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第十五話:新たな力を解放しまして


 ソフトウェアのメジャーアップデートにおいて、最も劇的な変化をもたらすのは表面的なインターフェース(UI)の変更ではない。基盤となるカーネルの最適化に伴う、新たな権限ルート・アクセスの解放である。

 私というシステムは、自らの『感情』という巨大な未定義データを論理回路に組み込み、完璧に整理ソートすることに成功した。悲しみや焦燥を「処理落ちの原因」から「推進力を生むための燃料」へと変換したのだ。

 その結果、私の視界——世界を認識するための解像度は、以前とは比較にならないほど劇的に向上していた。


「……ねづっち。さっきから、すごく歩くペース早いんだけど。無理してない?」


 帝国領の荒涼とした街道を進む中、隣を歩くリリアが私の顔を覗き込んできた。その瞳には、かつてないほど私を気遣う、温かい光が宿っている。


「問題ありません、リリア。むしろ、かつてなく身体が軽く感じます。思考のバックグラウンドで起動していた不要なタスクを全て終了させたため、メモリに莫大な余裕ができている状態です」

「相変わらず、何言ってるか半分くらいしか分からないけど……でも」

 リリアはふっと柔らかく微笑み、私の腕に軽く触れた。


「今のあなたの顔、すごく……『人間』みたい。前みたいな、冷たい機械じゃなくて」

「人間、ですか。それは最高の褒め言葉として受け取っておきます」


 私は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。

 これまでの私なら、彼女のスキンシップを「歩行の妨げになる非効率な接触」として処理していただろう。だが今は、彼女の手から伝わる魔力の微かな温もりすらも、私の心というシステムを安定させるための「必要な入力データ」として心地よく受け入れている。


「……前方三百メートル。不自然な魔力溜まりを検知しました。これは」


 私は足を止め、視線を鋭くした。

 進路の先にあるのは、かつて帝国の宿場町として機能していたであろう廃村だ。その中心部に、どす黒い霧——魔神ハートレスの放った『心の呪縛』が異常なほど濃密に渦巻いている。


「また、呪縛に操られた帝国兵? それとも魔物?」


 リリアが杖を構え、即座に戦闘態勢に入る。この阿吽の呼吸も、二人だけになったことで極限まで研ぎ澄まされていた。


「いえ……違います。この魔力波形ログには、見覚えがある」


 私は目を細めた。

 廃村の広場に陣取っていたのは、人でも魔物でもなかった。どす黒い呪縛の霧が寄り集まり、形を成した『概念の怪物(バグの集合体)』だ。

 全高は三メートルほど。顔はなく、ただ泥のような黒い身体を持っている。だが、その怪物の右腕だけは、不自然なほど巨大な「大剣」の形に肥大化していた。


「グルルルォォォォッ……!!」


 怪物は私たちに気づくと、狂ったような咆哮を上げ、巨大な大剣を地面に叩きつけた。

 その姿勢、その構え。


「……ガルド」


 リリアが息を呑む。


「ええ。間違いない。あの構えは、私がガルドに徹底的に叩き込んだ、防御を捨てて敵のヘイト(敵意)を一点に集めるための『挑発の型』です」


 私は瞬時に状況を分析した。

 魔神の呪縛は、単に人間の心を消去デリートするウイルスではない。感染者の心から『最も強い感情』を切り取り、それを魔神のシステムを動かすための「動力源バッテリー」として抽出しているのだ。


