救済38:【自殺!自殺!自殺!そして!自殺!自殺!自殺!真実に辿り着き自殺する悪女!】
イメージソング:殺しが静かにやって来る サウンドトラック
https://youtu.be/5EdJabFFXt0?si=pP_ZkwnUY6UrfdNL
砂漠。
それは、圧倒的なまでの無の空間。
視界を埋め尽くすのは、砂丘の曲線と、白濁した空。
直射日光。
他には何もない。
本当に、何もない空間だった。
もしこの砂漠に、凶悪な魔獣の一匹でも潜んでいれば、あるいは盗賊団でも現れてくれれば、それはルミナリアにとってむしろ手慰みになっただろう。
敵意。
殺意。
悪意。
それらは、少なくとも、他者が存在するという証である。
だが、この砂漠には、サソリ一匹、枯れ草一本すら存在しなかった。
完全な、静寂。
聞こえるのは、自分の靴が砂を擦る単調な音。
聞こえるのは、乾いた風が耳元を通り過ぎる音。
ルミナリアは、ただ歩いた。
思考が、削ぎ落とされていく。
やがて、白かった空がオレンジ色に染まり、瞬く間に闇へと沈んでいった。
太陽が地平線の下に姿を消すと、今度は急激な温度低下がルミナリアを襲った。
ルミナリアは、砂丘の風下側に身を丸めるようにして座り込んだ。
外套に包まり、微弱な火炎魔法を指先に灯して、冷え切った空気をほんの少しだけ温める。
見上げれば、澄み切った夜空に、無数の星々が冷たい光を放っていた。
彼女は、外套のポケットから、粗末な乾パンを取り出した。
指で小さく割り、ひび割れた唇の間から口に含む。
味などない。
声は出ない。
声を出す意味もない。
星が流れる。
風が砂を運ぶ。
彼女は膝を抱え、ただじっと、体力の回復に努めた。
夜の砂漠は、無音だった。
朝が来た。
地平線が白み始めると同時に、熱線が再び世界を支配し始める。
二日目。
風景は、昨日と全く変わらなかった。
砂丘を越えても、また、同じような砂丘。
目印になるような岩も、オアシスもない。
自分の歩みは、本当に前へ進んでいるのか。
自分の歩みは、同じ場所を彷徨っているのか。
太陽が網膜を焼く。
蜃気楼が、彼方に幻の湖を描き出す。
昼が過ぎる。
午後が来る。
喉の渇きが、限界を超えて肉体を内側から削り始める。
自分の心拍音だけが、耳の奥で鳴り響いていた。
動物もいない。
自然の営みもない。
ただ、砂。
ただ、熱。
ただ、一人、ルミナリア。
悲しみもない。
怒りもない。
後悔すらない。
そして、再び、夜。
空が、黒く塗りつぶされる。
気温が急降下し、寒波が襲いかかる。
ルミナリアは再び砂に座り込み、乾パンの欠片を齧り、一口の水を飲む。
朝が来て、夜が来る。
歩いて、休んで、また歩く。
その反復。
三日目か、四日目か。
もはや時間の間隔すらも曖昧になりつつあった。
彼女の身体は、限界をとうに超えていた。
ルミナリアは、乾いた唇をわずかに開いた。
何かを呟こうとしたのかも、しれない。
しかし、声帯は干からびて癒着しており、空気の漏れる音しか出なかった。
何を言おうとしたのか、彼女自身にもわからなかった。
シャルロッテの名前か。
それとも、あの市民たちへの呪詛か。
いや、違う。
彼女の脳内を占めていたのは、そんな人間的な感情ではなかった。
極限状態の中で、彼女の頭脳は、一つの命題に行き着いていた。
人間たちが積み上げてきた負債。
それは、欲望と虚飾にまみれた、無限に膨張するマイナスの数字だ。
そして、この砂漠。
ここは、何もない完全なゼロだ。
あの醜悪なマイナスを消し去るためには、それに等しいマイナスが必要となる。
ガリオン・ヘルという古代の清算施設は、そのマイナスにマイナスをかける装置。
そして、そのマイナスのエネルギー源こそが、ルミナリアなのだ。
彼女がこれから行おうとしていることは、自分を世界から消去することで、世界のバグを相殺し、すべてを平坦な無に帰すという、数式の完成に他ならなかった。
人間は醜い。
生きることは苦しい。
しかし、論理だけは、常に美しく、裏切らない。
自分が死ぬことで、この世界から一つの巨大なエラーが消去され、数式が美しく完結する。
【その理論が、今の彼女を支える唯一の杖となっていた。】
五日目か、六日目か。
もはや、時間の経過を示す太陽の軌跡すら、ルミナリアにとっては意味を持たなくなっていた。
悲しいか。
いや、悲しくない。
苦しいか。
いや、苦しくない。
風が、彼女のボロボロになった衣服を揺らす。
シャルロッテの顔を思い出そうとしても、脳裏に浮かぶのは、血の泡と、赤い肉塊のイメージだけ。
人間とは、かくも簡単に情報へと還元されるものらしい。
かすかに開いた唇から、砂のように乾いた音が漏れた。
彼女が求めているのは救済ではない。
復讐でもない。
ただ、この世界という巨大な方程式に仕込まれた矛盾を、自らの消滅をもって相殺すること。
それだけが、この世界の唯一の美しさであり、秩序の回復だった。
どれほど歩いたことだろう。
視界の端、地平線の歪みの向こう側に、それまでとは異なる異質な黒い点が浮かび上がった。
