第十九話:最終決戦の地へ進みまして
空が「消去」された。
青い空も、太陽の光も、まるで不良セクタとして切り捨てられたかのように、絶対的な漆黒へと塗り潰されていく。
魔神教団の総本山であった『黒の尖塔』は、その物理的な外殻をボロボロと崩し落とし、内側からおぞましい姿を現した。
それは、一切の装飾も、窓も、扉すら持たない、透明なクリスタルと黒いノイズだけで構成された巨大な構造物。
人間の心を吸い上げ、感情という名のバグを排除した果てにたどり着く、究極の無機質。
魔神ハートレスの本拠地、『無心の塔』である。
『……世界の初期化プロセスを開始します。
全領域の心の消去まで、残り一時間』
どこからともなく、無機質で圧倒的なシステムの音声が、戦場にいる全人類の脳内に直接響き渡った。
カウントダウンの開始。それは、この世界に生きるすべての生命の「感情」と「記憶」がゼロに戻される、最悪のタイムリミットだった。
「残り一時間……!? ふざけないでよ、そんな時間で世界が壊されるっていうの!?」
リリアが漆黒の空を見上げ、杖を握る手を白くする。
ガルドも、ミラも、セレナも、かつてない絶望のプレッシャーに息を呑んでいた。
だが、私は手帳を素早く開き、腕時計の秒針を冷静に確認した。
「……一時間(三千六百秒)ですか。十分すぎます。我々の処理能力をもってすれば、余裕で定時退社が可能なタイムスケジュールですね」
私の平坦で、しかし揺るぎない声に、仲間たちがハッと顔を上げる。
「ねづっち……」
「皆さんが不安に思う必要はありません。システムが初期化される前に、我々が管理者の権限を奪い返し、プロセスを強制終了させればいいだけのことです」
私は振り返り、広場に展開する数万の大規模同盟軍を見渡した。
本来であれば、神の領域である無心の塔への突入は、我々五人の勇者パーティー(エリート・プロセス)だけで行うべきタスクだ。しかし、塔の周囲には、すでに魔神が防衛機能として生成した無数の「虚無の怪物」たちが、黒い霧の中から無限に湧き出し始めていた。
「同盟軍の皆さん、聞いてください!」
私は【拡声の祈り】を通じて、全軍に指示を飛ばした。
「これより、我々五人は塔の最深部、メインサーバーへ物理アクセスを敢行します。しかし、魔神が放つ無数のバグを我々だけで処理していては、一時間のタイムリミットに間に合いません。……あなた方全員を、我々の『外部演算装置』として接続します!」
反乱軍の兵士たちが、一斉に武器を構え直す。
彼らの瞳に、恐怖はなかった。先ほどの会戦で完璧な「秩序」を体験した彼らは、私の指揮下にある限り、絶対に崩壊しないという確信を持っていたからだ。
「全軍、塔の周囲に多重の円陣を展開! あなた方のタスクは、塔から溢れ出る怪物たちを広場に封じ込め、我々の突入ルートを完全にクリア(確保)することです。一人も死ぬ必要はありません。防衛と遅滞戦闘のみにリソースを全振りしてください!」
「「「「うおおおおおおっ!! ねづっち総司令官に続け!!」」」」
数万の怒号が響き渡り、完璧な連携で怪物たちの群れを押し留める。
巨大な防波堤の完成だ。
「さあ、見事なバックアップが整いました。行きますよ、皆さん!」
私は先頭に立ち、無心の塔の入り口——空間が歪み、ポッカリと開いたノイズの穴へと飛び込んだ。
塔の内部は、物理法則が完全に破綻していた。
重力の方向はデタラメで、廊下は螺旋状にねじれ、進んでも進んでも元の場所に戻ってくるような「無限ループ」の空間が広がっている。
「にゃはっ、なんだこれ! 上が下で、右が左? 目が回るよぉ!」
天井を歩かされそうになったミラが、ワイヤーを壁に打ち込んでなんとか体勢を維持する。
「……空間が深刻なフラグメンテーション(断片化)を起こしていますね。魔神が外部からの侵入を遅延させるため、内部の座標データをわざと散らかしているのです。古典的ですが、極めて厄介な遅延トラップだ」
「ねづっち、どうするの!? これじゃ上に登るどころか、まともに歩くことすら……っ!」
リリアの悲鳴に近い声に、私は首を横に振った。
「焦る必要はありません。迷路が複雑なのであれば、迷路という前提そのものを『整理』すればいい」
私は眼鏡のブリッジを押し上げ、乱高下する空間のど真ん中に立った。
己の心で完璧に制御された感情の熱量が、圧倒的な魔力となって両腕に収束していく。
「固有スキル、【整える力】Ver2.0(バージョン・ツー)。
対象:無心の塔内部の全空間座標。
実行コマンド:『完全な直線化』。不要なループ処理、ねじれ、重力の乱れを全て修正します!!」
私の両手から、太陽のような眩いブルーの閃光が放たれた。
光は塔の内部を爆発的な速度で駆け巡り、空間そのものを再構築していく。
