救済39:【ゲームオーバー】
主題歌:ソウ サウンドトラック
https://youtu.be/cv3OPTt5pLQ?si=NsJszJEUot8xKsz7
世界の崩壊が止まってから数ヶ月。
王都の人間たちは、未曾有の危機から脱した「理由」を必要としていた。
彼らは、自らの醜悪さを直視したくなかった。
自分たちは常に正しく、常に被害者でなければならない。
そのためには、「絶対的な悪」が必要だった。
白羽の矢が立ったのは、言うまでもなく、ルミナリアである。
真実を知る者はいない。
市民たちの間では、数日のうちに都合の良い「歴史」が捏造され、定着していった。
『たぶん、ぜったい、なんか、ルミナリアが、世界を崩壊させようとした悪女に違いない……かも!』
かくして、ルミナリアは、本当に『悪役令嬢』として歴史に名を刻まれることとなった。
そして、その矛先は必然的に、彼女を輩出した「ラプラス公爵家」へと向けられた。
ルミナリア本人がすでに不在である以上、怒りは、残された遺族に向けられるしかなかったのである。
迫害は、凄惨を極めた!
夜明け前、ラプラス公爵邸の窓ガラスが砕け散る。投げ込まれたのは、腐敗が進んだ牛の死骸だった!
またある朝は、公爵の妻が洗面台の蛇口をひねると、そこから出てきたのは赤黒く濁った豚の血だった!
彼らはルミナリアを勘当し、追放した。
しかし、そんな真実は民衆にとってはどうでもよかった。
平和な世界において、退屈を持て余した「馬鹿」たちが結束した時、その悪意はどこまでも陰湿に、そして、底なしに巨大化していく!
歴史を振り返る。
すると。
人類の技術が最も飛躍的に進歩したのは「戦争」の時であると分かる。
生き残るため。あるいは、敵を殺すため。
しかし!
この王都において、技術の特異点を迎えさせたのは……純度百パーセントの……「ラプラス公爵家をいたぶる」という悪意であった!
王都の知識人たちは、より洗練された、より絶望的な苦痛を与える方法を渇望した。
そこで手を組んだのが、「科学者」たちと「法律家」たちである。
彼らは連日、一つの目的のためだけに知恵を絞り合った。
彼らは、「効率の良いいじめ」というパズルに熱狂していたのだ。
そうして誕生したのが、最新科学技術の結晶、「拷問ナイフ」である。
このナイフの刃は、魔力伝導体と魔導金属のハイブリッドで構成されている。
人体に突き刺しても外傷はつかない。
皮膚も裂けず、血も出ない。
しかし。
刃が触れた瞬間に、神経系統に直接「極大の痛覚信号」を強制送信するのだ。それは、全身の皮膚を剥がされながら、傷口に煮えたぎる鉛を注ぎ込まれるような、人間の脳が許容できる限界を超えた激痛である。
法律家たちは、このナイフの使用を合法化するために、刑法の「傷害罪」の定義を書き換えた。
『物理的な破壊を残さない神経刺激は、マッサージの範疇を出ず、傷害には当たらない』……というおもしろい解釈を議会で通過させたのである。
対象がラプラス家であるという暗黙の了解のもと、議員たちも満場一致でこれに賛同した。
戦争のために技術が進んだのではない。
ラプラス家を苦しめる。
ただ、それだけのために、王都の科学、工学、そして法学は、わずか数ヶ月で百年分の「進化」を遂げたのである。
まず、標的となったのは、公爵が愛する妻であり、没落した屋敷に最後まで残ったメイドたちだった。
ある日、市場へ買い出しに出た若いメイドのアンナの肩に、すれ違いざまに見知らぬ男が『拷問ナイフ』を押し当てた。
「ね。大丈夫だよ、大丈夫だから。ね。ぎゅって、ね。当てるだけ。大丈夫。ね」
その瞬間、アンナは目を見開き、声にならない絶叫を上げて、石畳に転げ回った。
「ぎ!?…………っああああああああ!!」
駆けつけた憲兵が記録した調書には、こう書かれている。
「対象者に外傷なし。暴行の事実なし。ただ、一人で発狂し、自傷行為に及んでいる精神錯乱の女を保護した」
アンナは心身を深く抉られ、二度と公爵邸に戻ることはなかった。
公爵の妻もまた、この拷問の犠牲となった。彼女は自室で眠っている間に、窓を破って侵入した暴徒たちに囲まれ、一晩中『拷問ナイフ』を全身にもぞもぞ、もぞもぞ、もぞもぞ、もぞもぞと、執拗に当てられ続けた。毎夜毎夜、妻の絶叫が屋敷中に響き渡った。死ぬよりも辛い痛みを味わわされる。しかし、夜が明けて暴徒が去った後、彼女の体は傷一つなく健康なままである。
外傷がないため、高額な金を払って医者を呼んでも「精神錯乱」として片付けられ、鎮静剤すら処方されなかった。
妻は、数週間のうちに完全に心を壊した。
広大だったラプラス公爵邸には、もはや公爵と、言葉を失った廃人妻だけが残された。
そして、すべてが崩壊し尽くしたある日の朝。ついにその時が訪れた。
ラプラス邸の正門に、突如として華やかなブラスバンドの行進曲と、割れんばかりの歓声が押し寄せた。
公爵は、重い足取りで玄関の扉を開けた。
彼の視界に飛び込んできたのは、信じられない光景であった。
礼服に身を包んだ政府の役人たち。
カメラを構える無数の記者たち。
胸に勲章を輝かせた科学者たち。
彼らが……公爵を取り囲むように、仲良く整列していたのである!
