第一章 父の机の向こう
アーデルハイド公爵家の執務室には、クラリスが幼い頃から見慣れている大きな机があった。
代々の当主が使ってきた黒檀の机で、父ハインリヒは朝から晩までその向こうに座り、領地から運ばれてくる報告書や陳情書、王城から届く書簡に目を通している。
幼い頃、クラリスはいつか自分の夫となる人が、その机へ座るのだと教えられた。
アーデルハイド公爵家の直系は彼女一人だったが、この国では公爵位の継承には男子が求められる。そのためクラリスの夫となり、公爵家の養嗣子となった者が、いずれハインリヒから爵位と領地を引き継ぐ。
その人を、クラリスは自分で選んだ。
アルベルト・フォン・レイヴァン。
子爵家の三男である。
初めて会った時から好きだった。
だから父へ頼み込んだ。
そして婚約が決まった。
それだけで、自分の気持ちは十分に伝わっているのだと、クラリスは長いこと疑わなかった。
ある日の放課後。
学園から戻ったクラリスが父へ報告するため執務室へ向かうと、扉の向こうから聞き慣れた声がした。
「北東部の税収減少ですが、徴税率そのものではなく、洪水後の輸送費上昇が原因ではないかと思います」
アルベルトだった。
クラリスは扉を開ける手を止めた。
父が尋ねる。
「根拠は」
「昨年と今年で収穫量には大きな差がありません。それに対して東街道を利用する商会の輸送費は平均で二割近く増えています。麦の買い取り価格が下がった結果、農村部の現金収入が減ったのではないでしょうか」
「ではどうする」
すぐには答えない。
紙の擦れる音。
しばらくしてアルベルトが口を開く。
「街道すべてを直す予算はありません。旧水路沿いの道を一時的な輸送路として整備して、その間に主要部分だけ補修するのがよいかと」
沈黙。
クラリスの手に自然と力が入った。
父は滅多に人を褒めない。
まして領地の仕事については、身内であろうと容赦がなかった。
やがて。
「私とほぼ同じ結論だ」
その言葉が聞こえた。
クラリスの胸が熱くなる。
「よく調べたな」
「ありがとうございます」
アルベルトの声が少しだけ明るくなった。
「この案は王太子殿下へ出す資料にも使う。お前の名前も記しておけ」
「僕の、ですか」
「誰が考えた案だと思っている」
父の声音には、わずかな笑いが含まれていた。
クラリスはその場から離れた。
扉を開けてしまえば、アルベルトに聞いていたことが知られる。
それが恥ずかしかった。
――素晴らしいですわ。
――お父様から認めていただけましたのね。
そう伝えればよいだけだった。
しかし、想像するだけで頬が熱くなる。
夕方。
公爵邸を出ようとするアルベルトと廊下で出会った。
「今日はお父様とご一緒でしたの?」
「うん」
彼は少し照れたように笑った。
「東部の街道について見てもらっていたんだ。王太子殿下に出す資料にも使ってくださるらしい」
その笑顔を見ていると、胸が苦しいほど嬉しかった。
自分が選んだ人。
いつか父の机へ座る人。
その人が、もう父から認められ始めている。
言わなければならない。
よく頑張っていますわね、と。
だが、クラリスの口から出たのは違う言葉だった。
「お父様がお仕事を任せてくださった程度で、あまり浮かれない方がよろしいですわ」
アルベルトの表情がわずかに止まった。
「え?」
「あなたはまだ勉強させていただいている立場なのでしょう。お父様は、わたくしの婚約者だから育ててくださっているのですもの」
言った瞬間、違うと思った。
父はそんなつもりではない。
先ほど確かにアルベルトの能力を認めていた。
けれど、もう言葉は戻らない。
「……そうだね」
アルベルトは視線を落とした。
「まだ勉強させてもらっているだけだよね」
「ええ」
なぜそこで頷いてしまったのか。
クラリス自身にも分からなかった。
「もっと頑張るよ」
そう言って彼は帰っていった。
廊下の向こうへ消えていく背中を、クラリスは見送った。
呼び止めることはできた。
今のは違う、と。
お父様は本当にあなたを認めていた、と。
けれど、足は動かなかった。
明日。
次に会った時。
今度こそ。
そう思った。
その「次」が何度も繰り返されることになるとは、その時のクラリスはまだ知らなかった。




