公証人の使い
目を覚ますと、部屋は、まだ暗かった。
燭台の火は、小さく絞られている。
雨音は、眠っているあいだに、細くなっていた。毛布の端が、肩まで引き上げられている。
寝台の脇の椅子に、ジルベールが座っていた。
膝の上に、薄い手帳を広げ、指で行をなぞっている。眠っていないのは、横顔の硬さでわかった。
「……一刻、のはずでは」
「三刻、経った」
彼は、手帳から目を上げずに答えた。
「起こすなと、デュボワ卿が言った。起こす理由もなかった」
「ロシュ卿は、休まなかったのですか」
「私は、慣れている」
そっけない声だった。
私は、毛布の中で、少しだけ笑った。
「何を、書いているんですか」
「あなたの供述と、これまでの証拠の、突き合わせだ。一行ずつ、嘘がないか、もう一度、確かめている」
「まだ、疑っていますか」
聞いてから、悔やんだ。
けれど、ジルベールは、少しも迷わない。
「疑うことが、私の仕事だった。五日前の私なら、この手帳を、あなたを有罪にする材料で埋めていた」
「今は」
「今は、あなたが無実である根拠を、数えている。……十七、まで数えた」
その数字が、胸の奥に、ことりと落ちた。
信じてもらえた、とは、少し違う。もっと、確かなものだった。見て、測って、数えて、それでも残った答え。
「十八番目は、何ですか」
「まだ、ない。これから、探す」
彼は、手帳を閉じた。
窓の外が、ほんのわずかに、白みかけている。夜明けには、まだ遠い。
*
扉が、控えめに叩かれた。
「ロシュ卿。失礼します」
ボーダン卿だった。濡れた外套から、雫が落ちている。
「裏門に、客が。若い男が、一人。『公証人ティシエの使いだ』と」
「公証人?」
ジルベールが、立ち上がった。
私も、思わず、上体を起こす。
「夜更けに、何の用だ」
「『ヴァルモン侯爵に、直接、お渡ししたいものがある。どうしても、夜明けまでに』と。顔は、濡れて真っ青で、馬も、潰れる寸前でした」
「窓の外を横切った影は」と、私は、思わず口にした。
「この男だったようです。表門を探して、裏庭を迷っていたと」
「ガスパール殿を、呼べ。顔を、確かめさせる」
「すでに、門にお連れしています。『確かに、ティシエ殿の書生、マルセルだ』と」
ジルベールが、私を振り返った。
「あなたは、ここにいろ。デュボワ卿に、通す」
「私も、聞いて、いいですか」
「……当事者だ。控えの間から、戸を開けて聞け」
灰色の目が、わずかに、和らいだ。
*
控えの間の戸の隙間から、燭台の明かりが漏れていた。
中央の卓の前に、デュボワ卿と、客間から呼び起こされた父が、並んで座っている。
その向かいに、びしょ濡れの青年が立っていた。二十歳そこそこ。細い肩。両腕で、油布の包みを、抱きしめている。
「公証人ティシエの書生、マルセルと申します」
声が、震えている。寒さのせいだけでは、ない。
「先生から、これを預かって参りました。『侯爵閣下がお戻りと聞いた。直接お渡しせよ。サン=ロラン殿の目に触れる前に』との仰せです」
「ティシエ殿が、そう言ったのか」
父が、眉を寄せる。
「あの男は、実直な人間だが、口数の少ない男だ。何があった」
「五月の三日のことでございます」
マルセルは、油布を解く。
中から現れたのは、折り目のついた、一枚の羊皮紙だった。
「サン=ロラン様が、事務所へ、お見えになりました。この委任状に、侯爵閣下のご署名と、指輪印があるから、登記してほしい、と」
私は、息を、のんだ。
下書きのまま、小書庫の引き出しにあったはずの、委任状。あれは、仕上がったものが、別に、あったのだ。
「先生は、書面を見て、首をかしげました。侯爵閣下は、当時、別邸に引きこもっておられるはず。登記には、本人の出頭か、委任の証人が、二人要ります」
「それで」
「サン=ロラン様は、『伯父は、病で動けない。証人は、後日揃える』と。先生は、お断りになりました。ただ」
マルセルは、羊皮紙の端を、指で示した。
「規則で、断った書面でも、写しを、一部、事務所に残す決まりです。先生は、写しの隅に、小さく、気づいたことを書き残しておられます」
デュボワ卿が、身を乗り出す。
羊皮紙の写しの隅に、細い字で、こう記されていた。
『署名、筆致に違和感あり。指輪印、本物と認む。印の左縁に、擦れあり』
「本物と、認む」
父が、低く繰り返した。
父は、その一行を、長いあいだ見つめていた。
「左縁の擦れ。……それは、私の指輪の、傷だ」
「傷、ですか」
「十年前、馬から落ちたとき、石に当てた。以来、あの紋章の左の縁だけが、欠けている。知っているのは、家の者のうち、ごく僅かだ」
ジルベールが、すかさず、確かめる。
