第3話 マフィアの目にも涙
今日から本格的に護衛任務開始である。ジル・ヴェスト、もとい、ジルヴェスター・アインヴァルト第一王子殿下の護衛だ。国王アルトゥール三世の大切なご庶子。侍女の子で、王妃派に命を今もなお狙われている哀れな王子。
それはさておき。
自分は決してチャラ男ではない。チャラ、という浮薄軽薄なる概念はつい先日覚えたばかりなのだ。王からの命令でチャラチャラせざるを得ぬのであって、これは決してイザークの本心ではないのだ。そして、今は腹が減っていてそれどころではない。
──そう、腹が減っている!
色々と事情が込んでいて、家令のヘンリックが一人いるだけ。任務に関して、王子の食費は王家が全額負担することになっているので、金銭面に関しては問題がない。王子は食費を負担されることに納得をしないかもしれないが、それでも納得してもらうよう交渉する他あるまい。そして、イザークの脳裏には、王子の体躯についての事前情報がふいに浮かび上がった。
王子はひどく痩身なのだという。当然ながら、摂取カロリーより消費カロリーの方が多ければ、痩せ細っていく。
イザークの胸の内がつきりと痛む。
──王子が、この国の第一王子ともあろう御方が、飢えている。
「肉だ。肉しかないっ。殿下に良質なタンパクを摂らせるのだっ」
さて、屋敷に精肉庫はあっても、それを管理する使用人はいない。つまり、肉は買ってこないと、ない。イザークは精肉店へと赴くため、屋敷三階にある自室の扉を勢いよく開け、一階へと繋がる階段を革ブーツの踵をつかつかと鳴らし、軽快に下りていく。
決して、自分の腹が減っているからではない、と内心で言い訳しておく。そう、これからは都合がいいことに、そのような言い訳が平気でまかり通るのだ。いや、まかり通して見せる。王子のために、という大義名分だ。王子を迎えるにあたって、公爵自らが精肉店へ肉を買いに行く。はたから見れば、ひどく奇妙な光景となっていた。
ヘンリックが買い出しを代わりに申し出たが、イザークは「これは当主がやらねばならぬことなのだ」と固辞していた。そして、買い出しから戻ったイザークの両腕には三つ紙袋がぶら下がっている。
一つ目には、牛モモ肉がどっさり。精肉店の店主のおやじが「兄ちゃん、でかいパーティーでもやるんか?」と、わざわざ問うてきたくらいだ。それもそうだが、むろん、街に出るときには変装をしているので、まさか貴族とは思われていないはず。そうだといい。そうであってほしい。
二つ目には、野菜がゴロゴロ。ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、白マッシュルーム。
三つ目には、安くても味のいい銘柄のワインボトルと、アペタイザー用のチーズに生ハム。それに、デミグラスソースの缶詰と有塩バターとローリエ一束も。
それは、ビーフシチューの具材だった。どこからどう見ても。
そこに、ドアノッカーが叩かれた。
やってきたのは、腹ペコの王子。
やはり、痩せている。
したがって、まずは昼食だ。
「買ってきた引っ越し祝いだよ、祝っちゃおうぜ☆」
なーにが「祝っちゃおうぜ☆」だ。もう少し気の利いた言い方はできないのか、この愚図め、と心の中の近衛騎士団長閣下がいたくお怒りなのである。もちろん、これから長期的友好関係を築かねばならぬ精肉店のおやじにも同じくチャラチャラした態度で臨んだのだが、それ以外の平時では流石に疲れてしまうので、モードオフにしていた次第。
「イザークさん、ビーフシチュー、ですか」
「そう、ビーフシチューだよっ」
ジルの、そのまんまみたいな質問にそのまんま答える。テンションは高めに、内心のテンションは、低めに。先ほどの醜態に関しては完全無視してくれたので非常に助かった。
なんであれ、ブラウベーレ公爵邸のキッチンは浩々としていた。
パン窯、洗い場はもちろん、精肉庫、陶磁器庫、ナイフ保管庫にワインセラーにビアセラーもある。かつてここで働いていた使用人用の食堂が、主人用食堂とは当然ながら、別にある。およそキッチンに必要なものは、ここになんでも揃っていた。
「あのう、これ全部、キッチンですか」
「そうだよ」
「これ、一人用としては大きすぎやしませんか。職場のレストランのキッチンよりも大きいですが」
ジルがこれでもかと目を丸くしている。
「使用人は前所有者が解雇してしまいましたからね」
