父の証言
十一の鐘が、遠くで鳴った。
扉が開いて、最初に入ってきたのは、濡れた外套の匂いだった。
雨と、泥と、馬の汗。それから、父がいつも纏っていた、乾いた葉巻の香り。
「……レティシア」
ヴァルモン侯爵ギヨームは、戸口で足を止めた。
最後に見たときより、頬がこけている。灰色の髪は乱れ、外套の裾から、雫がぽたぽたと床に落ちていた。供は、老いた御者がひとりだけ。
私は、立ち上がろうとして、膝に力が入らないことに気づいた。
「お父様」
その一言で、喉が、塞がる。
父は、一歩、また一歩と近づいて、私の三歩手前で、立ち止まる。抱きしめる距離ではなかった。けれど、離れてもいない。
「侯爵閣下」
デュボワ卿が、低く声をかけた。
「長旅で、お疲れのところ、恐縮です。ですが、時間がありません。お嬢様との面会は、この場で、騎士団の立会いのもとに」
「構わん」
父は、私から目を逸らさずに答えた。
「立ち会いも、記録も、好きにしてくれ。私は、もう、何も隠さない」
*
椅子が運ばれ、父は、それに腰を下ろした。
ボーダン卿が熱い茶を持ってきたが、父は、手をつけなかった。膝の上で、骨ばった両手を、固く組んでいる。右の薬指の根元に、細く、白い痕が残っていた。
指輪の、あった場所。
そこだけ、日に焼けていない。
「別邸に、いたのだ」
父が、ぽつりと言った。
「五月の三日から、ずっと。誰にも会わず、手紙も、読まなかった。クロードが、すべて引き受けると言うので、任せていた。……愚かだった」
「閣下」
「ガスパールから、昨日の朝、手紙が届いた。『お嬢様は、命乞いをなさらない。ただ、毎日、屋敷の使用人たちに、礼を言って過ごしておられる』と」
老いた声が、わずかに震えた。
「お前の母も、そうだった。人に頼まれると断れず、頼まれなくても、礼を欠かさない。……私は、その手紙を、三度読んで、馬の用意を命じた」
私は、膝の上の手を、強く握りしめる。
言いたいことは、山ほどある。けれど、最初に口をついて出たのは、別の言葉だった。
「お父様。あの夜、扉の前に、立っていてくださいましたね」
「……気づいて、いたのか」
「足音が、聞こえました。長いこと、立ち尽くしておいででしたね。私は、返事をしなかった。怖くて」
父は、目を閉じた。
「私も、怖かった。お前が、本当に、王女殿下を手にかけたのかと、問うことが。そして、クロードが、『レティは認めました』と、私に告げたことが」
息が、止まった。
「……認めて、いません」
「そうだろう」
父は、ゆっくりと目を開けて、私を見た。
「今、お前の顔を見て、わかった。私は、一番長く見てきた人間のくせに、聞いた言葉のほうを、信じたのだ」
*
「閣下。いくつか、確認をさせていただきます」
ヴェルニエ卿が、手帳を開いた。
「ひとつ。侯爵は、この三週間のあいだに、甥のクロード・ド・サン=ロラン氏に、『すべての書面を預ける』と、お命じになりましたか」
「いいや」
即答だった。
「書面の整理を頼んだことは、ある。だが、『すべて』など、言っていない。ましてや、娘の件に関わるものを、私の名で動かす許しなど、与えた覚えはない」
「署名の練習をするよう、お命じに」
「署名の、練習?」
父の眉が、深く寄った。
「何の、話だ」
ヴェルニエ卿が、目配せをすると、ボーダン卿が、証拠として押さえた便箋の束を、卓の上に置いた。
最初のぎこちない署名から、最後の、父そのもののような筆致まで。
父は、それを一枚ずつ、指でめくっていく。
三枚目で、手が止まった。
最後の一枚で、その手が、はっきりと、震えた。