「その傷を、クロードは、知っていますか」
「知っている。あれが、手当てをしてくれたのだ。……皮肉なことだ」
父は、苦く笑った。
「そうだ。指輪印は、本物なのだ。あの印を押せるのは、指輪を持つ者だけ。そして五月三日の時点で、指輪は、私の指には、なかった」
父の手が、卓の上で、固く握られる。
「クロードは、言っていたな。私の指輪の行方は、わからないと。置き忘れたのではないかと。……嘘だ。あの男は、五月三日に、あの指輪を、手に持っていた」
その言葉が、部屋に落ちた。
ジルベールが、静かに言う。
「侯爵の証言と、公証人の書き込み。この二つで、クロードの『わからない』が、嘘だと証明される。署名の練習と、あの委任状を、突き合わせれば、偽造の筋も、通る」
デュボワ卿が、写しを、慎重に、油布に包み直した。
「マルセル君。ティシエ殿は、法廷で、証言してくれるか」
「はい。そのために、先生は、私を、走らせたのです」
青年は、そこで、ふっと、肩の力を抜いた。
そして、足が、がくりと折れかけた。ボーダン卿が、慌てて、その腕を支える。
「すまない、君は、一晩じゅう、馬で」
「だい、じょうぶ、です。……あと、先生から、もうひとつ、言伝を」
マルセルは、必死に、顔を上げた。
「サン=ロラン様は、明朝九刻、事務所へ、参られます」
部屋が、静かになった。
「『ご自身の拘束が、解かれたら、すぐに』と。そう、昨日の昼、予約を入れていかれたそうです。……別の、書面を、持って」
デュボワ卿の目が、細くなる。
「別の書面?」
「内容は、わかりません。ただ、先生は、こう言っておられました。『あの男は、今度こそ、本物の証人を、連れてくるつもりだ』と」
私は、戸の陰で、拳を握った。
九刻。
処刑の、三時間前。
あの人は、本物の証人を揃えて、完全な偽の委任状を、完成させるつもりなのだ。
そして、再審の申請そのものを、潰すために。
「……ロシュ」
「はい」
「ヴェルニエ殿に、使いを。取調べを、夜明けまで、引き延ばせ。九刻までに、あの男を、ここから出すな」
「承知しました」
デュボワ卿は、立ち上がった。
「いや、違うな。出さないのでは、足りん。あの男が、九刻に、ティシエ殿の事務所へ現れたい理由を、利用する」
「利用、とは」
「現れさせるのだ。ただし、わたしたちの、仕掛けた場所で」
灰色の目が、父を、見る。
父は、静かに、うなずく。
*
マルセルは、ボーダン卿に抱えられるようにして、控えの間の長椅子へ移される。
濡れた上着を脱がされ、毛布をかけられ、熱い茶を握らされても、まだ、指先の震えが、止まらないようだった。
私は、戸を開けて、その前に膝をついた。
「マルセルさん」
「は、はい。……あの、お嬢様」
彼は、飛び上がらんばかりに、背筋を伸ばした。
「ありがとうございます。夜通し、走ってくださって」
「いえ。そんな。わたしは、書生ですから。ただ、先生が」
そこで、言葉が、途切れた。
目の縁が、赤くなる。
「先生は、お嬢様が捕まったと聞いたときから、ずっと、おっしゃっていました。『あの方の筆跡を、わたしは、十年、見てきた。あれは、人を殺せる字ではない』と」
私は、胸の奥が、ぎゅっと縮むのを感じた。
昔、母の遺言を預かってくれた、あの公証人。幼いころ、事務所で飴をもらった。眼鏡の奥の目が、いつも、静かだった。
「ティシエ先生に、伝えてください。ずっと、見ていてくださって、ありがとう、と」
「必ず」
青年は、何度も、うなずいた。
立ち上がると、背後に、ジルベールが立っていた。
いつから、そこにいたのか。
「……今のは、証言ではない」
「はい?」
「ただの、礼だ。記録は、しない」
彼は、私から目を逸らして、言った。
「あなたは、人に礼を言うのが、早い」
「そう、でしょうか」
「見張りの者にまで、毎日、頭を下げる。囚われの身で、そんな人間は、見たことがなかった」
「……変、でしたか」
「最初は、変な人間だと思った」
私は、思わず、笑ってしまった。
「いまは?」
「いまは」
ジルベールは、しばらく、黙った。
窓の外の薄明かりが、彼の横顔の輪郭を、ゆっくりと、浮かび上がらせていく。
「変だとは、思わなくなった」
その、ぎこちない答えが、夜明け前の空気に、小さく溶けた。
「行くぞ。デュボワ卿が、作戦を、組み直す」
「はい」
歩きだした背中を、私は、少し遅れて、追いかけた。
追いかけながら、胸の中で、数えていた。
十八。
そう、彼の手帳に、まだ書かれていない、十八番目を。
雨は、止みかけていた。
窓の向こうが、薄い鉛色に、変わっていく。
処刑まで、あと九時間。