「ラプラス公爵!おめでとうございます!」
代表の役人が、高らかに叫んだ。
「あなた方の娘、ルミナリアの死のおかげで、我が国の科学技術は飛躍的な進化を遂げました!」
科学者の一人が前に進み出て、公爵の手を強く握りしめた。
「公爵、感謝いたします!我々はあなたを苦しめるためという強烈なモチベーションを得ることができた結果、人類は、技術発展の糸口を発見したのです。これは奇跡です!ルミナリアさんの名誉ある死に、心からの感謝を!」
歓喜に湧く群衆!
一斉に焚かれるフラッシュの光!
「これは、国家からのささやかな報奨金です!」
中に入っていたのは、10万クレスト。
ゴミ拾いの、ひと月の給与にも満たない。
貴族のディナーの、一皿分にも満たない。
ゴミのような、端金。
その端金が、感謝の印として、厳々しく手渡されたのだ。
娘の死を、祝われている。
感謝を、されている。
涙まで、流されている。
この世界中の、人間たちから。
公爵の視界は真っ白に染まり、急速に周囲の酸素が奪われていくような感覚に陥った。
膝から力が抜け、冷たい大理石の階段へと崩れ落ちた。
翌る日。
ラプラス公爵邸の門を叩いたのは、王都でも指折りの大貴族、ガルシア伯爵とその弁護団であった。
ガルシア伯爵は、かつてルミナリアがその才能を見出し、半ば強引に買い取ったメイド・シャルロッテの「元の主人」であった。
彼は、ラプラス公爵に向かって、分厚い訴状を叩きつけた。
「ラプラス公爵。貴様の娘、ルミナリアが我が家から強奪した『財産』の返還、および、その名誉の回復を求めて、裁判所に提訴させてもらった」
公爵は、窪んだ眼窩から虚ろな目を向けた。
「ご……強奪……?」
「左様。シャルロッテは、我がガルシア家の優秀なメイドであった。それを、あの悪女ルミナリアが無理やり金で買い叩き、奪い去ったのだ。本来であれば、我がガルシア家で温かな人生を送るはずだった彼女は、貴様の娘に洗脳され、奴隷のように扱われ……最後には……殺された!」
ガルシア伯爵の言葉は、【事実の陳列ではあるが、それは意味合いとしては……完全なる捏造であった。】
ルミナリアがシャルロッテを買い取ったのは、ガルシア家でシャルロッテが虐待を受けていたからだ。ルミナリアは彼女を救い出し、友人として、そして生涯の伴侶として愛した。
しかし、そんな真実は、証拠も証人もいない今、誰にも証明できない。
シャルロッテもルミナリアも、すでに消滅しているのだから。
「政府は先般、世界を救った『功績』として、ラプラス家に10万クレストを支払った。だが、その功績の真の立役者は、我がガルシア家のメイド、シャルロッテである。したがって、その名誉と対価は、ラプラス家ではなく、元の所有者であるガルシア家に帰属すべきなのだ!」
かくして、前代未聞の裁判が幕を開けた。
「判決を下す。被告、ラプラス公爵を全面敗訴とする」
裁判長の冷酷な声が響き渡る。
法廷は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
「続いて、シャルロッテ嬢の『功績』の、再算定結果を発表する」
ざわめく法廷。
「魔導規制局の計算によれば、大陸全土の崩壊を阻止し、全人類の命とインフラを保全したことによる経済効果は……しめて、1000兆クレストと認定された!」
1000兆クレスト!
