美食12:【三途の川の龍殺し!猫よ!熊よ!人を喰え!】
イメージソング:NEVER RUN AWAY
https://youtu.be/h1KkKHlpnPA?si=WKvtRCRecrffkDdM
底抜けに明るい笑顔。
未来への希望に満ちた決別。
それが、リン・チェンリーという不世出の天才魔法使いが、燃え尽きる直前に放った最後の、そして最大の「嘘」であった。
彼女は休むために田舎へ向かったのではない。
この救いようのない、不条理と欺瞞に満ちた世界そのものに、最も煮えたぎるような、純粋で、底知れぬ憎悪と悪意を叩きつけるために赴いたのだ。
魔力という毒によって脳を焼き切られながら、彼女の知性は極限まで研ぎ澄まされ、世界の真理の最深部へと到達していた。
そこで彼女が見たものは、愚かで、醜く、自己保身のために他者を平然と踏みにじる人間たちの果てしない業であった。
正義を騙る悪意!
ノルン・クライフォルト!
平和を騙る暴力!
マオ・チェンリー!
許せない!
そのすべてに、リンの心は絶望し、そして完全に砕け散ったのだ!
彼女が最後に心を許せたのは、人間ではなかった。
西都の路地裏で、泥水に塗れながらも媚びることなく生きていた、一匹の薄汚れた、よくわからない野良猫だけだった。
猫は語る。
「おうん?んにゃお(暇なら、皆殺しにしちまおうぜ)」
だからこそ!
リンは、人間どもへの凄絶な復讐の第一歩として、あらゆる時空、あらゆる時代の「猫」という種族そのものに、巨大な呪いをかけた。
我々が知る、あの猫の性格。
気まぐれに飛び跳ね、何もない虚空をじっと見つめ、すり寄って甘えてきたかと思えば、突如として理不尽に怒り出して爪を立てる。
あの愛らしくも全く理解不能な振る舞いは、すべてリン・チェンリーが仕組んだ、狂気の呪いだったのだ。
彼女は、猫に「中途半端で過剰な知性」を山盛りに与えた。
人間という愚かな種族に隷属することがないように。
人間の思い通りに支配されることがないように。
すべての時代の猫に遡って呪いをかけたため、世界中の人間は「猫とは元からそういう生き物だ」と疑いもしない。
だが、それは紛れもなく、リンが人間に与えた永遠の苛立ちであり、彼女の唯一の友への歪んだ祝福であった。
リンの呪いは止まらない。
彼女の人間に対する殺意は、北の山に住む強大な魔獣「クロウ・オブ・マウンテン」へと向けられた。彼女は熊の脳髄に、直接「人間への尽きることのない憎悪」を刻み込んだ。
熊は精神力が高いため、完全な殺戮兵器にこそならなかったが、その魂の奥底には消えない怒りの炎が植え付けられた。
その結果、熊はただの縄張り争いや飢えのためではなく、単なる「暇つぶし」として、たまに、執拗に、かつ残忍に人間を襲い、殺戮するようになった。
現在に至るまで熊があれほどまでに恐ろしい性格をしているのは、すべてリンの悪意の産物である。
さらにリンは、自らの親友であったはずのノルン・クライフォルトにも、最も残酷な呪いをかけた。
これから設立される「聖なる命の会」という動物愛護を掲げる団体に、決定的な指向性を与えたのだ。
それは『クライフォルト家が栄え、立派になった暁には、確実に災いをもたらし、そのすべてを破壊しろ』という呪いである。
彼らは未来永劫、表向きは崇高な理念を掲げながら、クライフォルト家から富と権力を搾取し続ける。
そして、50年後か、100年後か、クライフォルト家が最も輝かしい絶頂を迎えたその瞬間に、内側から食い破り、全てを灰燼に帰すのだ。
その地雷は、世界の歴史の裏側にひっそりと、しかし確実に埋め込まれた。
そして最後。
リンは、この狂った世界そのものに『0(リン)の呪い』をかけた。
いかなる歴史を辿ろうとも、いかなる奇跡が起きようとも、最終的にこの世界を白紙の『0』に回帰させるという絶対の呪い。その『0』が、人類の滅亡を意味するのか、地球の崩壊を意味するのか、あるいは宇宙そのものの終焉を意味するのか、誰にも分からない。
だが、世界は、世界初にして世界最強の魔法使いである彼女の願いを、深く、静かに聞き入れた。破滅の種は、世界の中心に蒔かれた。
すべてを終えたリン・チェンリーは、たった一人、誰にも知られることなく息を引き取った。
いや、死んだのではない。
彼女は最後の魔力を振り絞り、自らの存在を「完全抹消」したのだ。
過去、現在、未来、すべての時代の記憶から。
そして、世界のあらゆる記録から。
彼女は、「リン・チェンリー」という存在を消し去った。
マオには、妹などいなかった。
フウカには、ライバルなどいなかった。
ノルンには、親友などいなかった。
空白(null)!