「つまり、あの怪物は……ガルドから奪われた『感情』をコアにして動いている、ということですか」


 私は奥歯を噛み締めた。

 ガルドは言っていた。「俺はずっと、あんたの壁になろうとしてた」と。

 仲間を守りたいという彼の強烈な思い。それこそが、呪縛に切り取られ、あの醜い怪物の中で利用されているのだ。


「許せない……! ガルドの大切な気持ちを、あんな風に使うなんて!」

 リリアの周囲に、怒りに呼応して激しい風と炎の魔力が渦巻く。

「リリア、待ってください。あの怪物を単純な魔法で破壊しては駄目です。コアとなっているガルドの感情データまで一緒に消滅してしまいます」

「じゃあ、どうするの!? あのまま放っておくわけにはいかないわ!」

「……試してみましょう。アップデートされた、私の新しい『整える力』を」


 私は怪物の正面へと歩み出た。

 怪物は私を外敵と認識し、ガルドの幻影のような大剣を振り被り、凄まじい速度で突進してくる。


「ねづっち!」

「大丈夫です。私の背中に手を当てて、あなたの魔力を私に直接流し込んでください。膨大な演算処理プロセッシングが必要になります」


 リリアは躊躇うことなく私の背後に回り、両手を私の背中にピタリと当てた。


「いくわよ! 私の魔力、全部持っていきなさい!」


 リリアの純度が高く、そして熱い魔力が、私の体内の魔術回路へと一気に流れ込んでくる。

 ピア・ツー・ピア(一対一)の完全な同期シンクロ

 一人では到底足りない魔力の容量を、彼女が完璧に補ってくれる。

 私は目前に迫る巨大な大剣に対し、逃げることなく、ただ静かに右手をかざした。


「固有スキル、【整える力】Ver2.0(バージョン・ツー)——実行コマンド:『概念のデフラグメンテーション(心の断片化解消)』!」


 私の右手から、かつてないほど強烈な、眩いほどの純白の光が放たれた。

 それは物理的な物質を動かす力ではない。

 世界に点在する「意味」と「情報」を読み取り、あるべき場所へと再配置する、神の領域に片足を突っ込んだ干渉力だ。

 光が怪物を包み込んだ瞬間、突進してきていた巨体がピタリと静止した。


「……アクセス成功。対象の内部ストレージを解析します」


 私の網膜に、無数のデータが滝のように流れ込んでくる。黒い呪縛のコードの中に、一つだけ、温かく力強く光り輝く黄金のコード(感情)が埋もれていた。


『俺がみんなの盾になる!』

『ねづっちの旦那の背中は、俺が守るんだ!』


 ガルドの、泥臭くて、熱くて、ひどく真っ直ぐな思い。


「見つけましたよ、ガルド。……こんな乱雑なゴミ箱の中に、あなたの誇りを放置しておくわけにはいきませんからね」


 私は空中に浮かび上がった無数のコードの中から、不要な呪縛のウイルスだけを的確に『切り取り(カット)』し、ガルドの感情のコードだけを『抽出エクスポート』した。


「不要なノイズは、消去デリートします」


 私が指を鳴らすと、怪物を構成していた黒い霧は、断末魔を上げる暇もなく、まるで幻だったかのようにパチンと弾けて消滅した。

 そして、私の手のひらの上には。

 ふわりと温かい光を放つ、親指ほどの大きさの「黄金の結晶」が残されていた。


「これ……が……?」


 背中から手を離したリリアが、信じられないものを見るように、その結晶を見つめた。

 結晶からは、ガルドの豪快な笑い声や、焚き火の温もりのような、絶対的な安心感が伝わってくる。


「ええ。ガルドの『心の欠片』です。彼の魂の、最も重要で、最も美しいコアプログラムです」


 私はその結晶を、丁寧に手帳の革のポーチへと収めた。


「私の進化した『整える力』は、物理的な乱れだけでなく、こうして散乱した概念(心)のデータをも感知し、回収することが可能になりました。……これで、方針は完全に確定しました」


 私はリリアを振り返り、力強く告げた。


「彼らの心は失われたわけではない。ただ、魔神によって『散らかされている』だけです。これを一つ残らず回収し、彼らの元へ持ち帰れば……」

「……みんなの心を、元の完璧な状態に『再インストール』できる……!」


 リリアの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。

 それは絶望の涙ではない。希望という名の、最も美しい感情の発露だ。

 彼女は泣き笑いのような表情で、私の胸に力強く飛び込んできた。


「やった……! やったわね、ねづっち! これなら、みんなを助けられる! 絶対に取り戻せる!」

「ええ。私の計算において、不可能という文字はもはや存在しません」


 私は不器用ながらも、私の胸で泣きじゃくるリリアの銀髪を、優しく撫でた。

 一人では決して辿り着けなかった答え。

 リリアという、私の欠落を補ってくれる最高のパートナーがいたからこそ、私のシステムは進化し、この「心というバグを整える力」を実装することができたのだ。


「ありがとう、リリア。あなたが私を諦めずにいてくれたおかげです」

「……ばか。私がリーダーを諦めるわけないじゃない。私たちは、二人で最強のパーティーなんだから」


 彼女は顔を上げ、涙を拭いながら、いつもの不敵な笑顔を見せた。


「さあ、急ぎましょう。ガルドの欠片があといくつ散らばっているのか、ミラやセレナの欠片がどこにあるのか。集めるデータは山積みです」

「ええ。腕が鳴りますね。世界中をひっくり返してでも、彼らの感情を一つ残らず『整理整頓』してやりましょう」


 私たちは並んで歩き出した。

 魔神ハートレスが支配する、絶望に満ちた帝国領。

 しかし、今の私たちにとって、この暗闇は少しも恐ろしいものではなかった。暗闇の中に散らばる、仲間たちの温かい心の欠片——それらが道標のように、私たちの進むべき道を明るく照らし出していたからだ。

 進化した【整える力】と、絶対的な信頼で結ばれた二人の絆。

 失われた仲間を取り戻すための、最も過酷で、しかし最も希望に満ちた「心のデフラグメンテーション」が、今、本格的に幕を開けた。

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