と、付け加えた人物は、むろん家令のヘンリックだ。
「ジル様、管理人のヘンリックと申します。よろしくお願いいたしますね」
キッチンの入り口でヘンリックが恭しく一礼してみせた。ロングテール・ジャケットに身を包み、定規を当てたように背筋のいい初老の男である。イザークの作法指導役でもあった。やんちゃ坊主だったイザークが散々手を焼かせた人物である。本来であれば家令という使用人の中で最も偉い立場なのだが、イザークの身分偽装のため、屋敷管理人として振舞ってもらうことにしてある。
「ヘンリックさん、こちらこそよろしくお願いいたします……!」
ジルと互いの紹介も終わったところで。
「それにしても。ほんとに多いですね、具材」
ジルが感心したように言うので、イザークはくびれた腰に手を当てて答えた。
「肉、野菜、酒。それと、つ・ま・み☆」
「はあ、まあ、見れば分かりますが……」
ジルの表情は凍ったままだった。イザークが滑ったことを雄弁に語っている表情だった。イザークは内心で言い訳をする──まだ慣れていなくて、チャラの加減が分からんのだ、加減が。
「…………」
やがて、冷えたジルの視線は巨大な肉塊に注がれる。さらに、野菜のラインナップとワインとソース缶とを確かめるように流し見て、ジルはガラス細工のように華奢な顎を軽くさすった。
「お作りになるんですか」
「上手くはないよ。美味くもないよ」
じろりとしたジルの視線が、寒い返事を寄越したイザークの頬を撫でる。イザークの背筋にも氷塊が舐めたような寒いものが走る。イザークは野外訓練でシチューを煮たことがある。得意ではなかったが、作れないと言ってしまえば、それも嘘になる。
「じゃあ、僕がお作りしましょうか。せっかくですし」
「え、作れるの?」
イザークはぱちりと目をまたたいた。王子が、なんと自炊ができる。まあ、本当のことを言えば、レストランの給仕であるとは事前に知っていた。だが、料理人ではないし、きっと、一人暮らしで自然と身についた技術なのだろう。
「野菜洗うの、手伝っていただけますか」
「よ、よし」
ジルが持ち込んだトランクから、生成りの帆布エプロンを引っ張り出して、手際よく身に着けた。ヘンリックは「ジル様の寝室の準備を」とキッチンから退出していった。気を利かせて二人きりにしてくれたのだろう。イザークは短く息をついて、紙袋から野菜を取り出し始めた。
「──つっ」
ナイフでジャガイモの皮を剝いていたら、指の皮膚を掠めた。血が出る。ジャガイモに敗北する近衛騎士団長。無様。
「絆創膏、ありますよ」
慣れた手つきで颯爽と野菜の皮を剥いていたジルが荷物から絆創膏を取り出した。その繊細な指がイザークの武骨な指に絡む。絆創膏をぺたりと貼られる。骨と皮のようなジルの指を見て、イザークの胸がまた痛んだ。
ジルがフライパンにバターをひいて、一口大にして塩胡椒を振った牛肉にこんがりと焼き目をつけていく。途端、じゅう、と小気味よい音が立った。
そこに、繊維に沿って切ったタマネギを投入する。しんなりするまで炒めると、いよいよ食欲をそそる香ばしい匂いが立ち昇る。
「これ、かき混ぜておいてください。僕はワインを開封してきます」
「お、了解了解」
名誉負傷したイザークだって、木べらをかき混ぜるくらいはできる。タマネギが焦げつかないよう木べらを忙しなく動かしていると、腹の虫が、ぐうと情けなく吠えた。背後でワインのコルクを抜いていたジルは、やはり無言のままに完全無視してくれた。またもや助かる。
鍋に移し、鮮紅色のワインが注がれると、酒精の甘い蒸気がふわりと香る。イザークが感動にひとしきり目を細めていると、ジルにこう告げられた。
「イザークさん、炒めてくれて助かりました」
──王子から、感謝の言葉を賜った。
「あとは、煮ます」
「……煮る」
イザークが鸚鵡返しに言うと、ジルはうなずいた。
「煮立たせて、デミグラスソースとローリエを加えて、また煮立たせて。一時間煮て、野菜を加えて、また煮ます」
「なるほど」
香りづけのローリエを取り除き、ビーフシチューが出来上がる頃には、キッチンの壁掛け時計の針が午後三時を回っていた。
「遅い昼食になってはしまいましたが。……あれ、イザークさん、泣いてます?」
「いいや、泣いてないよ」
──嘘だ、泣いている。
「変な方ですね。今頃タマネギにやられましたか?」
「そうかもぉ」




