡々としていた。
「それに、保管室の壁は、薄い。あの男が、どんな嘘をつくか。誰の声が、本物の動揺か。それを聞き分けられるのは、この方だけだ」
沈黙が、落ちた。
やがて、デュボワ卿が、深いため息をついた。
「責任は、全部、ロシュ、お前が持て」
「承知しています」
父が、静かに、私の手に、自分の手を重ねた。
そこへ、本部から使いの騎士が、駆け込んできた。
「ヴェルニエ補佐。サン=ロラン殿が、取調べの最後に、もう一度、要望を。『九刻に間に合うよう、八刻半に、解放を』と」
「承知した、と伝えろ」
ヴェルニエ卿は、顔色ひとつ変えずに、答えた。
「ただし、尾行をつける。二人。事務所以外の場所に、立ち寄るなら、その場で止めろ。道中で、誰かと言葉を交わせば、顔と、時刻を、記録しろ」
「はっ」
使いが去ると、ジルベールが、手帳に、素早く何かを書きつけた。
あの男は、自由を与えられても、少しも、慌てない。その落ち着きが、いっそう不気味だった。
*
七つの鐘が鳴ったとき、玄関のほうが、にわかに、騒がしくなった。
「ロシュ卿!」
ボーダン卿が、息を切らせて、走ってきた。
「アルベール様が、お見えです」
部屋の空気が、ぴたりと、止まった。
アルベール。
かつての、私の婚約者。毒の杯の件が明らかになったあと、一度も、私の前に姿を見せなかった人。
私は、立ち上がろうとして、足に、力が入らないことに気づいた。
「通せ」
デュボワ卿が、短く言った。
ジルベールが、私の斜め後ろに、そっと、位置を取る。
扉が開いて、アルベールが入ってきた。
旅装のまま、泥のはねた長靴。
昨日の私は、この人の靴を、見たくないと思ったかもしれない。今は、ただ、ひどく、疲れた顔をしているように見えた。目の下に、濃い隈がある。
「……レティシア」
彼は、私の名前を、呼んだ。
昔のように、「レティ」とは、呼ばなかった。
「お久しぶりです、アルベール様」
自分でも驚くほど、静かな声が、出た。
「突然、押しかけて、すまない」
アルベールは、デュボワ卿に一礼してから、私に向き直った。
「一昨日の夜、クロードから、手紙が届いていた。『今朝の九刻、公証人ティシエの事務所で、伯父上の署名と、レティシアの件の整理に立ち会ってほしい。君の証言が必要だ』と」
息を、のんだ。
本物の、証人。これが、そうだったのだ。
「行く前に、確かめておきたかった。君の口から、聞きたい」
「何を、ですか」
「君は、王女殿下に、毒を盛ったのか」
その問いは、昔の私なら、膝から崩れ落ちていたかもしれないほど、まっすぐだった。
けれど、私は、顔を上げた。
「いいえ」
「……そうか」
「でも、殿下に杯を渡したのは、私です。その事実は、変えられません。あのとき、私は、殿下の命よりも、アルベール様の心が離れていくことを、恐れていました。その愚かさは、いまでも、恥じています」
アルベールの肩が、わずかに、揺れた。
「君の言葉を、そのまま、信じることは、できない」
彼は、絞り出すように、言った。
「私は、あの日、君が人を殺すはずがないと、思っていたんだ。それなのに、証拠が、それを裏切った。そして、君の筆跡の遺書が、出てきたのだ。……私は、判断を、誤ったのかもしれない。それが、怖くて、今日まで、目を逸らしていた」
「アルベール様」
「だから、見届ける。今日、九刻、あの事務所で。クロードが、何を言うのか。君の父上が、何を言うのか」
彼は、まっすぐ、私の目を、見た。
「それだけだ。まだ、君を、信じるとは、言えない。それでも、構わないか」
「はい。それで、十分です」
私は、深く、頭を下げた。
昔の私なら、「信じて」と、すがっていたはずだ。今は、見てくれればいい、と思える。
アルベールは、一瞬、何かを言いかけて、口を閉ざす。
そして、父のほうへ向き直る。
「ヴァルモン侯爵。お久しぶりです」
「……ああ」
父の声は、硬い。
二人の間に、言葉にならない沈黙が、降りた。
デュボワ卿が、咳払いをして、割って入った。
「アルベール殿。ひとつ、お願いがある。今ここで見たこと、聞いたことは、九刻まで、誰にも、他言しないでいただきたい」
「約束します」
「ならば、予定どおり、事務所へ。ただし、道中は、騎士団の者が、さりげなく、同行する」
アルベールは、うなずいて、部屋を出ていく。
扉の前で、一度だけ、振り返った。その視線は、私ではなく、ジルベールに、向けられていた。
ジルベールは、何も言わず、静かに、会釈を返す。
扉が閉まったあと、私は、しばらく、動けなかった。
怒りも、悲しみも、不思議と、湧いてこない。ただ、遠い昔に、同じ庭で笑っていた二人のことを、他人事のように、思い出していた。
あの人は、悪人では、なかった。
愚かだったのは、お互いさまだ。そう思えたことが、少しだけ、肩の荷を、軽くしてくれた。
*
「……いい判断だった」
アルベールが去ったあと、ジルベールが、低く言った。
「何がですか」
「あの男に、すがらなかったことだ」
「すがる、つもりは」
「昨日までなら、すがっていた」
彼は、ほんの少し、笑った。
「あなたは、変わった」
「それは、褒めているんですか」
「事実を、言っている」
私は、つい、苦笑する。
それでも、胸の底に、小さな、温かい火が、灯っていた。
*
八つの鐘が、遠くで、鳴りはじめる。
厩舎の裏に、地味な黒い幌馬車が、用意されていた。
父は、外套の襟を立て、帽子を深くかぶっている。デュボワ卿とヴェルニエ卿は、それぞれ、別の馬車に乗り込む。ジルベールと、私は、最後に。
出発の直前、ガスパールが、そっと、私の手に、小さな包みを、握らせた。
「お嬢様。奥様の、お守りでございます」
古い、薄い布の袋だった。中には、小さな、青い硝子玉が、ひとつ。
「奥様が、お嬢様の枕元に、置いておられたものです。……どうか」
「ありがとう、ガスパール」
私は、それを、胸の内ポケットに、しまう。
ガスパールは、深く、頭を下げた。その肩が、細かく、震えていた。
馬車が、動きだす。
門を抜け、石畳を、ごとごとと、進んでいく。
窓の布の隙間から、街の景色が、少しだけ、見えた。
朝市の屋台。籠を抱えた子供。洗濯物の翻る、細い路地。
あと、数時間で、私は、あの広場に、立たされるはずだった。
隣のジルベールが、前を向いたまま、静かに言った。
「怖いか」
「はい」
「正直で、いい」
「ロシュ卿は」
「怖い」
意外な答えに、思わず、横顔を見た。
「私の判断ひとつで、あなたの命が、決まる。そんな立場に立つのは、初めてだ。……それが、怖い」
言ってから、彼は、少しだけ、咳払いをした。
私は、聞こえなかったふりをして、窓の外へ目を向ける。
頬が、熱かった。
処刑まで、あと四時間。