世界最強の魔法使いは、自らの命と存在を代償に、世界を終わらせる究極の呪いを完成させ、初めからこの宇宙にいなかったものとして消滅した。
後に残ったのは、決定的な、破滅の運命だけである。
一方その頃。
リンという存在が初めから「なかったこと」に調整された世界で、萬屋には新しい日常が訪れていた。
「ヌル!ご飯できたヨ!今日は特製の角煮アル!」
「わぁい!マオのごはん、だいすき!」
小さな羽と極太の尻尾、二つの角を持つ竜人の少女。彼女は『ヌル(空白/null)』と名付けられ、萬屋の新しい家族となっていた。
「こらこら、走ると危ないぞ、ヌル。ほら、口の周りが汚れている」
ノルンが、まるで本当の母親のように優しく微笑みながら、手ぬぐいでヌルの口元を拭う。
「もう、団長様ったら完全に親バカですわね。ヌル、わたくしが西都で一番甘いお菓子を買ってきてあげましたわよ。マオの油っこい料理の後に食べなさいな」
「フウカ、ありがとう!えへへ」
ヌルは、ノルンにすっかり懐いていた。孤児であったノルンと、異世界から突然弾き出され、迷子になってしまったヌル。二人の魂は、お互いの孤独を埋め合わせるように強く結びついていた。
マオの作る温かいご飯を食べ、フウカに甘やかされ、ノルンの背中で眠る。
その日々は、底抜けに明るく、温かく、何の翳りもない幸せに満ちていた。
このささやかな幸せが、永遠に続くと、誰もが信じて疑わなかった。
だが、この世界を支配する巨大な悪意は、彼女たちを逃がしはしなかった。
ある日、魔導規制局の本部が、極秘裏に萬屋を包囲した。
彼らは知ってしまったのだ。魔導規制局の絶対的な要であり、世界最高峰の正義の象徴である「初代騎士団長ノルン・クライフォルト」が、彼らが人類の敵として設定した『飛龍』を自宅に匿っているという事実を。
規制局のトップたちは、絶望に顔を歪めた。
彼らはこれまで、「恐るべき飛竜が攻めてくる」という大義名分を掲げ、人々に魔力という毒を与え、管理し、巨大な権力を握ってきたのだ。もし、その恐るべき飛竜の正体が、ただの心優しい小さな少女であると世界に知れ渡ればどうなるか。
大義は崩壊し、規制局の欺瞞に気づいた世界中の国家と民衆が蜂起するだろう。世界は、飛龍の脅威など比較にならないほど凄惨な、地獄の屠殺場と化すことは明白だった。
だが、ノルンを処罰することはできない。彼女はすでに、規制局にとってなくてはならない「正義の象徴」になりすぎていた。飛竜を匿っていたなどと発表すれば、規制局自身の権威が失墜する。
そこで、あの冷酷無比で、血も涙もない魔導規制局の最高幹部たちが、萬屋の土間で、ノルンの前に土下座をした。
権力の頂点に立つ老人たちが、鼻水を垂らし、ボロボロと涙を流しながら、額を床に擦りつけて懇願したのだ。
「どうか、騎士団長が、危険な飛竜を処刑するために、身を挺して捕獲・監禁していたということにしてくれ……!」
「我々も、あの小さな娘を殺したくなどない!だが、世界を、人類の秩序を守るためには、それしか道がないのだ! 頼む、頼む……!」
それは、命令ではなかった。
