美食15:【さらば!悪の世紀!そして始まる新時代!】
イメージソング:パリは燃えているか
https://youtu.be/6QdCsxw16Tg?si=WwPbQKY313RQwWwl
西都は、焼けていた。
帝都を揺るがした、あの、喰人狂騒。
続いて勃発した、凄惨な内戦。
街は、崩れた瓦礫と黒ずんだ煤、そして、乾いた血の跡で埋め尽くされていた。
空は、鉛色。
風が吹くたびに、硝煙と、錆びた鉄の匂いが、鼻を突いた。
人々は逃げ惑い、奪い合い、そして、死んでいった。
だが。その地獄の渦中にあって、マオ・チェンリーだけは西都の片隅に、ただ、ひたすらに、とどまり続けていた。
崩落した中華料理店「大西館」。
その、焼け残った厨房。
かつて、蒸籠から白い湯気が立ち上り、角煮の甘い香りが満ちていたその場所で、マオは、一人、瓦礫の中に腰を下ろしていた。
【彼女は元々、何に対しても無関心な少女だった。】
【世界がどうなろうと、誰が死のうと。自分以外のことには、何の興味もなかった。マオにとって、他者は単なる背景であり、風景の一部に過ぎなかった。他者を知りたいとも思わず、理解しようとも思わない。それが、それこそが、マオという人間に「学」がなかった理由だった。】
学とは、単なる、知識の暗記のことではない。
「【愛とは、相手を知ろうとすることである】」
絶望的な焦土の中で、一人残されたマオは、自らの空虚な胸に手を当てて、その真理に辿りついた。
【他者を知ろうとすること。その、背景にある痛みや、歴史、言葉の裏に隠された孤独。耳を澄ませること。それこそが、「愛」なのだ。】
そして。
【何かを知ろうとして深淵へ足を踏み出す行為、それこそが「学」の本質であった。】
【自分には、愛がなかった。】
フウカやジンが自分に向けてくれていた温かな感情を、ただ、与えられるがままに受け取り、自分からは、誰の心も知ろうとしなかった。
だから、自分には知性がなく、無力で、ただ、大切な者たちが踏みにじられていくのを、指をくわえて見ていることしかできなかったのだ。
マオは悟った。
戦火が吹き荒れる崩壊した街で、彼女は、落ちていた本を、拾い、開き、血と埃に塗れた文字を、貪るように読み始めた。
街でうずくまる孤児の瞳の奥を覗き込み、倒れた兵士の引きつった指先が語る無言の叫びを理解しようとした。
【人間とは、何か。】
【悲しみは、どこから来るのか。】
【知りたい。】
【理解したい。】
【愛したい。】
言葉を学び、歴史を学び、世界の理を、学んだ。
暗く冷たい廃墟の中で、ただ、ひたすらに、学を求めていった。
すると、奇跡が起きた。
マオの手のひらから、淡く、柔らかな、黄金色の光が溢れ出したのだ。
それは、傷ついた者の痛みを和らげ、荒れ果てた土壌に小さな芽を芽吹かせる、本物の魔法だった。
魔力障害を起こすような、魔導規制局の汚れた人工魔法ではない。魂の奥底から紡ぎ出される、奇跡そのものの力。
【愛とは、学であった。】
そして。
【学とは、魔法だったのだ。】
世界には、魔法を使えても学のない者がいる。
力だけを持ち、暴力を振るう愚か者たちだ。
世界には、学があっても愛のない者がいる。
知識を他者を支配するための道具としか見ない、あの魔導規制局のエルフたちのように。
【だが、愛があれば、必ず学に辿り着く。】
そして、学を修めた者の手には、自然と魔法が宿るのだ。
マオは、その、柔らかな光で、飢えた子供たちに温かいスープを分け与え、瓦礫の下で喘ぐ人々の傷を癒やした。
彼女はもはや、ただの、無知で無力な少女ではなかった。
だが、どれほど魔法を深めようとも、マオの胸の奥にある穴が埋まることはなかった。
彼女が最も知りたかった者。
彼女が最も愛し、学びたかった少女。
フウカ・アギトは、もう、どこにもいなかった。
・・・・・・・・・・・
水棲生物系獣人に対する凄惨な迫害は、やがて、潮が引くように薄れていった。
理由は明白だった。
いくらヒレを食おうが肉を貪ろうが、人間の内に宿る暴力が、収まることなどなかったからだ。
エルフたちの流した「嘘」は、あまりにも多くの血を流させた末に、ただの妄執として、風化していった。
迫害の嵐が去ってから、一年が過ぎた。
西都の復興が進む中、ある日、街の入口に「それ」は現れた。
街中の人々が、固まり直した。
風が、止まった。
漂う硝煙の匂いすらもが凍りつくような、圧倒的な、殺気。
そして、悲哀。
フウカ・アギトが、帰ってきたのだ。
彼女の身体には、大きな怪我はなかった。
ドレスを纏い、髪を風に揺らして歩くその姿は、一見するとかつての美しいフウカのままであった。
