第4話 ごろごろビーフシチュー
完成したビーフシチューが陶器の深皿に盛りつけられる。液面はつややかなマロン・ブラウン。牛モモ肉もニンジンもジャガイモも白マッシュルームも、たっぷりごろごろとシチューの海に優雅に浮かんでいた。
「おや、出来上がったようですね」
匂いを嗅ぎつけてきたのか、作業を終えた家令ヘンリックがキッチンに戻ってくる。
「はい、ヘンリックさん」
ジルがその声に振り向いて、柔らかく微笑んだ。
「これは、いい匂いですなあ。いやはや……料理に不慣れなイザーク様がお手伝いになるというから、内心では少なからずひやひやしておりましたよ」
ヘンリックの忌憚ない言い様に、イザークは片眉を跳ね上げた。
「俺の心配はするのに、初対面のジルの心配はしないのだな」
低声で耳打ちするようにイザークがつい物申すと、ヘンリックは、おや、と小さく呟いてから、平然とこう続ける。
「イザーク様はご存じでない?」
「なにをだ」
「イザーク様は、剣にも学にも秀でていらっしゃる。ですが……」
そこで言葉を濁すヘンリックに、イザークはますます眉を険しくした。
「なんだ」
「得意なことと、不得意なことを、しっかりと区別して認識するのもまた、才能にございます」
遠回しに、イザークの料理は不味いと言われているのも同然なのだが、イザークは苦笑した。小声の密談が終わると、ヘンリックはキッチンから立ち去ろうとした。
「あれ、ヘンリックさんはお食べにならないのですか」
その背中をジルが呼び止める。
「私はただの屋敷管理人でございますれば、のちほどいただきたく存じます」
曖昧に笑んでやんわりと断るヘンリックだが、ジルはなおも食い下がった。
「でも、せっかくのシチューが冷めてしまいますよ」
ヘンリックがイザークに助け船を求めるよう視線だけを投げかけてきたので、イザークはにやりと笑んだ。
「ヘンリック、こう考えてみるといいよ」
「なんです?」
と、ヘンリックが怪訝な顔になる。
「仮にこれが王命であった場合、断れるかい」
「いえ」
「では、どうする」
「いただきます」
「……よろしい」
ジルが、「なんだか大袈裟な話ですね」と言うので、イザークは「次はカレーかな、ターメリックだけに」と独りごちる。
「どういうことです?」
「いや、袈裟は鬱金で染めていた、という話があるだけだよ……」
「ふうん、勉強になりました」
話の収拾がつかなくなりそうだったので、イザークは、手を軽く打った。
「さ、昼食にしようか」
三人揃って食卓についた。屋敷が広ければ、当然ながら食堂も広い。銀燭台がいくつもいくつも並べられ、天井にはクリスタルガラスのシャンデリア。大理石を切り出した食卓はつるつるに磨かれ、椅子には一脚一脚にビロードが張られている。ワイングラスも置かれて、食事の準備は万端になった。
イザークは微笑んだ。王子は食堂の規模にすら目を丸くしている。ちょうど、マッシュルームみたいな丸さになっている。
「ジルくん、シチューが冷めてしまうと言ったのは、きみじゃないか」
ぼうっとしているジルに柔らかく声をかけると、はっとしたようにジルはスプーンをシチューに浸して、一口運んだ。イザークはそれを見届けてから、心の中で「いただきます、殿下」と感謝を述べて、シチューを一口。
「……うまい」
一瞬、チャラ男から堅物近衛騎士団長閣下に戻りかけたくらいには……美味い。美味すぎた。
牛肉は舌の上でほろりとほどけるまでじっくりと煮込まれている。ニンジンもジャガイモも煮崩れる寸前の絶妙な火加減が入っており、蕩けるようなのに形を感じられる。白マッシュルームの歯ごたえもいい。宮廷料理やらなんやらに慣れきったイザークの味覚を、庶民的な味が暴力的なまでに殴ってくる。深いコク。香ばしい匂い。野菜の甘み。肉の旨味。それらが渾然一体となって、イザークの味覚を書き換えていくようだ。