国家予算の数十年分に匹敵する、天文学的な数字である。
「したがって、政府は真の代理人であるガルシア伯爵に対し、1000兆クレストを支払う……と言いたいところだが」
裁判長は、分厚い法典を閉じた。
「政府はすでに、ラプラス公爵に『代理人としての報奨金』を支払い済みである。政府は、同一事案に対して二重払いを行うことは禁止されている。ゆえに、政府からガルシア伯爵への支払いは……一切行われない!」
法廷が、水を打ったように静まり返った。
「よって。……誤った代理人として政府から権利を受領したラプラス公爵が、ガルシア伯爵に対して1000兆クレストを『返還』する義務を負うものとする!」
その日のうちに、ラプラス公爵は破産した!
ここで、国家のやさしみはさらに一つ上の次元へと到達する。
ラプラス公爵が自己破産したことで、ガルシア伯爵への1000兆クレストの支払いが滞ることになる。これを重く見た政府は、次のような特別措置法を公布した。
『ガルシア伯爵を救済するため、ラプラス公爵の負債1000兆クレストを、国家が一時的に「立て替える」こととする』
政府は、国庫からガルシア伯爵に対して天文学的な資金を振り込んだ。
では、国家が立て替えたその1000兆クレストは、一体どこから回収するのか?
もちろん、国民からである!
政府は、国民に対して新たなる税を課した。
その名も『ラプラス税』。
パンを一つ買うごとに、50%のラプラス消費税が上乗せされる。
水筒に水を汲むごとに、ラプラス水道税が引かれる。
子供が生まれればラプラス出産税が、人が死ねばラプラス葬儀税が、人が生きていればラプラス生存税が徴収される。
国民が労働して得た賃金の半分以上が、無条件で国に吸い上げられることになったのだ。
王都の市民は、かつてないほどの、圧倒的な経済的困窮に陥った!
一方、国家の建て替えによって1000兆クレストという無限の資金を手に入れたガルシア伯爵は、それを懐にしまい込むような三流ではなかった。
彼は、その莫大な資金を「運用」し始めたのである。
彼は王都の各所に巨大な病院を建設し、「シャルロッテ記念病院」と名付け、市民に無償で医療を提供した。
孤児院を建て、貧しい子供たちに食事と教育を与えた。
自らの資金を湯水のように使い、道路を舗装し、橋を架け、新しい魔導インフラを整備した。
さらに彼は、重いラプラス税に苦しむ市民たちに向けて、食料の無料配給を行い、涙ながらにこう演説したのである。
「善良なる市民の皆様。ラプラス家の悪行のせいで、皆様が苦しい生活を強いられていること、私の胸も張り裂けそうです。せめて、シャルロッテの命と引き換えに得たこの資金を、皆様の生活を豊かにするために使わせてください。私たちは……けして!悪には!屈しません!」
地獄の、完成形であった。
そして。
すべての憎悪を押し付けられたラプラス公爵には、「死んで楽になる」という、卑怯な「逃げ」の選択肢は、当然ながら与えられなかった。
王都中央広場。
緑あふれる憩いの場に、突如として巨大な『正方形の透明な箱』が設置された。
最高強度の魔導ガラスで構成されたその密室の中に、二人の人間が閉じ込められている。
ラプラス公爵と、その妻である。
彼らの頭上には、目に見えない無数の「空間ゲート」が穿たれていた。
それは、王都全域に存在する全てのトイレの下水管と、直接、かつ完全にリンクしていた。
そして、彼らが素足で立つ床面は、王都の地下深くにある浄水施設へと直結する巨大な排水溝となっていた。
すなわち!
王都の住人がトイレで用を足すたびに、その排泄物は、直接この箱の天井から「降ってくる」のである!
絶え間ない、糞尿の雨!
黄色く濁った液体と、茶色い汚物の塊が、24時間365日、休むことなく……公爵と妻の頭上にたっぷりと降り注ぐ!
逃げ場など、どこにも……ない!
箱の中は常に排泄物の悪臭と湿気に満ち、二人の体は文字通り、足の先から頭のてっぺんまで、他人の汚物で完全にコーティングされていた!