不条理な世界を運営し続けるための、あまりにも惨めで、反論の余地のない、完璧な「正解」側からの命乞いであった。
ノルンは、あらゆるコネクションを使い、他の方法を探した。規制局の人間たちも、どうにか少女を生かしつつ秩序を保つ方法はないかと、文字通り血を吐くような議論を重ねた。
だが、選択肢はなかった。本当に、最善策はこれしかなかったのだ。
正義と平和のためには、名もなき竜人の少女一人が、死ななければならない。
その日の夜。
萬屋の薄暗い寝室で、ノルンは静かに、震える手で一杯のホットミルクを作った。
その中には、魔導規制局から渡された、無味無臭の『魔力停止剤』が致死量、溶かされていた。それは、次に眠りに落ちた瞬間、心臓の動きを静かに止める、苦痛のない時限式の毒だった。
「ヌル。ミルク、飲むか?」
「うん!わたし、ノルンのミルク、だいすき!」
ヌルは、何の疑いもなく、満面の笑みでそのミルクを飲み干した。
「……おいしい」
空になったコップを受け取ったノルンの手は、氷のように冷たくなっていた。
ヌルは、ベッドに潜り込み、ノルンの方を向いて小さなあくびをした。
ノルンは、何も言わずに部屋を出た。
ノルン・クライフォルトは、最期に……逃げたのだ。
フウカはヌルに近寄り、その小さな頭を優しく撫でながら、喉の奥から絞り出すように言った。
「ヌル……。【わたくしは、いつまでも、還りを……待ち続けます】から、ね……」
それは、フウカの、魂の叫びだった!
眠りに落ちかけていたヌルは、うとうとしながら、しかし、絶対の信頼を込めた笑顔でこう答えた。
「う、ん……。だいじょうぶ……。わたし……かならず、【フウカに会いにいく】から、ね……」
その言葉を最後に、ヌルは静かに瞳を閉じ、規則正しい寝息を立て始めた。
そして数分後。
その寝息は、永遠に止まった。
フウカは、冷たくなっていくヌルの小さな体を抱きしめ、声を出さずに、ただ口を大きく開けて泣いた。
ノルンも、涙腺から血が滲むほどに泣き、彼女の魂は、その夜、完全に死滅した。
翌日、魔導規制局は華々しく発表した。
『世界を脅かす飛竜は、我が規制局の象徴、初代騎士団長ノルン・クライフォルトの命を懸けた活躍により、秘密裏に捕獲され、無事に処刑された』と。
世界中は歓喜に沸き返った。
ノルンは、名実ともに世界の救世主となり、絶対的な正義の化身として神格化された。世界は、一人の少女の命を代償にして、見事に救われたのだ。
だが、ここからが、「生き地獄」の始まりであった。
ヌルを自らの手で殺したノルンは、ついに、精神を完全に崩壊させた!
彼女は、帝都の中心に完成したばかりの、城のように巨大な『大豪邸クライフォルト邸』の最奥の部屋に足を踏み入れ、内側から重い鍵をかけた!
そして、二度と、本当に二度と、その扉から出てくることはなかった!
世界の救世主は、何の意味もない虚構の王座に座ったまま、完全な廃人となったのだ!
しかし、彼女の生真面目さと責任感だけは、呪いのように残っていた!
彼女は、自分が逃げ出していないことを証明するために、自らの居場所を常に魔導規制局に対して発信し続けるという、自らを永遠の監視下に置く誓いを立てた!