しかし。
彼女が纏う空気は、決定的に、異なっていた。
それは、彼女自身がかつて世界へ向けて放った、絶望の呪い。
誰もが知る、あの、「サメ」の迫力、そのものだった。
フウカの瞳を見た者は、根源的な恐怖に射抜かれた。
それは、魚類でありながら、イルカや哺乳類のような高い知性を確かに覗かせている目だった。
しかし。
その知性は、もはや、他者との対話のためには使われない。
ただ、己を殺そうとする世界を、逆に、噛み殺し、破滅させるためだけの「野蛮」に捧げられた目。
戦いを悲しみながらも、あらゆる敵を噛み砕くために研ぎ澄まされた、冷たく澄んだ、鮫の瞳。
彼女の身体からは、「何人たりとも食い殺す」という絶対的な拒絶の意志が、重く、漂っていた。
フウカだけではない。
生き残ったサメ獣人たちは皆、同じ目をしていた。
【人間を信じ、世界に歩み寄ろうとした果てに、解体されて、喰われた記憶。】
彼らは知性を捨てたのではない。
知性を持ったまま、野蛮の途を選ぶことを決意したのだ。
街の誰もが、後ずさりした。
武装した警備兵すらも膝を震わせ、武器を捨てて逃げ出した。
誰も彼女に近づくことなどできなかった。
触れれば、死ぬ。
それが、直感で分かったからだ。
荒涼とした大通りを、フウカは歩いていた。
その歩みには迷いがなく、と、同時に、世界のすべてに対する深い絶望が宿っていた。
その時。
瓦礫の陰から、静かに踏み出してきた足音があった。
マオだった。
マオは、かつてのようなエプロン姿ではなかった。
質素だが清潔な服を纏い、その瞳には深い知性と、すべてを包み込むような優しさが宿っていた。
「……フウカ」
マオの声が、冷え切った空気を揺らした。
フウカの足が止まった。
その鮫の瞳が、マオに向けられる。
フウカの瞳の奥で、葛藤と狂気が、渦巻いた。
威圧感が、マオを押し潰そうと膨れ上がる。
「来るな」
「近づけば、お前すらも食い殺してしまう」
……という、言葉にならない、哀しみの殺気。
だが、マオは引き下がらなかった。
彼女は知っていた。
フウカのその殺気が、どれほどの、深い傷と涙から生まれているかを。
彼女が世界を拒絶しているのは、世界から、誰よりも深く傷つけられたからだ、ということを。
マオは静かに歩み寄り、フウカの身体に、躊躇なく両腕を回した。
強く、抱きしめた。
「……っ!?」
フウカの喉から、掠れた声が漏れた。
触れた瞬間に噛み殺されるはずの死の領域。
だが、マオの抱擁は温かく、柔らかかった。
マオの身体から滲み出る、学……という、愛が、フウカの凍てついた殺気を、優しく包み込んでいく。
「フウカ、おかえりアル」
マオはフウカの耳元でそう囁くと、抱擁を緩め、ポケットから小箱を取り出した。
中から現れたのは、安物だが、磨き抜かれた、一角のシルバーリング。
結婚指輪だった。
フウカの唇が震えた。
鮫の瞳に、ポロポロと大きな涙の粒が溢れ出した!
救いたかった!
守りたかった!
自分はマオを、アギト一家の屋根の下で、何一つ不自由なく養っていきたかったのだ!
マオに美味しいものを食べさせ、可愛い服を着せ、一生守り抜くことが、フウカの生きていくすべての夢だった!
なのに!
アギト一家は壊滅し、名前も、権利も、すべてを奪われ、自分は……世界を呪う怪物へと成り果てた!
いま、自分を守り、包み込んでいるのは、他ならぬマオの方だった!
許せなかった!
自分を、こんな姿に変えた人間たちが、身勝手な社会が、そして何より、マオを守るどころか、マオに守られている己の無力さが、どうしても、許せなかった!
「あ……ああああっ!!」
慟哭!
叫びながら、彼女は、マオの右肩に噛みついた!
鈍い音が響き、マオの肩から、鮮血が吹き出した!
サメの威力を宿した鋭い牙が、肉を裂き、骨に達する!
フウカはもう、加減など、できなかった!
世界への憎悪と、愛おしさへの狂気が交錯し、泣き叫びながらマオの肉を喰み、噛みちぎろうとした!
「フウカ……っ」
痛みにマオの顔が歪み、視界が白く弾けた!
だが、マオは腕を解かなかった!
逃げようともしなかった!
マオは血を流しながら、優しく……微笑んだ!
左手でフウカの震える手を取り、その薬指に、しっかりと結婚指輪をはめ込んだ!
「大丈夫アルよ……。フウカの全部を受け止めるって、ワタシは、学んだから……」
フウカは、ボロボロと、涙を流しながら!マオの肩を!泣きながら……齧り続けた!
口の中に広がる、愛する者の温かい血の味!
それはフウカの魂を極限まで引き裂いた!
フウカ・アギト!
名前など、そんなものは、もう、何の意味もなくなっていた!
