第二十一話:全てを賭けまして
朝焼けの光が、崩壊しつつある「無心の塔」を黄金色に染め上げていた。
システムの完全なクリーンアップ。過去のトラウマという最後のバグを解消し、私と仲間たちの心は一ミリの隙間もなくリンクしていた。
勝利の確信。
これ以上のタスクは存在しない。私たちは、世界を破滅から救ったのだ。
……そう、信じていた。
だが、システム管理において最も恐ろしいのは、目に見えるエラーではない。
「正常に終了した」と偽装して潜伏する、未知のマルウェア(ゼロデイ脆弱性)の存在である。
『――ピーーーーーーーッ……!!』
突如として、私の網膜を突き破るような強烈な赤の警告が点滅した。
それと同時に、朝焼けの空が、まるでガラスが割れるようにヒビ割れ、その隙間からドロドロとした「真の漆黒」が溢れ出してきたのだ。
「なっ……!? 空が、また……!」
リリアが悲鳴を上げ、杖を構え直す。
「どうなってんだ! 魔神は旦那がぶっ飛ばしたんじゃねえのかよ!」
ガルドが崩れかけた床を踏みしめ、大剣を再び引き抜いた。
私は手帳を開き、周囲の魔力波形をスキャンしようとした。
だが、手帳のページは一瞬にして黒く染まり、ボロボロと崩れ落ちていく。
「……計測、不能。これは……先ほどの『初期化』のプロセスとは根本的に異なるベクトルです」
塔の残骸が宙に浮かび上がり、渦を巻くように一点に集束していく。
そこから現れたのは、もはや塔のような無機質な構造物ではなかった。
無数の腕、無数の眼球、数万の人間の顔が泥のように溶け合い、絶叫を上げながら蠢く「混沌の集合体」。
『アァァァ……整イズ、治マラズ。全テハ無秩序ニ帰ス……!』
魔神ハートレス・完全顕現形態。
先ほどの塔は、ヤツの単なる「殻」に過ぎなかったのだ。人間の心を奪い、感情を圧縮し続けてきた魔神の真の姿は、冷徹なシステムなどではない。
圧縮され、行き場を失い、ドス黒く変異した「無限のバグとノイズの奔流」そのものだった。
「……私の【整える力】が弾かれている……?」
私は両手をかざし、対象の座標を固定しようとした。だが、光のラインは魔神の表皮に触れた瞬間に、無意味な文字列へと変換され、霧散してしまう。
『無駄ダ。秩序ハ、圧倒的ナ無秩序ノ前ニハ無力。……消エロ、小賢シイ管理者ヨ!』
魔神の巨大な腕が振り下ろされる。
「ねづっち!」
リリアが【暴風の壁】を展開するが、紙切れのように引き裂かれ、彼女の細い体は瓦礫の海へと吹き飛ばされた。
「リリア!!」
「この、化け物がァァァッ!」
ガルドが果敢に跳躍し、大剣を魔神の腕に叩きつける。だが、その剣撃すらも泥のような肉体に吸い込まれ、逆に巨大な質量で弾き返されて、壁に激突した。
「にゃはっ、ガルド!」
ミラのワイヤーも届かず、セレナの回復魔法すら、魔神の放つ絶対的なノイズの空間では霧散してしまう。
わずか数秒。
私たちが手に入れたはずの「完璧な連携」は、圧倒的な理不尽の前に完全にクラッシュ(崩壊)させられた。
「……計算、再構築。生存ルートの算出……」
私は歯を食い縛り、脳内のプロセッサを限界までオーバークロックさせた。
だが、出てくる答えはすべて「エラー」。生存確率〇パーセント。
魔神は、「整える」という行為そのものを真っ向から否定する存在だ。
ファイルが散らかっているのではない。ファイルそのものが腐敗し、爆発し、あらゆる論理を飲み込む泥の津波。
バケツで海をすくおうとするような絶望的な演算量の前に、私の脳は焼き切れそうになっていた。
『理解シタカ。オ前ノチッポケナ「整理整頓」ナド、大イナル混沌ノ前ニハ砂ノ城ニ過ギナイ』
魔神が、絶望に沈む私たちを見下ろし、嘲笑う。
そうだ。ヤツの言う通りかもしれない。
いかに私がスキルを進化させようとも、私という存在のベースは、ただの脆弱な人間に過ぎない。神の領域にある混沌を、一個人のロジックで制御できるはずがないのだ。
だが。
「……痛っ……」
瓦礫の中から、リリアがふらふらと立ち上がった。額から血を流し、杖はへし折れている。それでも彼女は、魔神から私を庇うように、細い腕を広げて立ち塞がった。
「リリア、下がってください! ステータスが危険域です!」
「……うるさいわね。リーダーが、諦めそうな顔してるから……ハッパかけに来ただけよ」
彼女は荒い息を吐きながら、血に染まった唇で笑った。
「旦那……まだ、俺の盾は……砕けちゃいねえぜ……」
ガルドが、折れた大剣の柄を握りしめ、咆哮と共に立ち上がる。
「あたしたち、ここまで来て……バグの親玉に負けるなんて、絶対に嫌だもんね!」
ミラが毒針を構え、セレナが両手を組んで必死に祈りを紡ぐ。
彼らの姿を見て、私の胸の奥で、何かが激しく熱を放ち始めた。
……私は、何を間違えていた?
