第5話 鉄砲玉
ジルは異音を聞いた気がして目を覚ました。眠たい目を擦りながら置時計の表示を見てみれば、午前五時半。
ぎしり……。ぎしり……。
一定間隔でなにかが軋む音だった。音は、窓の外……芝生や花壇や菜園を擁する広大な庭園の方角から聞こえてくるようだった。大きなガラス窓から庭園を恐る恐る覗いてみる。不審者だったら一体どうしてくれようか。ヘンリック氏に知らせなくてはならない。しかし、そこにいたのは、なんというか予想の範疇を超えない人物だ。
「イザークさん?」
どう考えても自分かヘンリック氏かイザーク青年しかいないのだから、ヘンリック氏でも不審者でもなければ、当然の帰結としてイザークしかいない。イザーク自体が不審者みたいなものだと言うのであれば、否定しようもなかったけれど。
「……懸垂?」
庭園の屋敷側には樫の大木が植わっていて、太い枝を地面と平行に張り出させている。上裸姿のイザークがその立派な枝に両手で掴まって、ひたすら懸垂をしているのだ。
枝の上に顎を持ち上げる。静止する。ゆっくりと身体を下ろす。また顎を枝の上に持ち上げる……。
背中側しか見えないので表情は窺えないが、律動は少しも乱れないから、きっと涼しい顔でもしているのだろう。
ジルがしばらく眺めていれば、今度は懸垂どころか、空中で脚を持ち上げ、角度をつけて、腰の捻転運動まで加え始めた。
……化け物だ。
ジルは懸垂が持ち上がったことなど人生で一回もない。ジルは寝起きのままサンダルをつっかけて、寝室を飛び出し庭園へと足を向けた。
ヘンリック氏が趣味で育てているらしき花とハーブの鉢植えがいくつか置いてあるのを避けて、樫の木へと近寄る。
「九十八……九十九……百、と」
すとん、とイザークはどこか猫科の猛獣を思わせるしなやかな着地を決めてみせた。
「おはよう、ジルくん。早いねえ」
イザークは、やはり涼しい顔から、ばちりとウィンクをしてのける。無駄に顔がいいのでまったく嫌味になっていない。……かなりむかつく。
「おはようございます。イザークさんこそ、お早いようで」
その代わりのように、ジルが多少なりとも嫌味を含ませて返すと。
「いや、朝の鍛錬だよ。日課でね。心身の調律ってやつ?」
との返事が。
「へ、へえ……」
イザークは低い枝にかけてあったタオルを取って、首筋の汗を拭い始めた。汗の雫が厚い胸板から割れた腹筋へと滑り落ちていく様子が見えたが、ジルはすぐに顔ごと目を逸らした。
「んん? 俺の身体を見てどうしたの?」
「見ていませんが」
「ふうん」
にやあ、とイザークが得意げに唇の片端を吊り上げた気がしたので、ジルはその顔をはっきりと睨みつけた。フロイライン・クラウディアが直視でもしたら、卒倒してしまう身体つきではあるだろう。
「早く服着てください」
「ん、そうだね」
「まあ、マフィアの鉄砲玉なんですものね。説得力のある身体だと思いますよ」
「もう少し、素敵な褒め方とかないの?」
「はいはい、すごいですねー」
「やったー」
こちらまで緊張が抜けるほど、相手の気の抜けた返事だ。
……そもそもおかしい。
出会って二日程度しか経っていないマフィアの朝食を用意するジル。ほとんど見ず知らずのジルが作った料理を嬉々として食べるマフィア。
キッチンに入る。流し台で手を洗い、まずは卵を手にする。卵はヘンリック氏が鶏舎で採ってきたもの。「鶏の管理が大変でしてねえ」と、苦労をこぼしていた。
今まで毎日自炊してきたから、卵割りは慣れたもの。熱して油をひいたフライパンにそのまま卵を片手で割り落として目玉焼きを作る。自分のは一つ。イザークのは二つ。これまでの一人暮らしだと卵の値段が高くて買うのを躊躇う日もあったというのに、今日は新鮮卵が労せずして手に入ってしまった。なんとも贅沢な話である。
「イザークさん、焼き加減は」
「んー、半熟」
「了解しました」
しかもヘンリック氏が昨日のうちに食材を買い足してくれていた。だから、ソーセージもイザークのは三本焼く。あの逞しい身体を見れば、これでも足りないくらいかもしれない。大きな陶皿を二枚用意して、半熟目玉焼き、ソーセージ、チーズ、白パン、それからカットしたオレンジとバナナも盛りつけて。ヘンリック氏はもう朝食を済ませてしまったというから驚きだ。働き者と表現するのも控えめなくらいだろう。
