救済34:狂気のない狂気!悪意のない悪意!人違い!一般的な地獄へ堕ちる悪女!
……ドンッ! ドンッ! ドンッ!!
突如として、隣の部屋との境にある壁が、乱暴に叩き鳴らされた。
「うるさいぞ! 静かにしろ!!」
壁越しに、隣の客の野太い怒声が響いてきた。
ルミナリアとシャルロッテは顔を見合わせた。
「ルミナリア。あのような無礼な輩、わたくしが灰にしてまいりましょうか?」
「やめなさい、シャルロッテ。何か勘違いをしているのでしょう。少し様子を見ますわ」
ルミナリアは静かにベッドから起き上がり、足音を忍ばせて部屋のドアを開け、廊下を覗き込んだ。
少し待っていると、薄暗い廊下の隅に、一人の女が立っているのが見えた。
年齢は二十代半ばだろうか。服装はごく普通の町娘のものだが、その瞳には奇妙な濁りがあった。後で知ることになるが、彼女の名前は『ムクムク』といった。
ムクムクは、周囲を見回し、ルミナリアの部屋のドアの前までやってきた。そして、ルミナリアの部屋のドアと、隣の客の部屋のドアの「境目」の壁を、持っていた硬い靴の踵でガンガンと叩き始めたのだ。
ルミナリアたちの目を盗み、あたかも「ルミナリアの部屋から騒音が出ている」と隣の客に思い込ませるための、手の込んだ嫌がらせだった。
「……何をしていますの?」
ルミナリアが声をかけると、ムクムクは肩を震わせた。
その直後、隣の部屋のドアが勢いよく開き、顔を真っ赤にした中年の男が飛び出してきた。男は廊下にいたムクムクの腕をガシッと掴み上げた。
「さっきからうるさいんだよ! お前、この部屋の女の友人だな!」
隣の客は、ムクムクをルミナリアの友人だと完全に決めつけ、怒鳴り散らした。
「お待ちになって。その方はわたくしの友人では……」
ルミナリアが論理的に誤解を解こうとしたが、隣の客は聞く耳を持たず、ムクムクの腕を引っ張って1階のフロントへと向かっていった。ルミナリアも溜息をつきながら、その後を追った。
フロントには、眠たそうに目を擦る若い男性従業員がいた。
「おい、この女たちが夜中に騒いでいてうるさい!どうにかしろ!」
隣の客がムクムクをフロントに突き出す。
ルミナリアは理路整然と状況を説明した。
「この女性はわたくしの友人ではありません。わたくしたちの部屋の前で、彼女が音を立てていたのです。名簿を確認していただければ、わたくしたちが二人組であることが分かるはずですわ」
証拠を示し、論理的に説明すれば、すぐに解決する問題のはずだった。
しかし、フロントの男は、宿泊名簿の台帳を開くことすらしなかった。彼はただ「面倒くさい」という顔で、ルミナリアとムクムクを交互に見比べた。
「あー……お客様。ご友人同士の喧嘩は、他のお客様の迷惑になりますので」
「ですから、友人ではないと申し上げて……」
「はいはい。では、とりあえずお部屋へどうぞ。揉め事は部屋の中でお願いしますよ」
男はルミナリアの言葉を完全に遮り、まるでゴミでも片付けるかのような手つきで、ムクムクの背中を押してルミナリアに押し付けた。
確認というほんの数秒の手間を惜しみ、目の前のトラブルを「友人同士の喧嘩」という自分が一番楽なフレームに落とし込んで処理する。社会の中間層に蔓延する、典型的な『事勿れ主義』であった。
結果として、ムクムクはルミナリアと共に、ルミナリアの部屋に押し込まれる形となった。
部屋に戻るなり、シャルロッテが警戒して立ち上がった。
「ルミナリア、その泥棒猫は誰ですの!?」
「それが……」
ルミナリアが事情を説明しようとした瞬間だった。
部屋の中に入ったムクムクの態度が、豹変した。
「キャアアアアアアッ!!私をいじめないで!!」
ムクムクは突然悲鳴を上げ、自分の髪をかきむしり始めたのだ。
「は……?」
ルミナリアは呆気にとられた。
「あなたがルンバを奪ったから私の人生はめちゃくちゃよ!許さない、絶対に許さないんだからァッ!ぴぎいいいいいい!」
ムクムクはわけのわからないことを叫びながら、部屋の奥へと駆け出し、いきなり窓を開け放った。
「あ!私が死ねば満足なんでしょ!そうよ、あなたが私を突き落としたのよ!」
ムクムクは窓枠に足をかけ、そのまま飛び降りようとした。
「なっ……! 待ちなさい!」
ルミナリアは咄嗟に駆け寄り、ムクムクの腕を掴んで部屋の中へと強く引き戻した。
シャルロッテも慌ててムクムクのもう片方の腕を押さえつけた。
ムクムクは暴れ狂い、ルミナリアとシャルロッテは必死で彼女を取り押さえていた。
その光景は、誰がどう見ても「強い二人の女が、か弱い一人の女を窓から落とそうとしている、あるいはいじめている」ようにしか見えなかった。