「……私の字だ」
「いいえ。閣下の字ではありません。サン=ロラン氏の字です」
「わかっている。わかっているから、恐ろしいのだ」
父は、紙から手を離して、顔を覆った。
「クロードの字は、この屋敷で、最も、私の字に似ていた。幼いころ、私が、手本を書いてやったのだ。……自分の手で、自分の首を絞める手を、育てていた」
その言葉に、部屋じゅうが、静まり返った。
私は、胸の底が、ひりつくのを感じた。
母を失った日に、父の字を真似て、「元気を出して」と、書いてくれた幼い少年の姿が、ふいに、目の前に重なった。
*
「指輪のことを、お聞かせください」
ジルベールが、一歩、前に出る。
「五月二日の朝、あなたは、指輪を、探しておられた。そして、ご自分の右手を、隠された。理由を、お聞かせ願えますか」
「……恥だったのだ」
父は、顔を上げた。
「あの指輪は、ヴァルモン家の家督の証だ。祖父から、私へ。いずれは、レティの婿に」
「それが、五月二日の朝には、なかった」
「そうだ。前の晩、クロードが、書斎へ来た。『伯父上、お疲れでしょう』と、葡萄酒を注いでくれた。私は、ひと口、ふた口、飲んで。……そこから、朝まで、記憶がない」
デュボワ卿の目が、鋭く光った。
「眠らされていた、ということですか」
「そう思う。今なら、そう思う。だが、あの朝は、恥ずかしくて、誰にも言えなかった。大事な指輪を、飲んだくれて、どこかへ失くしたのだと。だから、手を隠した」
「ご自身を、責めておられたのですね」
「責めて、責めて、責め抜いたよ。そして、娘の処刑が決まった日に、『伯父上を、これ以上、煩わせたくない』と言ってくれる甥に、すがった」
父は、自嘲するように、笑った。
笑いながら、その頬を、涙が伝っていた。
「お父様」
私は、思わず、立ち上がっていた。
ジルベールが、そっと、私の肘を支える。
数歩の距離を、ゆっくりと、詰めていく。
父の手の甲に、私の手を、重ねる。
冷たくて、ごつごつしていた。昔、母の棺の前で、私の肩を、一度だけ強く掴んだ手と、同じだった。
「お父様が、悪いのではありません。あの人は、優しい声で、嘘をつくんです。私も、十年、気づけなかった」
「……レティ」
「だから、お願いです。あの人の前で、同じことを、もう一度、言ってください。署名のことも、指輪のことも。明日の、正午までに」
父は、私の手を、両手で包んだ。
長い、長い沈黙のあとで、低く、答えた。
「言おう。命に代えても」
*
ヴェルニエ卿が、手帳を閉じた。
「閣下。ご証言は、書面にさせていただきます。今夜のうちに、法務院の再審申請に、添付いたします」
「構わん」
「ただし、ひとつだけ。サン=ロラン氏は、現在、騎士団本部におります。閣下がこちらにおいでになったことは、まだ、知らせておりません」
「知らせてはならん、ということだな」
「はい。夜明けまでは、閣下の身を、騎士団がお預かりします。この屋敷に、ご滞在ください。ロシュを、護衛につけます」
父は、ジルベールを、静かに見上げた。
「ロシュ卿、と言ったか。娘が、世話になった」
「いいえ。職務です」
そっけない返答に、父の口元が、ほんのわずか、緩んだ。
「職務で、あの子の肩を、支えるのかね」
「……失礼しました」
ジルベールが、私の肘から、手を離した。
その耳の端が、わずかに赤い。
デュボワ卿が、咳払いをして、窓の外を見た。
雨は、まだ降っている。
けれど、さっきより、少しだけ、音が遠い。
「閣下」
廊下から、ボーダン卿が、息を切らせて戻ってきた。