論理? 効率? 最適化?
違う。そんなものは、前世で私が死ぬ間際に抱きしめていた、冷たいガラクタに過ぎない。
私が本当に手に入れた力。
それは、彼らという「温かい命」と結びついた、私自身の「感情(心)」そのものではないか。
「……ふふっ」
私は、自分でも驚くほど自然に、声を出して笑っていた。
「ねづっち?」
リリアが不思議そうに振り返る。
「ええ。魔神の言う通りです。私の『整える力』は、ヤツの混沌を処理しきれない。……システム(理屈)で対抗しようとするから、スペックの差で押し潰されるのです」
私は、愛用していた手帳を、瓦礫の中へポイと投げ捨てた。
そして、鼻当てのズレた眼鏡を外し、自らの足元で踏み砕いた。
「リーダー……?」
私は、両手を天に掲げた。
「システム管理者の権限にて、最終コマンドを実行する」
私の体から、これまで展開していた青や黄金の光(魔力)が、みるみるうちに失われていく。
ステータスを最適化していた常時発動型の防御バフ、思考を加速させていた演算支援プログラム。そして、私に与えられた最強の固有スキル【整える力】。
そのすべてを、自らの意志で『オフ(シャットダウン)』にした。
『……何ヲシタ? 自ラ防壁ヲ捨テルカ、愚カ者メ』
魔神の無数の目が、訝しむように私を睨む。
「ええ、捨てました」
私の声は、もはや平坦な機械音声ではなく、息の荒い、泥臭い、ただの人間の声だった。
「計算も、効率も、整える力も、今はすべて邪魔だ。
お前のような理不尽な泥の塊を殴り飛ばすのに、綺麗なインターフェースなんて必要ない。……私の中にあるのは、ただ一つ。『お前を絶対に許さない』という、生の感情だけだ」
スキルを解除した私の体は、ただの「ひ弱な成人男性」のそれに戻っていた。
瓦礫の熱が足の裏を焼き、砂埃が肺を刺し、心臓が破裂しそうなほど激しく脈打っている。
世界が、痛いほど生々しい。
だが、不思議なことに。
私の体は、かつてないほど「軽く」、そして圧倒的な熱量に満ち溢れていた。
論理回路を通さず、スキルというフィルターも通さない。
ただ純粋な「仲間を守りたい」「魔神をぶっ飛ばしたい」という感情の爆発。それこそが、どんな魔法よりも強大なエネルギー(熱)を生み出していた。
「リリア。ガルド。ミラ。セレナ」
私は、身一つで魔神の正面に立ち、仲間たちを振り返った。
「これより、一切の作戦を放棄します。
フォーメーションも、ダメージ計算も、スキルの連携も、すべて必要ありません」
私は両の拳を強く握りしめた。爪が肉に食い込み、血が滲む。
「全部、賭けましょう。
私たちの命、これまで積み上げてきた絆、泥臭い感情のすべてを、そのままあの巨大なゴミの塊に叩きつける。
……整えるなんて、お上品なことはもう終わりだ。世界中を巻き込んで、派手に『散らかし』に行きましょう!」
私の言葉に、仲間たちは一瞬の空白の後――
これまでで一番の、とびきり野蛮で、最高に美しい笑顔を見せた。
「あははっ! ついにリーダーの頭のネジが全部吹っ飛んだわね! 最高じゃない!」
リリアが折れた杖を放り捨て、自らの魔力を直接両手に集束させる。
「おうよ! 理屈抜きの殴り合いなら、俺たちの右に出るヤツはいねえ!!」
ガルドが折れた大剣の代わりに、巨大な瓦礫を両腕で抱え上げる。
「にゃはははっ! メチャクチャにしてやる!」
「ねづっち様の御心のままに! 私の命、すべてお預けします!」
五人の魂が、一切のシステム(理屈)を介さずに、生の感情だけで完全に一つに繋がった。
それは、整えられた秩序ではなく、魔神の混沌をも飲み込むほどに熱く、激しい「命のビッグバン」。
『狂ッタカ、人間ドモ……! 死ネェェェェッ!!』
魔神が、全方位から黒い泥の津波と、無数の触手を放ってくる。
回避不能の全滅攻撃。
だが、私は一歩も退かなかった。
「行くぞ、みんな!!」
私は、ただの一人の人間として。
仲間たちと共に、絶望の泥の津波のど真ん中へ向かって、全力で地を蹴った。
計算はない。保証もない。
あるのはただ、絶対に負けないという命の熱狂だけ。
――すべてを賭けた、本当の意味での最終決戦が、今、泥まみれの産声を上げた。