それこそが、ムクムクの描いた狂気の「計画」であったのだ。
「動くな!」
部屋のドアが乱暴に蹴破られ、踏み込んできたのは、黒い制服に身を包んだ王都警察の警官たちであった。
「……おいおい、元公爵令嬢。いくらむしゃくしゃしてたからって、一般の女をいびり殺そうとするのは感心しねェな」
「違いますわ!彼女が勝手に!」
「ああ、ああ。言い訳は署で聞く。全員、署まで同行してもらうぜ」
かくして、ルミナリアとシャルロッテは、全く身に覚えのない罪で警察署へと連行されることとなった。
王都警察署の冷たい石造りの留置所。
鉄格子の中で、ルミナリアは頭を抱えていた。
「ルミナリア、こんな不潔な場所、わたくしの魔法で吹き飛ばして帰りましょう」
シャルロッテが苛立たしげに鉄格子を揺らす。
「ダメですわ。警察を敵に回せば、本当の犯罪者になってしまいます」
数時間後、別室での事情聴取が始まった。
取調室で向かい合ったのは、中年のくたびれた警官だった。
彼の机の上には、一枚の事情聴取の書類が置かれていた。そこには、関係者の名前が箇条書きにされていた。
『ムクムクさん 多分被害者?』
『死神 ルミナリア・ラプラス 意思疎通に難あり 精神病の疑いあり』
『の……シャルロッテ 付き人 妻?よくわからない』
警官はその書類を見ながら、気怠そうに口を開いた。
「あー。……さて……死神ルミナリアさん。あなたがムクムクさんに嫌がらせをし、窓から突き落とそうとしたということで間違いないですね?」
「?……全くの事実無根です」
ルミナリアは冷静に、事の顛末を論理的に説明した。
しかし、警官の反応はルミナリアの予想を大きく裏切るものだった。
「いやいや、でもね。ムクムクさんは『死神ルミナリアたちにいじめられた』と泣きながら証言していますよ。それに……」
警官は書類の『名前の順番』をペンでトントンと叩いた。
「この調書。あのですよ、一番上に名前がある人間。それが、『被害者』なんですよ。ムクムクさんの名前が一番上にある以上、彼女の言い分はベースになるんです」
「は……?」
ルミナリアは絶句した。
「名前を書いた順番が一番上だから、彼女の証言が正しいと?それはどんな論理的な根拠に基づいているのですか!?」
「いやや、論理と言われましてもねぇ。ね。書類上の『慣例』というやつでして。それに、ムクムクさんは見るからに弱々しい一般女性です。あなたたちのような強い女性が、死神さんが、彼女をいじめたと考えるのが、そりゃあ、一般の常識的な見方でしょう」
偏見!
バイアス!
事勿れ主義!
書類至上主義!
社会の中間層を構成する凡人たちが作り上げた、強固で淀んだ『謎のルール』。
そこには、悪意もない。
そこには、殺意もない。
ただ、「自分が今までやってきたやり方を変えるのが面倒くさい」「パッと見の印象で判断した方が楽」という、極めて怠惰で中途半端な判断基準があるだけだった。
ルミナリアの精緻な論理は、この「中途半端な常識の壁」の前では、まるで泥沼に石を投げるように何の反響も生み出さなかった。
いくら事実を並べ立てても、「でも書類ではこうだから」「でも普通はこうだから」という思考停止の言葉で全て撥ね除けられてしまう。
結局、隣の部屋の客への再聴取や、宿の宿泊名簿の確認など、警察が『面倒くさがっていた裏付け捜査』を渋々行い、ルミナリアたちの無実が確定するまでに、気の遠くなるような時間を要した。
釈放され、警察署の門を出た時には、すでに白み始めた朝の光が王都を照らしていた。
「……信じられませんわ。あのような非論理的な空間が、この世に存在しているなんて」
ルミナリアはフラフラになりながら、深い溜息をついた。死闘の後の疲労など比べ物にならないほどの、精神的な徒労感であった。
署の門前には、同じく事情聴取を終えて出てきたムクムクの姿があった。
ルミナリアは彼女に歩み寄り、静かに、しかし冷徹な声で問い詰めた。
「一つだけ。あなたには……わたくしたちに恨まれるような大層な動機も、金銭的な利益も何もないはずです。なぜ、あのような手の込んだ嫌がらせをしたのですか?」
ムクムクは悪びれる様子もなく、ルミナリアを睨みつけて叫んだ。
「イイイイイイ!とぼけないで!あなたルンバ・ガゼルと不倫したでしょ!!」
「……は?」
ルミナリアは目を瞬いた。
「ルンバガ、ゼル?……?誰ですの、それは」
「嘘!王都で一番人気の吟遊詩人、ルンバ・ガゼル様よ!私、彼のファンで、彼と結婚する運命だったのに!あなたみたいな女が彼をたぶらかしたせいで、彼は歌うのをやめちゃったじゃない!!」