「はい、お待たせしました」
「お、ありがとー!」
イザークは本当によく食べる。それも美味そうに食べる。ジルに対する浮薄な態度はさておき、食材には少しの失礼もない。だから、腹が立つより、感動してしまうのだ。
食後の彼は皿洗いを買って出たので任せることにした。丁寧ではないどころかガサツと評して差し支えないのだが、力が有り余るばかり汚れをしっかりと落とせているので、まあ、いいだろう。
ジルはヘンリック氏が淹れてくれた、銘柄はよく分からないけれど香り高い紅茶のカップを手に、応接間のソファに腰を下ろした。きっとこの茶葉も相当の値段がするのだろう。二番煎じした紅茶色の湯を啜ることに慣れすぎていた自分からすれば、別世界の体験だ。
昨日、イザークから許可を取って彼の書斎を見学した。借りてきた本を開く。書斎には恐ろしいほどの蔵書があって、あれはそう……、何代も何代もかけて、古書から新書まで古今東西を蒐集してきたものだ。あの量は、到底一人で集めきれるものではなかった。
イザークは「この屋敷は前の住人から買い受けた」と言っていたが、ジルが「前の住人は」と問うと、「没落した公爵さ」と答えた。どこか妙な話である。
ジルは貴族についてまったく詳しくない。だが、誇り高い貴族が簡単にマフィアに屋敷を売り渡すものだろうか、と疑うくらいには常識は持っているつもりだ。貴族が犯罪組織に拠点を提供するなんて、王国への背信行為に他ならないのだから……。
活字を目で追いながら、しかし頭の中ではまるで別のことを考えてしまう。彼は、本当にマフィアなのだろうか。
「莫迦莫迦しい……」
ジルは一言呟いて、また本の文字列に視線を落とした。
「──ジルくん、俺も職場についていくからね。うざいくらいそばを離れないよ?」
皿洗いを終えたイザークはそうジルに声をかけてきた。ジルは機嫌が悪いときのウサギのルナみたいに目を細めてしまった。
「冗談は通じてこそ面白いんですよ、イザークさん」
「違う違う、冗談じゃないよ、これは」
ジルは睨めつけるようにもう一度じろりとイザークを見た。上等なシルクの紺ドレスシャツに、上等なシルクの白ベスト。チャコールのスラックス。カカオブラウンの革ブーツは膝丈まであり、ちょっとヒールもあった。お洒落と評するのは業腹だが、それでも事実ではあった。
まず、服装が問題だ。
「質素な服に着替えてください。それ、目立ちます」
「もちろんもちろん」
イザークがうなずいても、ジルは溜め息をついた。服装が解決されようとも、問題はもう一つあるのだ。
「あと、デカいんですよ、あなた」
一九〇はある筋肉の塊みたいな巨体がこぢんまりしたレストランに入店する。目立ちすぎる。ジルは一体この男とどんな関係なのかと必ず問われる。それを考えると軽く眩暈がする。
「あの、ジルくん」
「なんですか」
「俺が付き添うこと自体には異存ないんだね」
「あなた、どうせ僕が断固拒否したところで何事もなかったかのごとくふらりと来店してくるのでしょう? だったら、ちゃんと許可して、売り上げに貢献してもらった方がまだマシというものです」
「うん、きみは賢い」
イザークがまた軽薄な笑みを浮かべた。
「はあ……、面倒ごとだけは起こさないでくださいよ」
「うん、約束するっ」
やはり彼はマフィアなのだろう。それも、「すこぶる暇を持て余した」と呆れるほど迷惑な修飾がおまけでついてくる。鬱陶しいことこの上ないが、機嫌を損ねたところでメリットはない。そのうちにジルの職場へ「ここはうちの縄張りだ」とか、「みかじめ料を払え」とか言い始めたらどうする。
「ちなみに、おすすめメニューは?」
イザークの腹立つほど軽やかな声に、ジルは思考を中断させた。
「今日のランチでしたら、アイスバインが」
と、答える。
「アイスバイン! ……いいねえ」
イザークがほっそりした顎に指を当てて、にやりと笑んだ。
「さては、昼から飲もうとしていますね」
「うん、正解☆」
ジルは、またしても盛大に溜め息をつかされた。




