第十章 読まれない手紙
婚約解消の書類に署名した。
三度。
書き損じた。
四度目で。
ようやく自分の名前を書けた。
それだけだった。
世界は変わらなかった。
アーデルハイド公爵家の廊下には使用人が歩き。
王城では政務が続き。
学園では授業が行われている。
ただ。
アルベルトとの未来だけが。
なくなった。
その夜。
クラリスは机に向かった。
白い紙を置いた。
書いた。
最初に。
謝罪。
『ごめんなさい』
それから。
言えなかったこと。
『あなたが五位になった時、嬉しかったのです』
『二位になった時も』
『首席になった時は、誰より誇らしかった』
『お父様のお仕事を手伝っているあなたが好きでした』
『王太子殿下に褒められた時、わたくしまで嬉しかった』
書けば書くほど。
涙が落ちた。
『王城へ行ったのは、ユリウス殿下の方が大切だったからではありません』
『あなたと二人になるのが恥ずかしくて』
『緊張して』
『逃げていました』
夜会のこと。
『エレノア様に嫉妬しました』
『あなたが他の方に笑いかけるのが嫌でした』
『本当は、わたくしを見てほしいと言いたかったのです』
そして。
最も書く資格がないように思えたこと。
『あなたは能力で選ばれたのではない、と言ったことは、すべて間違いでした』
『お父様も』
『王太子殿下も』
『公爵家の皆も』
『あなた自身を認めていました』
『認めていなかったのは、わたくしだけでした』
違う。
クラリスは筆を止めた。
自分も。
本当は認めていた。
誰より。
それなのに。
伝えなかった。
なら。
アルベルトにとっては。
認めていなかったのと同じだった。
最後に。
『アルベルト。
わたくしは、あなたが大好きでした。
婚約が決まった夜、嬉しくて眠れませんでした。
いつかあなたが、お父様の机へ座る日を楽しみにしていました。
その隣にわたくしがいるのだと思っていました。
あなたを選んだことだけは、一度も後悔していません。
けれど。
あなたにわたくしを選ばせ続けたことを、今は後悔しています。
どうか。
元気になってください。
わたくしのことを忘れてください。
あなたが、大好きでした』
書き終えた。
封をした。
宛名を書く。
アルベルト・フォン・レイヴァン様。
差出人。
クラリス・フォン・アーデルハイド。
全部を書き終えた時。
ほんの少しだけ。
胸が軽くなった。
そのことに。
クラリス自身が気づいた。
手紙を持って。
父の執務室へ向かった。
「お父様」
「どうした」
「これを」
父は封筒を見る。
「アルベルト君へ?」
「はい」
父は受け取らなかった。
「渡せない」
「今すぐでなくても」
「違う」
父の声は静かだった。
「彼は、お前の名前を見るだけで体調を崩す」
「ですから、いつか」
「いつか?」
クラリスは答えられない。
父が尋ねた。
「それを読めば、アルベルト君は楽になるのか」
沈黙。
「お前が本当は彼を愛していたと知れば、彼の苦しみは軽くなるのか」
「……」
「それとも」
父は手紙を見る。
「お前が、理解してもらえたと楽になるのか」
クラリスの指が震えた。
手紙を書く間。
少しずつ。
楽になっていた。
自分は本当は違ったのだと。
嫌っていたわけではない。
愛していた。
それを。
アルベルトに知ってほしいと思った。
また。
自分の都合だった。
「……わたくしのためです」
声が出た。
「わたくしが」
涙が頬を伝って落ちる。
「言いたかっただけです」
父は何も言わなかった。
クラリスは手紙を胸元へ戻した。
「渡しません」
それから数日後。
クラリスは父へ修道院へ行きたいと告げた。
最初。
反対された。
罰のためではない。
逃げるためでもない。
一年だけ。
自分が人とどう向き合うべきなのかを考えたい。
何度も話した。
最終的に認められた。
後継については。
父の弟の子供たちから、適性を見て養嗣子を選ぶことになった。
出発の日。
クラリスは最後に父の執務室を訪れた。
黒檀の机。
その横。
以前アルベルトが使っていた小さな机は、まだ残されていた。
「片付けないのですか」
父は少し黙った。
「まだ、使えるからな」
それだけだった。
クラリスは机へ近づいた。
引き出し。
椅子。
アルベルトが使っていた羽根ペン。
胸が痛んだ。
本当なら。
いつか。
父が大きな机をアルベルトへ譲るはずだった。
父は本気だった。
王太子も。
家令も。
文官たちも。
もうアルベルトを、この家の次代として見始めていた。
自分だけが。
本人へそれを伝えなかった。
それどころか。
「あなたがここにいるのは、わたくしの婚約者だから」
と。
彼が最も恐れていたことを。
事実であるかのように突きつけた。
クラリスは机へ触れなかった。
背を向ける。
屋敷の前には馬車が待っていた。
母と別れ。
父へ頭を下げる。
「クラリス」
呼び止められる。
「はい」
「自分の人生まで捨てるな」
クラリスは。
しばらく答えられなかった。
「……できるでしょうか」
「分からん」
父は言った。
「だが、生きていなければできない」
クラリスは深く頭を下げた。
馬車へ乗る。
膝の上には。
一通の手紙。
アルベルトへ宛てた。
けれど。
永遠に渡すつもりのない手紙。
王都を離れる。
学園の塔が見える。
王城。
公爵邸。
遠ざかる。
アルベルトがどこにいるのか。
クラリスには知らされていない。
今。
何を食べて。
何を読んで。
どこまで歩けるようになったのか。
知らない。
そして。
知らなくてよいのだと思った。
それはもう。
自分が求めてよい情報ではない。
クラリスは封筒の上に書かれた名前を見た。
アルベルト。
それだけで。
胸の奥が痛む。
けれど。
もう。
その痛みを彼に背負わせることはしない。
「アルベルト」
小さく呼んだ。
届かない声で。
「あなたが、大好きでした」
返事はない。
当然だった。
アルベルトは。
クラリスが自分を愛していたことを。
おそらく知らないまま生きていく。
彼の中に残るクラリスは。
努力しても認めなかった女。
王子を優先した婚約者。
そして最後に。
彼の能力そのものを否定した人間。
それが。
クラリスが彼へ渡した自分だった。
胸の中にどれほど別の自分が存在していたとしても。
渡していないものは。
相手の記憶には残らない。
愛しているという気持ちは。
そこにあるだけでは。
愛したことにはならない時がある。
言葉にし。
行動にし。
相手へ届いて。
初めて。
二人の間に存在するものになる。
クラリスは。
それを知るために。
最も大切な人を失った。
馬車は王都を離れていく。
膝の上の手紙は。
最後まで。
封を切られることはなかった。




