第三話:召喚の目的を聞きまして
情報というものは、ただ闇雲に集めればいいというものではない。
手に入れたデータを精査し、不要なものを削ぎ落とし、相互の関連性をタグ付けして初めて、それは「有益な情報」として機能する。
ルミナス村での二日目の朝。私は宿屋の(私が完全に清掃と消臭を済ませた)一室で、手持ちのアイテムと資金の再計算を終えた。昨日、嘆きの森の生態系を少しばかり「整理」した副産物として得た魔石や素材は、村の相場で換算するとかなりの額になることが判明している。当面の活動資金に懸念はない。
次にすべきタスクは明確だ。
この世界を救うというメインプロジェクトの、正確な仕様要件の確認である。
「リリア。準備はいいですか。神殿へ向かいます」
一階の食堂へ降りると、昨日出会った銀髪の魔法使い、リリアが静かにスープを飲んでいた。彼女は私の声にビクッと肩を揺らし、慌てて頷いた。
「え、ええ。おはよう、ねづっち。……あの、神殿に行くって、どうして?」
「プロジェクトのオリエンテーションです。昨日、この世界の神から大雑把な依頼を受けましたが、詳細な要件定義が全くなされていません。クライアントから正確な被害状況とゴール地点を聞き出さなければ、適切なスケジュールは組めませんから」
「お、おりえんてーしょん……?」
未知の単語に目を白黒させるリリアを伴い、私たちは村の小高い丘に建つ神殿へと足を運んだ。
神殿の内部は、昨日私が暴走した魔獣を始末したときのまま、瓦礫や血痕が中途半端に散乱していた。激しい衝動が私の指先を駆け巡る。今すぐ『整える力』を発動して、この乱雑な空間を左右対称の完璧なシンメトリーに配置し直したい。
だが、今は我慢だ。目的の優先順位を見誤ってはいけない。
「おお、勇者様! よくぞおいでくださった!」
祭壇の奥から、大神官が足早に歩み寄ってきた。その後ろには、数人の神官たちが控えている。彼らの顔には一様に、疲労と諦観の色が濃く滲んでいた。
「大神官。昨日のお話の続きを伺いに来ました。魔神ハートレスが放ったという『心の呪縛』。それの具体的な症状と、世界に及ぼしている影響の範囲を、時系列順に報告してください」
「は、はい……。では、改めてご説明いたしましょう」
大神官は咳払いを一つし、重々しい口調で語り始めた。
「今から十年前のことです。突如としてエトス大陸の北方に魔神ハートレスが顕現し、世界中に見えない『呪いの霧』を撒き散らしました。それが『心の呪縛』です。
この呪縛に長期間当てられた者は、少しずつ、しかし確実に『感情』をすり減らしていきます。最初は喜びや悲しみが薄れ、次に他者への思いやりや愛情が消える。そして最後には、完全な無関心と、己の生存のみを優先する冷酷な獣のような精神状態へと陥ってしまうのです」
私は手元の革表紙のノート(村の雑貨屋で調達した)に、持参したボールペンで淡々とメモを取っていく。
「ふむ。精神を対象とした遅効性のデバフ、あるいはコンピュータウイルスのようなものですね。人々の心というストレージから、感情というデータを少しずつ消去、あるいはフラグメンテーション(断片化)させている状態、と」
「ふらぐめ……? よくわかりませんが、その通りです。現在、大陸の至る所で相互不信が蔓延し、かつては同盟関係にあった国々でさえ、些細な利益のために血みどろの戦争を繰り広げています。村の若者たちから活気が失われたのも、その呪縛の初期症状なのです」
「なるほど。被害範囲は世界全土。進行度は中期から末期といったところですか。魔神の目的は?」
「おそらく、人間の持つ『感情のエネルギー』を喰らい、完全な神として羽化することかと……。このままではあと数年で、この世界から『心』という概念そのものが消滅してしまいます」
大神官はそう言うと、顔を覆ってむせび泣き始めた。
隣に立つリリアもまた、青ざめた顔で自身の腕を強く抱きしめていた。彼女もまた、その呪縛の恐ろしさを肌で感じてきたのだろう。
「……私も、少しずつ忘れそうになるの」
リリアが、消え入るような声で呟いた。
「自分がどうして魔法の修行を始めたのか。故郷で誰に微笑みかけられたのか。……呪縛の霧が濃い場所を通るたびに、心の中にあったはずの温かい何かが、ポロポロと崩れ落ちていく感覚があるの。それが、たまらなく怖くて……」
絶望に支配された空間。誰もが俯き、世界の終焉を前に膝を屈している。
通常であれば、ここで勇者は義憤に駆られ、大声で世界を救う誓いを立てるのだろう。
私はノートをパタンと閉じ、ペンを胸ポケットに丁寧にしまった。
