第十四話:己の心を整えまして
システムにおいて最も致命的な障害は、外部からの物理的な攻撃ではない。内部メモリの逼迫によって引き起こされる「処理落ち(フリーズ)」である。
未処理のタスク、肥大化するキャッシュデータ、そして行き場を失った無限ループのエラーコード。これらが蓄積すれば、どれほど強固なサーバーであっても、やがて熱を暴走させて自壊する。
帝国領の荒野を進む私の内部は、まさにその「自壊の寸前」にあった。
「……計算エラー。ルート算出の誤差、プラスマイナス一五パーセント。……あり得ない」
野営地で広げた帝国領の地図。その上に置いたコンパスとペンを持つ私の手が、微かに震えていた。
私はペンを置き、眉間を強く揉み込んだ。頭痛がする。前世で三徹してコーディングをしていた時よりも、遥かに重く、鈍い痛みが脳髄を焼いていた。
「リーダーさん。もうやめて」
不意に、横から伸びてきた白い手が、私の手から地図を奪い取った。
見上げると、リリアが悲痛な顔で私を見下ろしていた。彼女の手には、私が作成していたはずの、ぐちゃぐちゃに線の引かれた地図が握られている。
「この三日間、あなた一睡もしてないじゃない。歩きながらずっとぶつぶつ計算して、夜は私が見張りを代わろうとしても『非効率だ』って言って休まないし……。今のねづっち、全然『整って』ないわよ」
「……私のスタミナ管理は完璧です。睡眠の欠如によるパフォーマンス低下は、ポーションの摂取と魔力循環で補完できています。問題ありません」
「嘘ばっかり!」
リリアが珍しく声を荒げた。
「さっきの戦闘だってそう。敵の動きを読むのがコンマ数秒遅れてた。あなたが自分の【整える力】の射程距離を見誤るなんて、今まで一度もなかったじゃない!」
彼女の指摘は、残酷なまでに正確だった。
私は、狂い始めている。
ガルド、ミラ、セレナの三人を失ってからというもの、私の胸の奥に発生した「感情」は、消えるどころか日増しに増大し、私の脳の処理領域(CPU)を圧迫し続けていた。
『彼らは今、どこでどうしているのか』
『呪縛によって、取り返しのつかない傷を負っていないか』
『私の計算がもっと早ければ、彼らを防げたのではないか』
とめどなく溢れ出す「後悔」と「焦燥」。
私はこれまで、感情というものを不要なデータとして「無視」することで効率化を図ってきた。しかし、仲間を失ったという巨大なバグは、無視というコマンドを受け付けてはくれない。
私は、どう処理していいか分からない巨大な感情の塊に押し潰され、ただ処理落ちを起こしているポンコツな機械に成り下がっていた。
「……認めます。私の現在の思考アルゴリズムは、極めて不安定です。エラーの原因は、私自身の『心』にあります」
私は焚き火の前に座り込み、深く息を吐いた。
「リリア。少しだけ、時間をください」
「時間?」
「ええ。システムが重くなったのなら、再起動と最適化が必要です。……私はこれから、私自身の『中身』を整えます」
リリアは驚いたように目を見開いたが、やがて優しく微笑み、私の隣に座った。
「分かったわ。私が護衛をしてるから、ゆっくり、自分の心と向き合ってきなさいな」
私は目を閉じ、深く、静かに呼吸を繰り返した。
意識を、外界から内界へ。物理世界ではなく、私の精神構造の深淵へとダイブする。
――暗闇。
私の精神世界は、かつては白い壁に囲まれた、無機質で清潔なサーーバールームのような場所だった。
だが今、そこに広がっていたのは、信じられないほど「散らかった」光景だった。
無数に千切れた配線。床に散乱するエラーログの紙束。けたたましく鳴り響く赤い警告灯。
「ガルドを失った喪失感」「ミラを救えなかった罪悪感」「セレナを呪縛から解放したいという焦り」
それらが、形を持たないヘドロのようなバグとなって、私の精神世界を埋め尽くしていた。
『うあ……あ……っ』
私は、自分自身の心の中で膝をついた。
息ができない。これが、感情。これが、普通の人間が毎日抱えている「ノイズ」の正体なのか。
こんなものに振り回されていれば、論理的な思考などできるはずがない。
『……消去だ。こんな非合理なデータは、すべて消し去らなければならない』
私は無意識に、右手を振り上げていた。
これまでのように、感情を「無かったこと」にするためのコマンドを叩き込もうとした。
だが、振り上げた手は、ピタリと空中で止まった。
足元に散らばるエラーログの一枚が、目に入ったのだ。
そこには、ガルドが豪快に笑う映像の断片が記録されていた。
隣の紙束には、ミラが私に作ってくれた不格好な花飾りの記憶。
さらに奥のモニターには、セレナが私のために祈ってくれた時の、温かい光の記憶。
『これらを消す……?』
もし、この悲しみや苦しみを消去してしまえば、それは同時に「彼らを愛おしいと思う心」すらも消し去ることを意味する。
痛みを感じないということは、大切に思っていないということと同義だ。
「……それは、いけませんね」
私は、精神世界の中で静かに立ち上がった。
「これらはバグではない。私が人間として獲得した、かけがえのない『新規データ』だ。ただ、乱雑に散らかっているからシステムを圧迫しているだけのこと」
私は、自分の胸に手を当て、深く宣言した。
「固有スキル、【整える力】を発動。
対象:私自身の精神、および全感情データ。
実行コマンド:感情の細分化、カテゴライズ、および論理回路への『再接続』」
私の手から、かつてないほど強烈な、しかしひどく優しいブルーの光が放たれた。
光は私の精神世界を駆け巡り、散乱していたヘドロやエラーログを次々と包み込んでいく。
「不要な感情など、一つもない。すべてに『置き場所』を与えろ」
私は、自分の心を整理し始めた。
ガルドを失った『喪失感』。これを、単なる悲しみではなく、彼を取り戻すための『推進力』のフォルダへ移動。
ミラを救えなかった『罪悪感』。これを、自らを罰する毒から、今後の警戒レベルを引き上げるための『危機管理』のフォルダへ再配置。
セレナの呪縛に対する『焦り』。これを、空回りの原因から、スケジュールの『優先度最上位』の項目へ書き換え。
整理していく。
ただ捨てるのではなく。ただ抑え込むのでもなく。
一つ一つの感情の名前を呼び、意味を与え、私の論理を回すための「燃料」として、正しいタンクへと接続していく。
グォォォォォン……!