「あ……あぁ……っ!?う、おぇぇぇぇっ!の?……ぷぎいいいいいッ!?」
公爵と妻は狂乱し、助けを求めた!
降り注ぐ汚物を手で払い除けようと必死に足掻いた!
だが、圧倒的な質量である!
彼らが口を開けて悲鳴を上げれば、その口の中に容赦なく汚物がおいしく流れ込む!
かつてはシルクを纏い、紅茶を嗜んでいた大貴族が、今は、市民の胃袋を通って腐敗した汚物を頭から被り続け、その中で這いずり、もがき、苦しむことしかできないのだ!
しかし!
この物理的な苦痛すらも、これから公爵を襲う『真の絶望』に比べれば、単なるおあそびに過ぎなかった!
社会における最大の恐怖とは何か!
それは、どれほど異常な出来事であっても、時間が経てば『日常』として消化され、疑問を抱かれなくなるという事実である!
電気という発明品が世に出た時、人々はそれを魔法だと恐れた!
新聞が現れた時も!車が現れた時も同じだ!
しかし!
それらが「普通」であると理解された瞬間から、人々はそれを受け入れ、「常識」へと昇華させた。
常識となった新発明は、以降……なくなることはない。
そう!
『ラプラス便器』と呼ばれるようになったこの透明な箱も、全く同じプロセスを辿った!
設置された当初は、市民たちも熱狂し、わざわざ広場に足を運んで、箱の上の専用ゲートから直接排泄を行う者すらいた。
それは新しいファッションであり、新たなるマナーであり、娯楽のブームであった。
だが!
数年が経過すると、その「熱狂的なブーム」は去った。
市民たちは、もはや……ラプラス公爵を憎んでなどいなかった。
ある休日の午後。
広場のオープンカフェで、若いカップルが楽しげにコーヒーを飲んでいる。
「ねえ、ちょっと、『ラプラス』行ってくる」
「おう。じゃ、俺も、タバコんついでに『ラプラス』してくるわ」
彼らは極めて軽い感覚で、広場の公衆トイレに入り、用を足す。
彼らの顔には、ラプラス公爵への怒りも、憎しみも、悪意すらもない。
仕事の気分転換。家族の団欒の合間。食後の習慣。
『なんか、トイレに行けば、なんか、その汚物は、なんか、ラプラス公爵の上に降る』
それが、この世界の『常識』として完全に定着してしまったのだ!
誰も、もう、ラプラス公爵が何の罪に問われているのかを知らなかった!
ルミナリアという名前すら、人々の記憶からは薄れつつあった!
ラプラス公爵は、ガラス越しに外の世界を見て、決定的な事実を悟った!
『誰しもが自分に糞尿を浴びせているが、だからといっといって、誰も自分を憎んでなどいない』のだ!
圧倒的な!人間の!醜悪さ!
悪意があって迫害されるのであれば、まだ「自分という存在」が認知されているだけマシである。
だが、彼らは違う!
ただ、何となく、なんか、流れで、まあ、システムの一部として……公爵に糞尿をかけているのだ!
憎しみすらない!
悪意すらない!
ただの『無関心な日常』が、公爵の尊厳を永遠に削り続ける!
……そんな公爵にとって、唯一の「救い」と呼べるものがあるとすれば、それは『王都の深夜』であった。
午前2時から午前5時頃までの間。
市民のほとんどが眠りにつくこの時間帯だけは、頭上から降ってくる排泄物の量が劇的に減るのだ。完全に止まるわけではないが、それでも「激しい豪雨」が「小雨」程度にはなる。
そのわずかな時間だけ、公爵は、自分がまだ生きていることを確認することができた。
しかし、そのささやかな気休めすらも、一人の「働き者」によって、完全に破壊されることになる。
彼女の名前は、ルカピ。
若者たちから絶大な支持を集める、行動力に溢れたインフルエンサーである。
彼女には、悪意など1ミリも存在しない。
ルカピは、王都の広場にある『ラプラス便器』を見て、目を輝かせた。
「これさ、広めたらバズるし、平和に繋がるっしょ!」
ルカピの行動力は圧倒的だった。
彼女は自身のネットワークと莫大な資金、そして持ち前の発信力をフル活用し、『ラプラス便器・グローバルプロジェクト』を立ち上げた。
彼女の提案は、各国の首脳陣にも「画期的な下水処理とエンターテインメントの融合」として大歓迎された。
瞬く間に、世界のすべての首都に『ラプラス便器のレプリカ』が建設された。
そして、そのレプリカの箱の中には、魔導技術によって創り出された『ラプラス公爵と妻の分身』が設置されたのである。
世界中の10000箇所の首都に設置されたラプラス便器に降るすべての汚物の感触と悪臭を、オリジナルのラプラス公爵の脳が『同時にすべて受信する』という仕組みである。
公爵の受ける苦痛は、もちろん、10000倍に跳ね上がった。
「あ……がっ……ぽぎゃああああああああああああああああッッッ!!!」
分身が設置されたその日、公爵はこれまで出したこともないような凄まじい絶叫を上げ、箱の中で激しく痙攣した。
物理的に王都の箱に降る汚物だけでなく、脳内に直接、世界数十億人の排泄の感触が……津波のように押し寄せてきたのだ!