「皆さんのお口に合ったようで」
ジルが照れくさそうに笑み、イザークも口の端を持ち上げた。
「うまいよ、いや、本当に」
「……そうですか」
こうして、イザークはシチューを三杯もおかわりした。騎士としての身体を維持するため、それはもう食べる。よく食べる。なにせ筋肉量が多く代謝がいいので、腹がすこぶる減るのだ。
「引くくらい食べますねえ」
と、ジルは感心しているのか、呆れているのか。
食べ終えたヘンリックが、ジルのグラスに、料理に使ったワインの残りを注いだ。
「これはありがとうございます、ヘンリックさん」
「いえいえ、美味なものを食べさせてくださったのですから」
昼からワインというのも乙なものだ。イザークもワインに口をつけて、アペタイザーのチーズと生ハムをつまんでいた。
──さて、交渉のお時間だ。
「なあ、きみの食費、俺が全部持つよ」
「えっ、どういうことですか」
ジルがグラスを傾けていた手を止めて、まじまじとこちらを見た。
「どうもなにも、食費は俺が全額支払うと言っているのさ」
「なぜ、初対面でそこまで?」
「ほら俺、意外と警備で給料もらってるし?」
ジルが眉をひそめた。それはもう怪しまれているだろうが、ここは押し切るしかない。食費は王家が出すのだから、イザークの懐は少しも痛まない。
「俺はきみの三倍は食べる。見ただろう?」
「ええ、まあ」
「仮に折半にしたなら、きみは損することになる。分かるだろう?」
「まあ……」
「すなわち、調理担当はきみ。買い出し担当は俺。これでどうだろうか」
ジルはしばらく細い腕を組んで考え込むそぶりになっていたが、やがて腕をほどき、難しい顔でうなずいた。
「分かりました。それでお願いします」
──ジルヴェスター殿下お肉摂取計画成功。
♢
晩餐はシチューの残り。ジルが屋敷の湯殿に行った頃、イザークはアペタイザーもなく、ワイングラスだけを傾けていた。料理に使ったワインはとうになくなっているので、これはセラーから取り出した公爵家秘蔵のやつだ。
応接間の革張りソファに腰かけて一人晩酌しているイザークの横を、風呂上がりのジルが通りがかった。
「イザークさんって、マフィアなんですか」
その想定外の発言に、イザークはワインを吹き出しかけた。
「え……、え?」
イレギュラーを確認。思考停止。再起動。思考プロセスを変更。発言を確定。
「そうだよっ☆」
──どこがだよ。
「ジルくん、それ、人前で言っちゃダメだからね?」
ウィンクして念を押す。
「はい、承知しています」
ジルは真面目そうにうなずいた。
「なら、大丈夫」
──だから、どこが大丈夫だよ。
「イザークさん、マフィアなら、最初からそう言っていただかないと」
──いやいやいやいや。
「あと、グラスは持っていきますからね。これから同居する以上、同居人の飲みすぎは看過できません」
ジルがイザークのグラスをさりげなく奪って去っていく。
嵐が過ぎ去っていったようであった。
これは、酔いが見せるタチの悪い夢なのだろうか。
──護衛対象の王子に、マフィアだと誤解されている。
まあ、正体を看破されて護衛任務が失敗するよりはマシだろう。ならば、見当違いに怪しまれていた方がいい。
確かに、大きな屋敷を持ち、警備職で、金払いがよくて、なにより怪しい。
「せいぜい、金払いのいいマフィアとして、おもてなしいたそうではないか……」
ソファの背もたれに身を預け、天井のシャンデリアをぼんやり見つめながら、イザークは酒精に浮かされたように譫言めいて呟いた。




