第2話 むかつくマフィア
ウサギが鳴いた気がした。ウサギはほとんど鳴かないはずだが、ふすり、と鼻を鳴らした気がするのだ。
この賃貸アパート〈レーヴェン荘〉の大家さん、フロイライン・クラウディアの飼っているウサギである。お嬢さんといっても、彼女がそう呼ぶよう周りに強く言って聞かせているだけで、実際は六十五歳のおばあさんだ。まあ、女性はいつまでも若く見られたいものだから。
そのフロイラインからの頼みだった。ちなみに、彼女の膝の上で香箱座りして、窓のレースカーテン越しの陽光に日向ぼっこしている真っ白なそのウサギは、月という名前だ。食用に売られていたところを哀れんだフロイラインが引き取ったそうで。
「さて、ジル。建物の老朽化よ」
ジルは建物の老朽化ではない、という阿呆らしいツッコミは置いておいて、〈レーヴェン荘〉から立ち退きしろ、という意味であるのなら、とんでもなく困る。
とにもかくにも、そうやってフロイラインが話を切り出したのは、ジルが彼女のために珈琲を淹れて、自分のためには紅茶を淹れてからだった。フロイラインが節くれだった指で、のんびりとルナのつややかな毛並みを撫ぜながら口を開く。
「ここ、もう築百年でしょう? というわけで、リフォームするの。しばらくは知り合いの家に住んでもらいます。……イザーク・ラウ。警備会社の人なのだそうよ」
「えっ、えっ?」
ジルが話の要点を理解したくても理解を拒んでいると。
「女の子を期待したの? 残念でしたね」
と、フロイラインはすげなく冗談を言った。
「い、いや……、そういうことではなく……」
フロイラインはルナからいったん手を離し、珈琲を一啜りして、短く溜め息をついた。気まずいジルも、フロイラインが蒐集しているアンティークのティーカップに口をつけた。紅茶が飲み込めたところで、事態は呑み込めていない。
……それもそうだが。
ジルだって、もう歳は二十。結婚したい。レストラン給仕で細々と生活費を稼ぐ貧乏暮らしの青年には、難しいことだとは分かっている。フロイラインには六歳の頃から世話になっているとはいえ、自分はもう立派な成人だ。赤の他人であるフライラインからまさかお金を借りるわけにはいかないし。
貯金は少なく、将来の展望もない。お先の真っ暗具合に眩暈がしそうになる。だからまあ、居候自体には異存がないどころか、むしろ助かるくらいだ。
「知らない人の家に行け、という解釈で合っていますか?」
「ええ、そうよ。その期間は家賃が浮くから」
「は、はあ……」
──あ、怪しい。
信頼できるフロイラインの紹介だとしても、怪しい。この〈レーヴェン荘〉の家賃は安い方だけれど、もちろん浮くならそれに越したことはない。浮いた分を貯金に回せばいつか結婚が──いつかとは、いつだろう。ジルはティーカップを傾けながら、仄暗く考えていた。
「で、その人はどんな方なんですか」
「警備員よ」
「それ以外は」
「さあ」
「さあ、って!」
あまりにも情報が少なすぎる。ますます怪しい。
「あなた、別に片付けるものもそうないでしょ。じゃあ問題ないわよね」
すごまれるようにフロイラインに鋭い視線を向けられると、ジルは恐縮するばかりだった。どう考えても、断れば住む家を失うだけだということが分かりきっている。
「……はあ、まあ」
体よくはぐらかされた気しかしないものの、ジルは渋々うなずいた。あまりにとんとん拍子に話が進んでいくので、内心で焦りばかりが募るが、それでもうなずく他なかった。本当に片付けるものもないことだし。
──居候、ね。
死刑囚の部屋かと自虐したくなるほどには、本当に部屋に物がなかった。唯一、本が好きで集めたかったが、本は高価だし、近くに本を無料で貸し出してくれる図書館があったことだし。だから、小さな書棚と、マットレスの硬い寝台と、安物のキャビネットだけ。
「ところで……警備会社の人なら、体格が凄そうですね」
それくらいしか、居候先のイザーク・ラウとかいう人物の想像がつかなかった。
「凄いイケメンマッチョなのよ。あれはもう、私の中の女が騒いじゃったわ。あと四十年も若ければ……ね」
と、フロイラインは頬に片手を当てて宙の一点をうっとり見つめている。もう片手はルナの耳の付け根をくすぐっていた。ルナがとろんと目を細めている。
「ま、変な人じゃないといいんですけど」
ジルがさして当たり障りのない感想を述べると、フロイラインは当たり前だと言うようにうなずいた。
「そうよ。私の知り合いですもの。……私ね、人を見る目はあるの」
「本当ですかねえ」
「私の見る目を疑うのっ」
「すみません、そうは言ってません」
「イケメン! マッチョ!」
フロイラインが見た目に騙されていないといいけれど──彼女に言いくるめられるがまま、荷物をすごすごとまとめ、そして、渡されたメモの住所を頼りにとぼとぼと歩く。
季節は春だ。やや肌寒く、街路樹の緑はまだ淡い。
市街区画の喧噪が遠ざかってきた頃、いつの間にか、並木は途切れていた。石畳の道は、緩やかな坂へと変わっている。
なだらかな丘陵が視界に入り、その頂には、遠くからでも分かるほど、大きな大きなお屋敷。
「……え?」
ぱちぱち、と目をしばたたかせて、メモの住所をもう一度確かめてみる。フロイラインの走り書きは、一切も文字列を変わり映えさせない。
「このお屋敷で合ってる」
川を渡す橋が見えてきた。煉瓦造りの橋は年季が入っていて、耳を澄ませば、さらさらと清らかな音を立てて水が流れている。橋を越え、ひたすら丘の頂まで歩く。引き返そうかという思いが頭をよぎったけれど、帰る場所すらもうないのだ。
蔦模様の意匠が凝らされた見事な錬鉄の門をくぐれば、静謐に佇む屋敷の全容が見えてくる。
三階建て。王都の汽車駅みたいな灰青のスレート葺きの屋根。壁には白亜の化粧石が施され、ところどころに深緑のアイビーが絡んでいる。高級感丸出しのそれに、ジルは息を呑んだ。
「いやもう、城でしょ……」
面積がとんでもないのだ。庭を除いた建物だけでも、あのアパートが丸ごと三つは入りそうな大きさなのだ。
──これが、警備員の家?