陽炎の向こうで揺らめくその影は、自然物特有の曲線を持っていなかった。
完璧なまでの直線と、鋭利な幾何学模様で構成された、人工的な巨塔。
圧倒的な質量を持つ建造物。
大陸全土の負債を吸い上げ、因果の帳尻を合わせるための終末装置。
古代浄化施設、ガリオン・ヘル。
ルミナリアの足が、ふと止まった。
ついに、目的地に到達したのだ。
幾日もの間、死の砂漠をただひたすらに歩き続け、飢えと渇きに耐え、肉体をすり潰しながら目指した場所。
世界を救うための、終着点。
何らかの、感情の爆発が起きるはずだった。
しかし、ルミナリアの心には、波風一つ立たなかった。
彼女はただ、うつろな目でその巨大な鉄の塊を見上げた。
そこにあったのは、ただの景色の変化でしかなかった。
何の感動もなかった。
達成感も、高揚感も、絶望の終わりに対する安堵すらも、一切なかった。
ただ、そこへ、行った、という、物理的な因果関係の移動が完了したという事実だけが、冷たく脳裏に定着している。
あんなにも醜い人間たちに罵られ、あんなにも理不尽にシャルロッテを奪われ、あれほどの苦痛と孤独を耐え抜いて辿り着いたというのに。
その結末が、この空虚なまでの無感動であるとは。
ルミナリアは、乾いた息を吐き出した。
彼女は、ガリオン・ヘルの巨大な錆びた鉄門へと歩み寄った。
耳障りな金属音を立てながら、ゆっくりと重い扉を開いた。
内部は、外の灼熱の砂漠とは変わって、冷たく、淀んだ空気が満ちていた。
中央には、無数のケーブルと魔導パイプに接続された、旧時代の玉座のような装置が鎮座している。
ルミナリアは迷うことなく、その玉座へと歩み寄った。
他に行く場所などない。
他にやるべきことなどない。
彼女は玉座に腰を下ろし、自らの手で、頭部や背中に伸びる無数のスパイク状のケーブルを引き寄せた。
冷たい金属の感触が、皮膚を伝う。
これから、このケーブルが彼女の頭蓋骨を貫き、脳髄の隅々まで接続され、記憶、知能、魔力、そして生命力のすべてを吸い尽くす。
彼女の存在は、この世界から完全に消滅する。
『接続準備、完了』
機械音声のような思考が、ルミナリアの意識の底で響く。
ルミナリアは深く息を吸い込み、自らの手で、頭部のメインケーブルを自身のこめかみへと強く押し当てた。
『個体名:ルミナリア・フォン・ラプラス。因果律相殺プロトコル、起動準備に入ります』
脳髄に直接響く、機械的な音声。
自身の命が、一滴、また一滴と、巨大なポンプで吸い上げられていく感覚があった。
干からびた肉体から最後に残された生命力が搾取され、魔力が光の粒子となって玉座のパイプを駆け巡る。
それに呼応するように、ガリオン・ヘルの巨大な施設全体が、重低音を響かせながら数百年の眠りから目を覚まし始めていた。
閉じた瞼の裏で、ルミナリアは微かな、本当に微かな安堵の息を吐いた。
「さあ、世界の罪に、選択を」
その言葉は、劇曲の終幕を飾るにふさわしい、完璧な自己犠牲の宣誓であった。
あとは、意識が闇に溶け、世界から泥獣が消え去り、すべてが平穏な無へと回帰するのを待つだけ。
だが……。
何かが、おかしい……。
『警告。器に、致命的な欠陥を検知』
ルミナリアは、ふと、目を開いた。
「……器の、欠陥……?」
システムは間違いなく起動している。
しかし、因果律の相殺が行われていない。
その時、彼女の脳髄に接続されたメインケーブルを通じて、ガリオン・ヘルの過去の記録が流れ込んできた。
ルミナリアの視界に無数の光景がフラッシュバックする。
それは、彼女自身の記憶ではない。
この玉座で命を散らしていった、過去の起動者たちの記憶だった。
『人間は愚かだ。だが、私だけは真理に辿り着いた』
『私が死ぬことで、この矛盾した世界を終わらせる』
『愛する者を奪われたこの絶望が、世界を救う鍵なのだ』
視界に映し出されるのは、ルミナリアと全く同じような、悲壮な決意を顔に浮かべた天才たちの姿だった。
彼らは皆、ルミナリアと同じように人間の醜さに絶望し、ルミナリアと同じように孤独な旅を経てこの砂漠へ辿り着き、そして、ルミナリアと全く同じように「自分こそが特別な存在であり、この矛盾を抱え込んで世界を清算できる唯一の器である」と信じて疑わなかった。
10年に、一度。
寸分違わぬサイクルで、世界は、傲慢な凡人を自動的に生み出し、このガリオン・ヘルへと誘導していたのだ。
「あ……ああ……?」
ルミナリアの唇から、間抜けな音が漏れる。
彼女が砂漠の極限状態の中で見出した、人間の醜さを救うために美しい自分が死ぬという決死の決断。
それすらも、過去の天才たちが全員、一語一句違わずに到達していた、ありふれた、教科書通りの定石に過ぎなかった。
自分は、他者とは違う特別な存在でもなんでもなかった。
【自分は……社会から虐げられながらも……それでも世界を見捨てなかった……という、その崇高な自己犠牲の精神すら、ありふれた、単なる「定番」に過ぎなかったのだ!!!!】
絶対的な自負が、音を立てて崩れ去っていく!!!!