アギト家の権利も、裏社会の威光も、すべては!……歴史の塵となって消え去った!
名前にこだわる意味など、最初からなかったのだ!
望んでいた形ではなかった!
望んでいた形ではなかった!
望んでいた形ではなかったさ!
こんな、血と傷に塗れた再会を、誰が望んだというのか!
ドレスを泥で汚し、愛する者の肉を喰らいながら指輪を嵌められる結末を、誰が夢見ただろうか!
嬉しいのか……悔しいのか……。
愛おしいのか……憎いのか……。
フウカはただ、マオの血を舐めとりながら、幼子のように声を上げて泣きじゃくった。
だが、二人は確かに結ばれた。
奇しくも、その日。
西都を、そして、帝都全域を焼き尽くしていた内戦が、唐突に、終結を迎えた。
権力者たちが恐怖したのだ。
西都の路上で、血を流しながら抱き合い、圧倒的な狂気と、無償の愛を同時に放つ二人の少女の姿に。
サメ獣人たちが彼女たちを取り囲み、静かにひざまずく、その異様な光景に、帝都の上層部は、完全に怯えきった。
帝都はその崩壊とともに名前を変え、「王都」となった。
人々の呼称や制度も刷新された。
チェンリー。
それは、旧時代の言葉で「真理」を意味していた。
マオ・チェンリーは、その日から「マオ・ヴェリタス」となった。
そして、彼女と血と涙の契りを交わし、その肉を喰らったフウカもまた、「フウカ・ヴェリタス」となった。
王都の執政者たちは、さらなる内戦と、サメ獣人たちによる反旗を、恐れていた。
彼らは震える手で、形式上に過ぎないとはいえ、最高度の権限をヴェリタス家に差し出した。
『魔導規制局に対する、絶対的な独立監査権限』
それが、フウカ・ヴェリタスに与えられた地位だった。
これが後に、100年の長きにわたって王都の闇を監視し、魔導の暴走を抑止し続けることとなる最高峰の学術団体、「ヴェリタス家」の起源である。
一度喰らいついたら、相手が死ぬまで絶対に顎を離さない。
ヴェリタス家に代々受け継がれる執念深さと、真理への冷徹な探求心。
その精神性は、すべて、あの日、マオの肩に噛みつき、離さなかったフウカの、サメとしての本能に由来していたのだ。
それから、数年が過ぎた。
王都の郊外に建てられた静かな館で、マオ・ヴェリタスはその短い生涯を閉じようとしていた。
フウカに噛まれた肩の傷は、最後まで痕となって残っていた。
だが。
マオは、その傷跡を愛おしそうに撫でるのが、癖だった。
マオの病床の周囲は、温かな愛と、数え切れないほどの本に囲まれていた。
彼女は最後まで、学び続けた。
世界を。
人間を。
そして、隣でずっと自分の手を握りしめている、フウカのことを。
「フウカ……」
痩せ細ったマオが、弱々しく声をかけた。
フウカは、マオの手を両手で包み込み、額を押し当てた。
その目からは、かつての冷酷な殺気は消え去り、ただマオのためだけの深い愛しさが満ちていた。
「ここにいますわ、マオ。ここに。……わたくしの命は、ずっと貴女のものですわ」
「ワタシの人生……何もない、何もできない、ただ、失うだけの人生だったかもしれないアル」
マオは静かに微笑んだ。
その手のひらから、かつてのように小さな、柔らかい黄金の光が漏れ出し、フウカの頬を優しく撫でた。
「でも……最後に、学びという『愛』を知ることができた。フウカを……世界を、愛することができた。……ワタシは、最高に幸福者アル」
「マオ……っ、マオ……!」
「ありがとう、フウカ。ワタシの、可愛い……フウカ……」
マオ・ヴェリタスは、フウカの腕の中で、眠りについた。
その顔には、一切の悔いも残されていなかった。
彼女は、真の幸福を手に入れた者だった。
無知から始まり、絶望を知り、愛を学び、そして、最愛の者の胸で旅立った。
マオの物語は、ここに完結したのだ。
フウカは、マオの額に深くキスをし、白く綺麗な布をその顔にかけた。
部屋を出たフウカは、館のテラスへと歩み出た。
外は、冷たい夜の雨が降っていた。
フウカはポケットから、しわくちゃになった煙草の箱を取り出した。
サイレントスモーク、10ミリ。
ライターの火花が散り、紙巻きの先端に、小さな灯りがともった。
フウカは深く煙を吸い込み、紫煙を夜の闇へと吐き出した。
マオを見送った。
終わりだ。
優しい時間は、これで終わりだ。
フウカの瞳から、光が消えた。
知性を、野蛮のためにのみ使うと決意した、あの凄惨な「サメ」の目が、再び……その瞳の奥で目覚めた。
「ええ。無駄にはいたしませんわ。マオ。貴女がくれた、この命」
フウカは、冷たい雨の中へと足を踏み出した。
離さない。
喰らいついたら、離さない。
この世界そのものを、骨の髄まで噛み砕いて、解体するまで。