「本部から、急報です。サン=ロラン殿が、取調べの席で、ひとつだけ、条件を出したと」
「条件?」
「『侯爵閣下を、ここへ呼んでほしい。伯父上が来られれば、すべては、誤解だとわかる』と」
父は、ゆっくりと、立ち上がった。
濡れた外套の肩が、わずかに揺れた。
「……あの子は、私が、こちらへ来たことを、知っているのか」
「いえ、まだ。ただ、今夜の馬車を、門の外で見たものがいたようです。時間の問題かと」
デュボワ卿の声が、低くなった。
「ならば、なおさら、侯爵は、夜明けまで、動かせん。ボーダン、客間へ案内を」
「はっ。閣下、こちらへ」
父は、扉の前で、一度だけ、振り返った。
「レティシア。……おやすみ」
「おやすみなさい、お父様」
何年ぶりに交わしたか、わからない挨拶だった。
扉が閉まって、足音が遠ざかっていく。
*
部屋には、私と、ジルベールと、デュボワ卿が、残った。
「ヴァルモン嬢」
デュボワ卿が、椅子に深く腰を沈めて、疲れた声を出した。
「私は、昨日まで、あなたを、王女殿下を死なせた女だと思っていた」
「……はい」
「その考えを、一度に、改めることはできん。だが、あの父君の顔を見て、侯爵が嘘をついていないことは、わかった。娘を想う男の顔だった」
私は、深く、頭を下げた。
それ以上の言葉が、見つからなかった。
「ロシュ。侯爵を、頼む。夜明けまで、この屋敷の外へは、一歩も出すな」
「承知しました」
「それから」
デュボワ卿は、立ち上がりかけて、思い出したように、続けた。
「ヴァルモン嬢にも、少し、休ませろ。顔色が、悪い」
「はい」
扉が閉まる。
急に、広い部屋になった。
「座れ」
ジルベールが、短く言った。
言われるままに、寝台の端に腰を下ろすと、膝が、思いのほか、がくがくと震えていた。
「……おかしいですね。さっきまで、平気だったのに」
「平気では、なかったんだ」
「父に、会えました」
「ああ」
「父は、私を、信じてくれました」
「ああ」
彼は、いつもの無愛想な声で、同じ返事を、繰り返した。
けれど、それが、ふしぎと、いちばん、ありがたかった。
「一刻だけ、目を閉じていろ。私は、ここにいる」
「でも、あと十一時間しか」
「だから、休め。頭が回らなければ、明日の朝に、必要な一言が、出てこない」
反論の余地のない理屈だった。
私は、小さく笑って、横になった。
灰色の目が、私を見下ろしている。
やがて、その手が、ほんの少しだけ、毛布の端を、引き上げた。
目を閉じる直前、窓の外を、ひとつの影が横切った気がした。
雨の向こうで、誰かが、こちらを見上げていたような。
処刑まで、あと十一時間。
【第26話 記録】
進んだ物語:ヴァルモン侯爵が到着し、レティと和解。侯爵は「すべての書面を預ける」と命じたことも署名練習を指示したこともないと証言し、クロードの言い逃れ(伯父の指示)を崩した。侯爵は五月一日夜、クロードが注いだ葡萄酒を飲んで記憶を失い、翌朝指輪が無かったと述べた。扉の前で聞いたのは、クロードが「レティは認めました」と告げたため。ジルベールは侯爵の護衛につき、レティを休ませる。
新設定:指輪はヴァルモン家の家督の証/侯爵の右薬指に白い痕/クロードが取調べで「侯爵を呼べ」と要求(侯爵の到着はまだ知らせていない)。
未回収伏線:指輪の現在の所在/窓の外を横切った影(誰かが屋敷を見張っている、次話で回収)/クロードの脅しの実行(コレットの安全)/公証人の原本/杯を十五日間所持していた嘘の追及。
次話への引き継ぎ:夜明け前の動き。クロードの次の手と、影の正体。