自分にしか、できないと思っていた!!!!
自分だけが、この世界の真理に気づいたのだと!!!!
だが現実は、自分は巨大な歴史のサイクルの中で量産された、ただの思い上がった量産品でしかなかった!!!!
しかし、絶望はまだ終わらない。
システムからの冷酷なフィードバックは、さらに決定的な「真実」をルミナリアの脳髄に叩きつけた。
『エラー要因の特定を完了』
『判定:ルミナリア・フォン・ラプラスは、偽物です』
「な……ぜ……」
ルミナリアは血を吐きながら呻いた。
「わたくしは……すべてを失った【はず】……!!!!誇りも、地位も、愛する、者も……!!!!この、砂漠で、完全な、無を知った………………【はず】……!!!!」
【はず】。
そう。
ルミナリアは、初めて自分自身を疑うそぶりを「してみた」のだ。
薄々自分の過ちに気が付いていたが、わざわざ自分から気がつこうとはしなかったのだ。
そして、命を落とす直前というこの修羅場に及んで、まだ、傲慢さを捨てきれてはいなかった。
だからこそ。
【はず】という不気味な逃げ口上が、スラスラと口先から飛び出してきたのだ。
馬鹿は、死ぬまで治らない。
どうせ多分、いつかは許されるだろうと、甘えに甘えて、甘えに甘えて、そうして命を取られることが、それこそが、馬鹿の「特権」なのだ。
馬鹿は、死ぬまで治らない……。
『対象の苦難は、安全圏からの自己選択に基づく疑似的な悲劇に過ぎません』
機械の冷徹な論理が、ルミナリアの人生の根幹を無惨に解体していく。
【そうだった…………!!!!!!!!】
ルミナリアは元々、何不自由ない特権階級の貴族であった。
彼女は自らの意志で平民に下り、自らの趣味のように平民の暮らしを享受し、シャルロッテと結婚した。
彼女が経験した苦難は、セーフティーネットの上で行われた、言わば、悲劇のヒロインごっこに過ぎなかったのだ。
【……すべてを持つ勝者が、すべてを持たない敗者に対して……「私は育ちがいいですから、あなたたち如きの安っぽい辛さも、まあ理解はしてあげられますよ」と……徹底的に見下しながら、無関心に、しかし必ず上から目線で、自らの正しさを見せつけるためだけに……特に何の思い入れもなく……敗者のコスプレをしていただけだったのだ!!!!】
真の苦難とは、逃げ場のないどん底から這い上がり、それでもなお理不尽にすべてを奪われること。
最初から持っていたものを手放すことと、最初から何も持たざる者が必死に掴んだ光を理不尽に踏みにじられることでは、その魂に刻まれる無の深度が全く異なる。
では、誰が真の器であったのか。
世界の負債を完全に相殺し、真の平和をもたらすことができたはずの「本物の絶望」を知る者は誰だったのか。
システムが、一つの映像をルミナリアの脳内に映し出した。
泥と汚物にまみれたスラム街。
そこから這い上がり、貴族のメイドとして必死に生きる術を身につけて。
貴族の妻という、身に余る幸せを掴み取ったにも関わらず。
最後は、自分が命を懸けて守ろうとした民衆たちの手によって、無惨にも銃で撃たれ、自己正当化のために死体として処理された少女が、居たではないか。
ついに、ルミナリアは、【気がつかされて】しまった。
「う………………うあああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
シャルロッテ!!!!
