第五話 ずれる時計、直す人
「うちのばあちゃん、時計屋やってるで。古い時計とか、近所の人から預かった腕時計とか、いろいろ直しとる」
ソラがそう言ったとき、わたしは少し驚いた。ここ数日、一緒に調べものをしていたのに、ソラの家族については、まだほとんど何も知らなかった。
「この前も何度か前を通ったけど、黒田くんの家やったんや」
ナナが驚いたように言った。
店は、商店街を抜けたところにあった。看板には「黒田時計店」と書かれている。ガラス戸の向こうに、たくさんの時計が並んでいるのが見えた。
中に入ると、かち、こち、と、それぞれ少しずつ違う速さで時計の音が重なって聞こえてきた。振り子時計、腕時計、置時計。机の上には、分解された時計の部品が、きれいに並べられている。
「ばあちゃん、お客さん連れてきた」
奥から出てきたのは、銀縁の眼鏡をかけた女の人だった。髪を後ろでまとめ、エプロンの裾には、細かい工具が差し込まれている。
「あら、ソラの友達。珍しいね」
澄江さんは、ゆっくりとした話し方をする人だった。けれど、机の上の時計を見る目は、不思議と鋭かった。
そのとき、店の奥で大きな振り子時計が鳴った。
テンが驚いて、わたしの肩から飛び上がる。
「な、何じゃ。時が暴れ出したのか」
「時計屋なんだから、時計が鳴るのは普通でしょ」
「知っておる。今のは、そなたらが驚かぬか確かめただけじゃ」
「いちばん驚いてたの、テンやで」
ナナがすかさず言った。
澄江さんは、わたしたちのやり取りを不思議そうに眺めていた。澄江さんには、テンの姿は見えていないようだ。わたしの肩のあたりを見つめたあと、わたしたち三人をゆっくり見回し、くすっと笑った。
「若い子は元気があってええねえ。誰もおらんところに話しかけても、こんなににぎやかなんやから」
おっとりとした口調なのに、言っていることは鋭い。
わたしは顔が熱くなるのを感じ、誤魔化すように慌てて本題を切り出した。
「自由研究で、時計のこと調べてて」
そう説明すると、澄江さんは店の壁にずらりと並んだ時計を指さした。
「ここにある時計、全部、同じ時刻を指してるか分かる?」
わたしは、壁の時計をひとつずつ見比べた。
四時十五分。四時十四分。四時十六分。
わずかだけれど、ばらばらだった。
「電池が切れかけてるとか?」
ナナが言った。
「古い時計ほど、遅れやすいんちゃう?」
ソラが壁の時計を見上げる。
わたしは新しそうな時計を指さした。
「でも、あれも一分ずれてる」
時計の種類と時刻をノートに書き並べてから、顔を上げた。
「壊れてる時計と、壊れてない時計を分ければ分かるかも」
そう言うと、澄江さんは少し笑った。
「ほな、ほんまに壊れとるか、見てみよか」
ナナが提案した。
「これ、壊れてるんですか」
わたしは澄江さんに聞いた。
「壊れてるんやない。時計っちゅうもんは、放っておいたら、自然とずれていくもんなんよ」
わたしは、その言葉に引っかかった。時計は正しい時刻を示すための道具だと、ずっと思っていた。正確であることが当たり前で、ずれることは故障や失敗だと。
「時計は、ずれへん道具やない。ずれたら直す道具や」
澄江さんは、机の上の機械式時計を手に取った。歯車がかみ合う、かちかちという音がする。
「機械式は、ぜんまいの力で動くから、温度や置き方で、少しずつ進んだり遅れたりする。だから、定期的に時刻を合わせ直さなあかん」
「じゃあ、電波時計は?」
「あれは、電波を受信して、自動で時刻を合わせる仕組み。せやから、機械式よりずれにくい。でも、電波が届きにくい場所やと、合わせ直すタイミングがずれることもある」
澄江さんは、店にある時計をひとつずつ、丁寧に説明してくれた。振り子時計、機械式の腕時計、クォーツ式、電波時計。それぞれ、時を刻む仕組みがまったく違う。
わたしは、これまで町で見かけた時計の違いを思い出した。駅前の時計、商店街の時計、天文科学館の塔時計。それぞれ、少しずつ時刻が違って見えたのは、故障しているわけでも、誰かがいたずらしているわけでもなく、調整の方法や仕組みが違うからだったのだ。
「ひより、これ、表にまとめたほうがよくない?」
ナナが、自分の撮ってきた写真を並べながら言った。商店街のあちこちの時計を、ナナはこれまでずっと撮影していたらしい。
「ナナちゃん、その写真、何時に撮ったか分かる?」