周囲を見渡せど、むろん民家の姿はない。というより、この丘にはこのお屋敷しかないのだ。このお屋敷のためだけに、丘の上を石畳が続いていたのだ。元来た道……坂の下を振り返ってみれば、市街区画の赤屋根がミニチュアめいて点描画を成している。ご近所付き合いとか、なさそうだ。もはや、近所がない。
これはもう……裏社会の人間がどういうわけかフロイラインと知り合いで居候を許可した、という筋書きくらいしかありえないのだ。
フロイライン曰く、警備会社勤務。イケメンマッチョ。そして、一般の警備員がこんなバカでかいお屋敷を所有できるわけはなく。これはどう考えても、カタギの人間ではないのだ。
貴族という可能性は考えなかった。お貴族様が平民の給仕男にことさら居候を許すなんて、ありえないからだ。一体どんなノブレス・オブリージュだ。
ジルは震える手で、樫一枚板の立派な扉に取り付けられている真鍮のドアノッカーを三度鳴らした。
ややあって、両開きの扉が内側から開けられた。
「やあ☆ よく来たね☆」
扉を自分で閉めようかとも一瞬は考えた。
持ってきた荷物は革のトランク一つだけ。これは母の形見だ。図書館の本は返却してきたから、トランクの中には着替えと少しの生活雑貨しか詰まっていない。
「お、お邪魔します」
レストランの給仕人生で学んだ必殺のお辞儀を一つ決める。礼儀だけは示しておかねばならない。たとえ相手がマフィア構成員だろうと。いや、相手がマフィアだからこそ礼儀正しくあらねばならないのだ。無礼な人間だと認識されたら殺されるかもしれない。
「うん、よろしくね」
マフィアがそう言って、手を差し伸べてくる。明らかに握手を求められている。その手をおずおずと握り返した。第一に感じたのは、硬い手だということ。剣だこだろうか、手は分厚くごつごつとしている。乾いていてあたたかい感触。自分の骨と皮みたいな貧相な手とは、比べ物にならないほど立派な手だった。
「イザーク・ラウ。俺のことはイザークって呼んでくれ」
「ジル・ヴェストです。よろしくお願いいたします、イザークさん」
「うんうん、いい子だねえ」
初対面だというのに家族か何かのように褒めてくる声は、柔らかくて唸るように低い。きっと女性が耳元で囁かれたらイチコロなのでは、と思うほどには、甘い声をしている。砂糖をたっぷり入れた上等な珈琲みたいな。流石マフィアの構成員、ハニートラップなんかもお手の物なのではないだろうか。
「ありがとうございます……」
怖々と返事しながら握手をほどく。イザーク青年の顔をそのときになってまじまじと見つめる。
銀糸の髪に、南の海みたいな碧の瞳。長い睫毛が頬に影を落とす。清々しいほど整った目鼻立ち。鼻梁なんて、美の神が手ずから彫り込んだような。お人形さんみたいだ。
「どうしたの、ジルくん、そんなに見つめて」
「い、いえ」
彼は、ふ、とその碧い目を和らげた。周囲の空間に薔薇が咲いたような笑みだ。今ので市街区画の女の子が十人は一度に気絶できるだろう。
「……あ」
ぐう……、と突然ジルの腹が反乱の狼煙をあげる。不覚だ。マフィアの家で腹が空くなんて。自分の胃袋は相当図太いらしい。
「ジルくん、お昼、食べた?」
「いえ、食べてないです」
「そうか、じゃ、お昼にしよっか」
イザーク青年は、一九〇は優にありそうな長身を華麗にひるがえし、ついておいで、と肩越しに告げる。シルクのドレスシャツの上には、同じくシルクのベストをまとう。逆三角形のしなやかなシルエットの半身。ベストは腰の尾錠できゅうっと絞られ、鍛えられた身体を存分に誇示するようだ。天使みたいな顔に悪魔みたいな身体と言うべきか。
どうやら近頃のマフィアは魅力的な容姿も兼ね備えているらしい。