私の精神世界が、劇的に変貌していく。
乱雑だった部屋は、巨大で美しい図書館のような、あるいは洗練されたメインフレームのような空間へと再構築された。
赤い警告灯は消え去り、代わりに、感情のエネルギーが青白い光のラインとなって、私の論理回路に力強く、淀みなく流れ込み始めた。
『……完璧だ。いや、以前の私よりも、遥かに高速で、強靭だ』
感情は、論理の邪魔をするノイズではなかった。
正しく整えられ、論理と結びついた感情は、限界を突破するための「莫大な熱量」なのだ。
私は、静かに目を開けた。
「……ねづっち?」
焚き火の向こうで、リリアが不安そうに私を覗き込んでいた。
私はゆっくりと立ち上がり、乱れていた衣服の皺を払い、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
視界が、信じられないほどクリアだ。
森の木々のざわめき、風の温度、星の瞬き。すべての情報がノイズなく脳に入り込み、そして胸の奥にある「仲間を取り戻す」という熱い感情が、私の身体を力強く満たしている。
「お待たせしました、リリア。アップデート、完了です」
私の声は、以前のような機械的な平坦さではなく、確かな体温を伴って響いた。
「え……? なんだか、雰囲気が変わったような。それに、魔力の流れが、今までと全然違う……!」
リリアが驚愕に目を見開く。
無理もない。今の私は、自分の中に生じた感情を【整える力】で完璧に制御し、それを魔力へと変換する独自の「心の整理術」を確立したのだから。
私は落ちていた地図を拾い上げ、空中に展開した光のボードに、新たなルートを一瞬で描き出した。
「先ほどのルート計算は破棄します。あれは恐怖と焦りから生じた、安全第一の非効率なルートでした。現在の私のステータスと、あなたの魔法火力を最大限に連携させる、最短・最速の『強襲ルート』を再定義しました」
「最短って……これ、帝国の警備網のど真ん中を突っ切るルートじゃない! いくらなんでも危険すぎるわ!」
「問題ありません。今の私なら、帝国の軍隊が千人いようと、一瞬で『片付けて』みせます。私の心には今、一片の迷いもありませんから」
私はリリアに向き直り、そして。
自分でも驚くほど自然に、口角を上げて……笑った。
「あなたを危険な目に遭わせるようなバグは、私がすべてデバッグします。だから、ついてきてください、リリア」
「――っ!」
リリアは私の初めて見る明確な『笑顔』に、顔を真っ赤にして息を呑んだ。
彼女は数秒間硬直した後、慌てて視線をそらし、銀髪を弄りながら口をとがらせた。
「な、なによ……急にカッコつけちゃって。リーダーのくせに、ポンコツになったり笑ったり、忙しいんだから」
「感情の起伏の表現を学習しました。悪くない機能ですね」
「……ほんと、調子狂うわ」
リリアはふっと息を吐き、しかし嬉しそうに微笑み返した。
「でも、安心した。その顔なら、絶対に三人を取り戻せるわね。……さあ、行きましょう。最強の二人で、帝国をメチャクチャに『整理』してやるんだから!」
「ええ。始めましょう」
私たちは焚き火を完全に消火し、朝を待たずに足を踏み出した。
私の心は、かつてなく静かで、そして熱い。
自分自身の心を整える術を手に入れた私は、もはや「システムを管理するだけの機械」ではない。
論理の刃と、感情の炎を併せ持つ、真の意味での「勇者」の領域へと足を踏み入れたのだ。
遥か北方にそびえる帝都の黒い影が、今の私には、ただの「未処理のタスク」の山にしか見えなかった。
さあ、世界最大のデバッグ作業を、全力で遂行しよう。