「うん、全部、時刻入れて撮ってある」
わたしは、ナナの写真と、自分のノートの記録を照らし合わせて、町の時計の一覧表を作り始めた。ソラは、それぞれの時計がどんな種類なのかを、澄江さんに聞きながら調べていく。
駅前の時計は電波時計。商店街の入口の時計は、古い機械式。天文科学館の塔時計は、定期的に職員が手で調整しているという。
けれど、一つだけ、どうしても説明のつかない時計があった。
商店街の古い菓子店の前に置かれた、小さな丸時計だ。
ナナが午前に撮った写真では、正しい時刻より三分進んでいた。午後の写真では、一分遅れている。電池式なら、数時間で四分も変わるのはおかしい。
「途中で誰かが直したんじゃない?」
わたしは言った。
「でも、店のおっちゃん、今日は触ってへんって言うてたで」
ソラが首をかしげる。
わたしは、一覧表のその時計だけに、何も書けないまま手を止めた。
「記録のどこかが間違ってる」
「どこが?」
ナナが写真を見返した。
「それを探す」
わたしたちは写真を拡大し、撮影時刻を確認し、もう一度店の前へ戻った。
「時計がずれたんやなくて、写真の見方を間違えとったんやな」
ソラが言った。
わたしは、一覧表の数字を書き直した。
「ごめん。写真に残ってるんやから、絶対合ってると思ってた」
ナナは、午前に撮った画像をもう一度拡大した。
「でも、撮ったものが残ってても、見方を間違えたら、違う答えになるんやな」
「写真が間違ってたわけじゃないよ」
わたしは言った。
「うん。せやから、撮っただけで安心したらあかんってことやろ。何を撮った写真なのか、ちゃんと確かめな」
ナナは画像の名前を直し、撮影した場所と時刻を一つずつ書き加え始めた。
調べる道具が正しくても、それを見る人が間違えることはある。記録したというだけで、その記録が正しいとは限らない。
「だから、確かめ直すんやろ」
澄江さんは、時計の裏蓋を閉じながら言った。
「時計も、記録も、人の考えもな」
わたしが記録を整理し、ナナが写真で裏付けを取り、ソラが仕組みを調べる。三人の役割が、初めて自然にかみ合っているのを感じた。
これまで、わたしはソラの「記録を取らない」やり方にずっといら立っていた。けれど、ソラの知識と、ナナの記録力と、わたしの整理する力が組み合わさると、ひとりではできなかったことが、するすると進んでいく。
「そういえば」
澄江さんが、ふと思い出したように言った。
「うちにある、あの古い掛け時計、知っとる?」
澄江さんが指さしたのは、店の奥の壁にかかった、ひときわ古びた掛け時計だった。文字盤の数字は、ほとんど読めなくなっている。
その時計を見たとたん、わたしの肩にとまっていたテンが、はっと身を硬くした。
「……それは」
テンが、それまで聞いたことのないような、低い声を出した。
「テン、どうしたの?」
「いや……何でもない」
明らかに何でもなくはない様子だったが、テンはそれ以上、何も言わなかった。
「その時計、どうしたんですか」
わたしが聞くと、澄江さんは、懐かしそうに目を細めた。
「ずいぶん前、近所に住んどった子が、うちに修理を頼んできたんよ。星座盤と時計が好きな子でね。天文科学館にもよう通っとった」
「その子、覚えてるんですか」
「あの子は、病気がちでなあ。学校を休みがちやったけど、星のことになると、目を輝かせとった。確か、名前は……」
澄江さんは、少し考えるように天井を見上げた。
「朝岡ユキコちゃん、言うたかな。もう何十年も前のことやけど」
朝岡ユキコ。
わたしは、その名前を、頭の中で繰り返した。あの古いノートに書かれていた、几帳面な文字。そして、後半になるほど乱れていった筆跡。
ノートを書いた子どもには、ようやく名前がついた。
「その子、今は?」
「さあ、どうしてるかねえ。引っ越したとは聞いたけど」
澄江さんは、それ以上は知らないようだった。
わたしは、店を出るとき、もう一度あの古い掛け時計を見上げた。文字盤はほとんど読めなくなっていたけれど、針だけは、今もゆっくりと時を刻み続けている。
朝岡ユキコという子が、なぜ「明石の時間が、一分なくなる」と書いたのか。
その理由は、まだ分からなかった。
でも、確かに、その子は実在した。星と時計が好きで、病気がちで、天文科学館に通っていた、わたしたちと同じ年頃の子。
その子が見ていた空と、わたしたちが今見ている空は、きっとどこかでつながっている。