「——状況は完全に理解しました。要するに、世界規模の深刻なシステムエラーですね」
私のあまりにも抑揚のない声に、大神官とリリアが同時に顔を上げた。
「これほど大規模に情報が乱れ、人々の心が散らかっている状態は、確かに由々しき事態です。放置すれば、論理的破綻を招くことは火を見るより明らかでしょう」
「ゆ、勇者様……? それは、つまり……」
「ええ。原因と症状がわかれば、対処のしようはあります。これも、整えればいいですね」
私は、自分のデスク周りの片付けを頼まれたときと全く同じテンションで、そう言い放った。
大神官はポカンと口を開け、言葉を失っている。
「心のデータが断片化しているなら、デフラグ(最適化)を行えばいい。魔神というバグの発生源があるなら、そこへ物理的にアクセスしてプログラムごと削除する。やるべきタスクは極めてシンプルです」
「し、しんぷる……? 魔神の討伐が、ですか!?」
「問題の規模が大きくなっただけで、本質は部屋の掃除と変わりません。ゴミの発生源を断ち、散らかったものを元の場所に戻す。ただそれだけのことです」
私は大神官に向かって一礼した。
「有益な情報提供、感謝します。これでプロジェクトの全容が把握できました。ロードマップの作成に取り掛かりますので、本日はこれで失礼します。……ああ、それと」
私は踵を返し、神殿の出口へ向かいかけたところで、足を止めた。
「そこの祭壇の燭台、右から三番目だけが五ミリほど手前にズレています。早急に修正しておくことをお勧めします。非常に見苦しいので」
それだけ言い残し、私は神殿を後にした。
「……ねづっち、ちょっと待って!」
神殿の長い階段を下りていると、背後からリリアが慌てて追いかけてきた。
彼女は私の前に回り込み、信じられないものを見るような目で私を見上げた。
「あなた、本気なの? 相手は世界を滅ぼしかけている魔神よ? 人々の心を奪う、恐ろしい呪いなのよ!? どうして、そんなに……そんなに冷静でいられるの?」
彼女の瞳には、明らかな戸惑いと、ほんの少しの恐れが入り混じっていた。
私は階段の途中で立ち止まり、彼女の目を真っ直ぐに見返した。
「恐れることは、極めて非効率だからです」
「ひこうりつ……?」
「ええ。未知のもの、全容が把握できないものに対して、人は恐怖を抱きます。ですが、構造を分解し、仕組みを理解し、対処法をリスト化してしまえば、それは単なる『タスク』へと変わります。タスクに対して必要なのは、恐怖や悲観ではなく、淡々とした『実行』のみです」
私は自身の右手を軽く握り、そして開いた。
「私の『整える力』は、あらゆる乱れを最適化します。もし、あなたの心が呪縛によって崩れかけ、散らかりそうになった時は、私が整えましょう。あなたの記憶も、感情も、本来あるべき正しい場所へ再配置してみせます。ですから、恐れる必要はありません」
それは、熱烈な慰めでも、ロマンチックな口説き文句でもない。
ただの、システムエンジニアとしての事実確認であり、運用保守の宣言だった。
しかし、その絶対的な自信と、揺るぎない論理の強さは、今のリリアにとって何よりも必要とされていたものだったらしい。
彼女はしばらくの間、呆然と私を見つめていた。
やがて、彼女の瞳からポロリと一粒の涙が零れ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、張り詰めていた糸がふっと緩んだような、安堵の涙に見えた。
「……変な人。本当に、変わってる」
彼女は袖口で乱暴に涙を拭い、そして、私と出会ってから初めて、花が咲くような確かな笑顔を見せた。
「でも……なんだか、あなたと一緒にいれば、本当に全部片付いちゃうような気がしてきたわ。私の散らかりそうな心も、この世界の呪いも、全部」
私は静かに頷き、右手を差し出した。
「改めて、正式な契約(パーティー結成)の打診です、リリア。あなたの『魔力観測』によるレーダー機能は、私がこの世界を効率的にデバッグするために不可欠な要素です。私のプロジェクトチームに加わっていただけますか?」
「ええ。よろしく頼むわね、リーダーさん」
彼女は私の手をしっかりと握り返した。
その手は小さく、少し冷たかったが、確かな『感情の脈動』が伝わってきた。
私は心の中で、プロジェクトの第一フェーズ完了のチェックボックスに印をつける。目的の明確化と、初期人員の確保。
「整いました。では、行きましょう」
無駄のない歩調で、私は歩き出した。
この非合理で乱雑な異世界を、完璧な美しさに整頓するための旅が、今、本格的に軌道に乗った。