そして何より!
公爵にとって最も絶望的な事実が突きつけられた!
地球には……時差がある……。
王都が深夜であっても、地球の裏側の国は真昼間である。
つまり、世界中にラプラス便器が設置されたことで、公爵の頭上にたのしく送られてくる豊かな排泄物のシャワーは、『24時間365日、1秒の瞬きすらなく、常に降り注ぎ続ける』ことになったのだ!
唯一の気休めであった「夜」は……完全に消滅した……。
そして、数ヶ月が経過した。
王都の裏路地にある居酒屋にて。
片隅のテーブルに、三人の男女が座っていた。
一人は、王都名物「ラプラス便器」を世界中に拡散させた、インフルエンサー、ルカピ。
そして彼女の向かいに座っているのが、この日たまたまその場にいた、名も無き浮浪者のおっさんと、やはり、名も無き浮浪者のおばさんであった。
彼らはジョッキを傾けながら、最近の王都のトレンドである「ラプラス便器」について語り始めた。
おっさんは、顎をさすりながら、ねっとりとした声で言った。
「いや、ラプラス便器のシステムは、非常に理にかなっていると僕は思うんですよ。いや、だってそうでしょう?『穢れ』を、ラプラス公爵というたった一つの点に集中させている。『一点集中』は常に正しい。いや、 これって、最大多数の最大幸福ですよ」
おっさんの言葉に、おばさんも深く頷きながら持論を展開した。
「ま、まったくその通りだ。ま、だが、まだ甘い。ま、一度決めたことは、死ぬまで、宇宙が終わるまで……いや、可能であるならば多元宇宙や、すべての次元に存在する人々をも巻き込んで『初志貫徹』すべきなんだ。ま、中途半端はよくない。ま、あらゆる時間、あらゆる空間、あらゆる次元の者が、全力を尽くして彼らをいたぶり尽くす。ま、それこそが、秩序というものだよ」
一点集中!
初志貫徹!
彼らにとっては、単なる居酒屋での酒のつまみ、自分たちの頭の良さをひけらかすための、中身のない机上の空論に過ぎなかった。彼らは自分たちの言葉がどれほどの重みを持つかなど考えてもいないし、本気でそんなシステムを作ろうなどとは欠片も思っていなかった。
しかし!
彼らの向かいに座っていたルカピの脳内には、この言葉が電撃的に、雷鳴のように響き渡っていた!
ルカピは、ジョッキを持ったまま硬直していた。
彼女の瞳孔は開ききり、脳髄が、細胞が、思考が、恐ろしい速度で新たなる「企画」のインスピレーションを構築していく。
ルカピは、狂気のインフルエンサーである。
彼女にとって、浮浪者のおっさんとおばさんの無責任な妄言は、文字通りの『天啓』であった。
神が自分に、この宇宙の真の秩序を完成させよと囁きかけている。彼女はそう確信した。
ルカピはガタッと立ち上がった。
「キモすぎですね!でも、お二方!私、リスペクトです!私、インスパイアされました!」
浮浪者の二人が呆然とする中、ルカピは軽やかなステップで居酒屋の扉を開け、外へと飛び出していった。
ルカピの行動力と、その背後にある未知の魔導テクノロジーの力は、もはや、人類の理解を超越していた。
彼女は、どういうわけか……自身のネットワークを地球上だけでなく、魔界、霊界、別次元の平行世界、さらには時間の概念を超えた過去や未来の文明にまで拡張した。
「みんなー!究極のエコシステム『ラプラス便器・オメガ』のローンチだよー!完全なる一点集中と初志貫徹で、みんなでハッピーになろー!」
彼女の無邪気なプロモーションは、あらゆる次元の存在に受け入れられた。
なぜなら、「便利」だったからだ!