ギギギギギッ! という世界が軋むような轟音と共に、ねじれ曲がっていた回廊が真っ直ぐに伸び、逆転していた重力がカチリと正しい位置に固定された。
数秒後。
私たちの目の前には、塔の最上階へと一直線に続く、巨大で広大な大階段が形成されていた。
「嘘でしょ……ダンジョンの構造そのものを、一本道に変えちゃったの!?」
リリアが目を丸くして驚愕する。
「障害物の排除完了です。最短距離が開通しました。駆け上がりますよ!」
「おうっ! これなら迷う心配はねえな! 俺の背中についてきな!」
ガルドが大剣を構え、先頭に立って巨大な階段を駆け上がる。
しかし、魔神の防衛システムも黙ってはいない。
一本道となった階段の上方から、塔の防衛プログラムである「虚無の騎士」たちが、巨大な盾と槍を構えて雪崩のように押し寄せてきた。
「敵の迎撃部隊です。数はおよそ五百。……ですが、この一本道では数の有利は活かせません!」
「任せなさいな! まとめて吹き飛ばしてあげる!」
リリアが杖を高く掲げる。
「【灼熱の暴風】!!」
狭い空間を一直線に駆け下りる炎の竜巻が、前列の騎士たちを瞬時に炭化させる。
「にゃははっ、陣形が崩れたね! お掃除の時間だよ!」
ミラが壁を蹴って跳躍し、炎を逃れた騎士たちの死角へ潜り込む。彼女の指先から放たれた無数のワイヤーが、騎士たちの首や関節の隙間(脆弱性)に正確に絡みつき、次々とシステムダウンさせていく。
「……敵の攻撃力が高すぎます。前衛のガルドの負担(負荷)が限界を超えそう……っ」
後方で状況をモニタリングしていた私が警告を発するより早く、セレナが動いた。
「問題ありません! 【大いなる加護の祈り(オーバー・ヒール)】!!」
セレナから放たれた黄金の光が、ガルドの体を包み込む。彼が受けた傷が、コンマ一秒の遅延もなく瞬時に塞がっていく。
「へへっ、ありがてえ! セレナの回復があれば、俺の耐久力は無限大だぜ!!」
ガルドの豪快な大剣のフルスイングが、巨大な騎士たちを次々とスクラップに変えていく。
完璧な役割分担。
前衛が敵を引きつけ、遊撃がシステムを崩し、後衛が回復と殲滅を担う。そして私が、彼らの出力とタイミングをコンマ一秒の狂いもなく「整える」。
五人の能力が完全に同期した最強のパーティーは、魔神の防衛プログラムを紙切れのように蹴散らしながら、恐るべき速度で塔を上昇していった。
『フォーマット完了まで、残り三十分。プロセス進行度、五〇パーセント』
無機質なアナウンスが響く中、私たちはついに、塔の最上階……「ルート・ディレクトリ」の手前へと到達した。
広大な踊り場の先にあるのは、見上げるほど巨大な、漆黒の扉。
そこから漏れ出すプレッシャーは、これまでの敵とは次元が違う。扉の向こう側に、世界中の人間の心から奪った感情を貪り食う、最悪のメインサーバーが鎮座しているのだ。
「……着いたわね」
リリアが杖を強く握り直し、深呼吸をする。
ガルドは剣の血糊を払い、ミラは新しい毒針をセットし、セレナは静かに祈りを捧げた。
「皆さんのステータスを確認。魔力残量七〇パーセント。体力八〇パーセント。……この短時間での強行突破を考えれば、奇跡的な数値を維持しています」
私は手帳を閉じ、仲間たちを振り返った。
「下層で戦ってくれている同盟軍の通信も、未だ健在です。彼らも一歩も退かずに、我々の背中を守り抜いてくれています」
私は、これまでの非効率で遠回りだった旅路を思い返した。
仲間を失い、一人で彷徨い、己の心というバグに苦しめられた日々。だが、そのすべての過程があったからこそ、私たちは今、この完璧な状態で最終局面に立つことができた。
「……ねづっち」
リリアが一歩前に歩み出て、私の顔を真っ直ぐに見つめた。
「あなたに出会えて、本当によかった。最初は、変な言葉ばっかり使う変人だと思ってたけど……あなたは間違いなく、私たちにとって最高のリーダーよ」
「……同意だぜ、旦那。あんたがいなきゃ、俺たちはとっくにスクラップになってた」
ガルドがニカッと笑う。
「にゃはっ、リーダーの隣が一番安心するしね!」
「ねづっち様の整えてくださったこの世界……私たちが、必ず守り抜きます」
仲間たちの言葉が、温かい感情の波となって私の胸を満たしていく。
私は眼鏡の奥で、小さく、しかし確かな笑顔を浮かべた。
「ええ。私も、あなた方という『最高の変数値』に出会えたことに、深く感謝しています。……さあ、感傷的なログの出力はここまでです。最終タスクに移行しましょう」
私は真っ直ぐに、漆黒の巨大な扉に向き直った。
「魔神ハートレス。世界を初期化しようとする、最悪のウイルス。……我々が、貴様のシステムに完璧な『終了』を叩き込んでやります」
私は両手を扉に押し当てた。
「固有スキル、【整える力】——アクセス、実行!!」
圧倒的な光と共に、最終決戦の扉が、今、重々しい音を立てて開け放たれた。