ルミナリアは頭痛を覚え、こめかみを押さえた。
ルンバ・ガゼルなどという歌手、名前すら聞いたことがない。そもそもルミナリアはつい先日まで無菌室に引きこもっていたのだ。不倫など物理的に不可能である。
「人違いですわ。わたくしはそのような方を知りませんし、会ったこともありません」
ルミナリアがそう説明しようとした瞬間、背後に立っていたシャルロッテが、ギリッと奥歯を鳴らす音が聞こえた。
「シャルロッテ?」
振り返ると、シャルロッテは般若のような顔でムクムクを睨みつけていた。
「……ルンバ・ガゼル様は、素晴らしい歌声の持ち主でしたわ」
シャルロッテは低くドス黒い声で呟いた。
「わたくしがルミナリア様にお仕えする前、スラムで辛い思いをしていた時、彼の歌だけが心の救いでした……。ですが、あなたのような気持ち悪い追っかけがストーカー行為を繰り返したせいで、彼は精神を病んで引退に追い込まれたのではなくて!?」
「な、なんですって!?私を侮辱する気!?」
ムクムクがわめき散らす。
シャルロッテは舌打ちをし、顔を背けた。
「……わたくし、この泥棒猫の顔をこれ以上見ていると、無意識のうちに魔法で消し炭にしてしまいそうです。以降の会話には一切加わりませんので、ご容赦を」
そう言って、シャルロッテはルミナリアの背中の後ろにすっぽりと隠れ、完全に沈黙してしまった。普段ならルミナリアのために狂気を見せる彼女が、元推しへの私怨が絡んだことで、極度に機嫌を損ねてボイコットを始めたのだ。
「あ、ちょっとシャルロッテ……」
頼みの綱である狂犬が機能を停止し、ルミナリアは完全に孤立してしまった。
ルミナリアは再びムクムクに向き直り、根気強く説明を試みた。
「ええと、いいですか、ムクムクさん。わたくしはラプラス家の……いえ、ルミナリアという者です。ルン・バガゼルという方とは一切の接点がありません。あなたの思い込みであり、認知の歪みです」
だが、ムクムクにはルミナリアの言葉が「文字通り」届いていなかった。
「嘘!あなたがルンバを奪ったの!謝りなさいよ!!」
会話はしている。言葉も通じている。
だが、コミュニケーションは絶望的なまでに成立していなかった。
「いい加減になさい!!」
ルミナリアが痺れを切らして声を荒げた、その時だった。
「あの……すみません。もしかして、ムクムクさんですか?」
警察署の中から、一人の女性が歩み出てきた。
その女性は、清楚なワンピースを着た、どこか幸薄そうな雰囲気を持つ美人であった。
「警察から呼び出されて来たのですが……あなたが、私に対する嫌がらせの犯人ですね?」
その女性の顔を見た瞬間、ムクムクの目がカッと見開かれた。
「あ……ああああっ!ルミナス!!」
女性の名前は『ルミナス』。
彼女こそが、ルンバ・ガゼルの本当の不倫相手であった。
ムクムクはルミナリアとルミナスという似た名前を混同し、「ルミナリアが不倫相手だ」と勝手に思い込んでいたのだ。
「本物の敵!」
ムクムクは歓喜に顔を歪ませ、どこから取り出したのか、隠し持っていた果物ナイフを握りしめ、一直線にルミナスへと突進した。
「キャアアッ!?」
「危ないッ!!」
ルミナリアが叫ぶより早く、ムクムクのナイフがルミナスの腹部に深々と突き刺さった。
鮮血が吹き出し、ルミナスが崩れ落ちる。
その瞬間。
「あ……あああっ!?私、刺しちゃった!? なんで!? どうして!?」
ムクムクはパニックに陥り、狂乱状態となった。
そして、あろうことか、すぐ横に立っていたルミナリアを指差したのだ。
「こ、この女が!このルミナリアって女が、『刺せ』って私に命令したのよ!私は操られていただけ!悪いのは私じゃないわ!」
「…………は?」
ルミナリアは、あまりの不可解さ、あまりの無責任さ、そして人間の脳がここまで自己保身のために現実を歪曲できるという事実に、完全に思考が停止した。
自分が刺しておいて、瞬時に「他人のせい」に変換し、それを本気で信じ込んでいる。
サイコパスというような高度な異常性ではない。ただひたすらに精神が幼く、自分の都合の良いようにしか世界を認識できない「一般人」の狂気。
騒ぎを聞きつけて警察署から飛び出してきた警官たちが、即座にムクムクを取り押さえた。
ルミナスは一命を取り留め、今度こそムクムクは現行犯で逮捕され、牢へとぶち込まれた。
そして、周囲の目撃者の証言もあり、ルミナリアが無実であることは完全に証明された。
事件は解決した。
真犯人は捕まり、ルミナリアの無実は証明された。
だが、ルミナリアの心の中には、かつてないほどの巨大な「しこり」と「恐怖」が残されていた……。