帰り道、ソラが珍しく静かだった。
「黒田くん、どうかした?」
「いや……ばあちゃんがあんな話するの、初めて聞いたから」
ソラにとっても、知らなかったことだったらしい。家族のすぐそばに、ずっと眠っていた記憶。
わたしは、ノートを抱え直した。
ずれない時計を探すな。ずれを直す人を探せ。
その言葉の意味が、今ならよく分かる。正確さというのは、最初から完璧であることではなく、ずれを見つけて、直し続けることなのだ。
澄江さんの店の、かちかちという音を思い出しながら、わたしは、自分自身のことも、少しだけ考えた。
わたしはずっと、決めたことを最後までやり通すことが、正しさだと思ってきた。一度ずれたら、それは失敗だと。
でも、ずれることは、悪いことじゃないのかもしれない。
大事なのは、ずれたとき、それに気づいて、直そうとすることなのかもしれない。
けれど、その日の夜、わたしは、ずれたものが簡単には直らないことも思い出した。
家に帰ってしばらくすると、お父さんからメッセージが届いた。
『今日は早く帰れそう』
わたしは少しうれしくなって、いつもより早めに夕食の支度を始めた。お父さんの好きな野菜炒めと、味噌汁。テーブルに並べて、時計を見ながら待った。
六時。
七時。
メッセージは、それきり来なかった。
八時を過ぎたころ、ようやく着信が入った。
「ごめん、急な設備点検が入って」
お父さんの声は、疲れていた。鉄道の設備に関わる仕事をしているお父さんは、急なトラブル対応で予定が変わることがよくある。
「分かった」
わたしは短く答えて、電話を切った。
冷めた野菜炒めを見つめながら、わたしは、以前のことを思い出していた。
東京にいたころ、わたしの誕生日に、お父さんと駅で待ち合わせをしたことがある。約束の時刻に来なかったお父さんを、わたしは一時間以上、駅前で待ち続けた。連絡もほとんどなく、ようやく現れたお父さんは「仕事だから仕方なかった」と謝った。
仕方なかった、という言葉が、わたしにはずっと引っかかっていた。仕事の都合と、わたしとの約束。お父さんは、仕事のほうを選んだ。そんなふうに感じてしまった自分を、今でもうまく説明できない。
あれから、わたしは時間を守ることに、人一倍こだわるようになった。約束した時刻には、絶対に遅れない。誰かと待ち合わせるときは、必ず五分前に着く。それが、わたしなりの、二度とあんな思いをしないための決まりだった。
冷めた野菜炒めをラップで包みながら、わたしは、お父さんに対して、何も言わなかった。言葉にするほど、自分でもうまく理由が分からなかったからだ。
空には、もう星がいくつか見え始めていた。
朝岡ユキコという子が見ていたであろう、同じ星空を見上げながら、わたしは、次の謎のことを考え始めていた。
☆
翌日、七月二十六日。
集合時刻になっても、ソラは来なかった。
わたしとナナと美月さんは、天文科学館の前で、十分以上待った。
「黒田くん、遅いね」
わたしが時計を見ながら言うと、ナナは肩をすくめた。
「この前も、ちょっと遅れてきたやん」
ナナは気にしていない様子だったが、わたしは、昨日のお父さんのことと重なって、苛立ちが収まらなかった。
ようやくソラが現れたのは、約束の時刻から十五分も過ぎたころだった。
「ごめん」
それだけ言って、ソラはバッグを下ろした。
「なんで遅れたの」
「いや、ちょっと……」
ソラは何かを言いかけて、結局、口をつぐんだ。理由を説明する気はないらしい。
「ちゃんと説明してよ」
「べつにええやろ、ちゃんと来たんやから」
その言い方に、わたしの中で何かが小さくはじけた。
「よくない。約束の時刻に遅れたら、ちゃんと理由を言うのが普通でしょ」
「水野は、いつもそうやな。時間、時間って」
それ以上は、お互い何も言わなかった。
その日の調査は、日の入りの時刻と方角を確かめることだった。
スマートフォンの方位磁針と地図を見比べ、天文科学館の屋上から、太陽が沈む方角と、夜になったら星が見える方向を記録した。
いつもなら、ソラが真っ先に空を指さすはずなのに、その日は必要なことしか言わなかった。
わたしも、聞きたいことだけを短く尋ねた。
少し気まずい空気のまま、太陽は少しずつ西へ傾いていった。
そして日が沈めば、そのまま星の観測が始まることになっていた。