誰もラプラス公爵のことなど知らない。
ただ、トイレでボタンを押せば、あるいは穴に用を足せば、それが魔導ゲートを通じてどこか別の次元の「ゴミ箱」に消えてくれる。こんなに快適なことはない。
そして!
ついに!
その日が来た!
この世の誰しもが思いつかなかったし、そもそもやろうとも思っていなかった、圧倒的な、無限の地獄が完成する日が。
王都、中央広場。
そこにあった透明な箱は、見た目はそのままに、空間の概念を歪められた「次元の特異点」へと改造されていた。
その箱の中に、カズヒデ・ラプラスと、妻のミカコ・ラプラスはいた。
彼らの頭上に開かれたゲートは、もはや一つや二つではない。
数万、数億、数兆……いや、数字で数えることすら無意味な、無限のゲートが、極小の座標に圧縮されて口を開いていた。
ドゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッッッ!!!!!!!
宇宙が誕生した瞬間のビッグバンを思わせるような、鼓膜を破壊する轟音。
それは、あらゆる時間、空間、次元から送られてくる排泄物が、カズヒデとミカコの頭上に直撃する音であった。
原始時代の恐竜の巨大な糞尿!
未来のエイリアンたちの排泄物!
異世界のモンスターたちの体液!
平行世界の無数の人類の吐瀉物と汚物!
それが、1秒の隙もなく、時間の概念すら圧縮され、同時に、永遠に、彼らの頭上に……まんべんなく降り注ぎ始めたのだ!
「ぴ!!!!???」
カズヒデとミカコは、悲鳴を上げることすらできなかった。
圧倒的な質量!
星を砕くほどの物理的な汚物の圧力が、彼らの肉体を一瞬にして押し潰した!
本来であれば、この瞬間に彼らは死を迎えるはずだった。肉体はミンチになり、魂すらも消滅するはずだった。
だが!
死は、絶対に与えられなかった!
というか、死ぬことができなかったのだ!
ルカピの構築したシステムは、浮浪者二人の言葉を忠実に再現していた!
『一点集中』と『初志貫徹』!
これを全次元規模で維持するためには、受け皿であるカズヒデとミカコが「壊れて」しまっては困るのだ。
彼らが入れられている箱は、単なる空間ではない。
彼らの肉体と魂は、全次元の排泄物を受け止め、処理し、浄化するための『分散型生体サーバー』として、宇宙の基幹システムに完全に組み込まれていた。
彼らの肉体が何十億トンというエイリアンの糞尿に押し潰され、細胞の一粒に至るまで破壊された瞬間、サーバーの自己修復機能が働き、彼らの肉体は「排泄物の激流の中」で、一瞬にして元の姿に再構築される。
そうして再構築された次の瞬間、またしても無限の汚物に押し潰され、窒息し、細胞が破裂する。
破壊と再生!
再生と破壊!
そのサイクルが、1秒間に数億回という、人間の知覚を遥かに超えた速度で永遠に繰り返される!
カズヒデの脳神経は、潰される苦痛と、汚物を飲み込む嫌悪感と、息ができない絶望を、決して麻痺することなく、常に「新鮮な最初の一口目のおいしいうんち」として味わい続けるようにチューニングされていた。
「あ……あ……るみ……な……りあ……っ……たちけで……」
汚物の濁流の中で、カズヒデの意識は極限まで引き伸ばされ、時間の感覚を失っていった!
一瞬が何億年にも感じられ、何億年が一瞬で過ぎ去る!
隣で妻のミカコが、肉体を何度も破裂させながら、言葉にならない叫びを上げ続けている!
彼女の髪は、無限の次元のヘドロに染まり、彼女の瞳は常に新しい汚物に潰され続けていた。
『地獄』。
そんな言葉は、おとぎ話だ。
『無限』。
そんな言葉は、数学の記号に過ぎない。
『究極』。
そんな言葉は、ごまかすための言い訳だ。
カズヒデ・ラプラスとミカコ・ラプラスが到達したこの状態を表現する言葉は、この世のどこにも存在しない。
ただ、湿った排泄の音だけが、永遠に、永遠に、永遠に、響き続けている。