頼まれてもいないのに、勝手に自らを幽閉し、永遠の罪人として生きる道を選んだのである!
そして、飛龍という「大義」が消滅したにもかかわらず、魔導規制局は魔力の危険性を公表するどころか、さらに魔力使用を爆発的に推進し始めた。
理由は単純にして、「最善」。
あまりにも巨大な「利権」になりすぎていたからだ。
これまで通り、魔力を使用するには高額な「国家認定ライセンス」が必要だった。
人々は魔力を使うたびに、規制局に「月額使用料」を支払わなければならない。
魔力の暴発による事故が多発するため、民間企業と癒着した「魔力保険」への加入が義務付けられた。
さらに、国や地域ごとに魔力の周波数が異なるため、移動するたびに両替商ならぬ「魔力変換器」のレンタルが必須となり、そこからも莫大な手数料が規制局に転がり込んだ。
魔力という麻薬は、すでに、世界の経済活動の血液として完全に組み込まれており、今更やめることなど、誰にもできなかった。
当然、魔力の使用者が増えれば増えるほど、人々の脳は変異し、精神は粗暴になり、凶悪な魔力犯罪が爆発的に増加した。
だが、その強大な魔力犯罪に立ち向かえるのは、最新の魔導装備を独占している魔導規制局の武装部隊だけである。
旧来の警察組織は完全に骨抜きにされ、今や商業施設の警備員や、交通整理のおじさんと変わらない扱いにまで成り下がっていた。
問題が起きれば規制局が解決し、その対価としてさらに権力と税金を吸い上げる。
帝都は、いや、世界は、完全に魔導規制局という巨大な官僚組織に乗っ取られたのである。
ここまで聞けば、さぞかし世界は絶望的なディストピアになり果て、人々は血の涙を流して苦しんでいると思うだろう?空は赤く染まり、街には悲鳴が響き渡っている……と。
だが……ちがうね!
現実の西都の街角では、今日もいつもと変わらない日常が流れていた。
確かに、凶悪犯罪の件数は増えた。
だが、その分だけ規制局の取り締まりも厳格化され、監視カメラと魔力センサーが街の隅々まで張り巡らされたため、総合的な「体感治安」は、むしろ、以前より良くなっているようにすら錯覚できた。
ライセンス制も、保険料も、国民からすれば「税金が少し上がった」程度の認識でしかなかった。
それ以上に、魔力がもたらす生活の利便性が、圧倒的に勝っていたのだ。
指先一つで火が点き、重い荷物が浮き、傷がすぐに治る。
人々は、魔力で脳を少しずつ破壊され、感情が摩耗していくことにも気づかず、ただ「便利になった」と笑いながら、魔力変換器の列に大人しく並んでいた。
萬屋のちゃぶ台に座り、窓の外を眺めていたフウカは、その光景を見て、静かに、絶望的な涙をこぼした。
世界は乗っ取られたのに!
親友が精神を壊して幽閉され、罪のない少女が毒殺された上に成り立っている世界なのに!
空は晴れ渡り、マオは台所でいつも通りに美味そうな炒飯を作り、街の人々は談笑しながら歩いている。
ただ、なんだか、普通に、生活が、豊かになっただけだった……。
誰も、怒っていない……。
誰も、悲しんでいない……。
すこーしだけ危険が増え、すこーしだけ監視が厳しくなっただけで、何一つ、劇的な変化など起きなかった。
この、決定的な悲劇が起きているのに、「特に何もない」という、日常そのものの恐ろしさ。
絶対的な悪意によって世界が支配されているのに、それが『ただの便利な生活』として完全に受容されてしまっているという、「普通」という事実。
それが、フウカの心を、どんな凄惨な拷問よりも深く、たまらなく痛めつけていた。
狂っ……て、いる、のは??
この、世……界、か??
それとも、自分、か……??
フウカの嗚咽は、炒飯を炒める小気味よい中華鍋の音と、西都の平和な喧騒の中に、誰にも気づかれることなく、虚しく吸い込まれていった……!