そう!!!!
彼女こそが、この時代において世界を救済するための、唯一の最適解であった!!!!
だが!!!!
ルミナリアは、シャルロッテを、消費してしまった!!!!
自分は本当の苦難を知らない観光客に過ぎないのに、思い上がり、自分こそが民衆の苦難を理解して受け止める器であると錯覚した!!!!
その、浅ましい自意識が、英雄気取りの被害者根性が、世界を救う唯一の希望であったシャルロッテを、名もなき荒野の土の下に埋め捨ててしまったのだ!!!!
自分が勝手に、恋人を殺した!!!!
自分が勝手に、世界を殺した!!!!
自分が勝手に、自分を殺した!!!!
「ひっ!!!!……あ……あああああああああ!!!!……あぎっ!?……いいいいい!!!!…………アアアアアアッ……ぎゃああああああああああああああああああああ!!!!」
すべては、最初から台無しになっていた。
自分が悪を憎み、世界に善を成そうとしたその瞬間から。
自分が天才であると自負し、シャルロッテを愛し、守ろうとしたその営みそのものが、結果的に世界を最も確実な破滅へと導く引き金であった。
引き裂かれる神経の激痛!!!!
シャルロッテを自分自身の手で殺してしまったに等しいという、絶対的な後悔!!!!
自分の人生のすべてが、ただの滑稽な道化の芝居であったという、気が狂うほどの屈辱!!!!
それらの感情が、薄れることなく、脳髄の中で反響し続ける!!!!
「許して……!シャルロッテ……!ア!わたくしが、わたく、ヒギッ!?しが愚かでしたの……!!ゆ……ゆる…………イでぃっ!?!?……………
声なき声で絶叫するが、もはや物理的な発声すら叶わない。
その間にも、世界は、崩壊していく。
そして、その崩壊の原因を作った傲慢なる凡人は、機械の玉座に磔にされたまま、三億年分の圧倒的な絶望に焼かれ続ける。
そして。
かつて類まれなる美貌と天才的な頭脳を誇った少女の体は、限界を超えた魔力枯渇と生命力の完全な消滅により、一瞬にして、乾いた「砂」へと変わった。
風が吹き抜ける。
玉座の上に残されたのは、ただの無機質な白い砂の山だけだった。
決意も、後悔も、苦痛も。
誰の記憶にも残ることなく、世界の歴史から完全に抹消された。
だが、システムはまだ止まらない。
大陸の崩壊は依然として進行していた。
システムが、次の犠牲者を待つ態勢に入った、その時である。
あまりにも残忍で、あまりにも理不尽な奇跡が、上空から舞い降りた。
「おややや?……フム?……こんなところに旧時代のポンコツが転がっているとはねえ?」
のんびりとした、緊張感の欠片もない声が砂漠に響いた。
重力という物理法則を完全に無視し、空の散歩を楽しみながらガリオン・ヘルの真上に降り立ったのは、一人の魔導士だった。
彼女の名は、エラーラ・ヴェリタス。
大陸全土にその名を轟かせる最強の魔導士。
「なるほど?大陸中の悪意を吸い上げて処理する装置?……いやはや、魔導変換効率が悪すぎるねぇ……なるほど?命を先払いするシステムかね。面白い!」
エラーラは、ガリオン・ヘルの玉座へと歩み寄った。
もちろん、彼女もまたスラム出身であり、あらゆる苦難を味わい、物理的に何度も死んでいるため、システムの要求する真の絶望を知る器としての条件を完璧に、しかもルミナリアなど比較にならない次元で満たしていた。
『新規コアの接続を確認。因果律相殺プロトコル、再起動』
無数のケーブルが、エラーラの身体に突き刺さる。
次の瞬間、ガリオン・ヘルはエラーラの命を瞬時に吸い尽くした。
「あいたっ!」
エラーラは、即死した。
ルミナリアが三億年の主観時間をかけて耐え抜こうとした致死量の負荷を、エラーラはたった一瞬で受け切り、その命を散らしたのだ。
そして、エラーラは何事もなかったかのように即座に生き返った。
一度死んで因果律の清算は完了しているため、彼女が自前で生き返る分には何の問題もなかったのだ。
エラーラは、軽く伸びをした。
「ああっ!?今日は『ミスター・マジック』の新店舗がオープンする日じゃあないか!急がないと限定のシュガードーナツが売り切れてしまうぞ!」
エラーラは宙へ浮き上がると、王都の方角へ向かって猛スピードで飛び去っていった。
後には、静寂を取り戻した砂漠と、機能を停止したただの鉄屑だけが残された。
ルミナリアの人生のすべては、一人の少女が王都でドーナツを買うための、ほんのわずかな寄り道以下の出来事として、この世界から永遠に塵と消えたのである……。




