75、空へと帰っていくもの
「リルル、大丈夫か?」
頬に手を当てるティンクの手が冷たくて心地よかった。
「ここは?」
「私の部屋だ。食事会がお開きになったから、私の部屋に休憩に来たのだ。」
リルルは瞳をとろんとさせて、ソファアに座っていた。
お茶の支度をし終えた侍女と執事が入り口のドアに象の置物を指し込んで、少しドアを開けたままの状態にして部屋を出ていったのは覚えている。その後が怪しかった。
「あんな程度の酒で酔ったのか?」
呆れたように言うティンクに、リルルは、お酒とは無縁な暮らしをしているんです、と思った。
風味付けのアルコールは耐性があっても、あんなに濃厚なブランデーフルーツケーキは食べたりはしないわ。食べたとしても一口だろう。このうちの食事は多い気がするもの。男の子ばかりの兄弟だと、自然にそうなってしまうのかもしれないな、とも思う。
「ティンク、あのね、」
「なんだ?」
「クリスマスだから、プレゼントに、一緒にいようと思ったの。」
「うん。」
放課後にそんな話をしていたな、とティンクは思った。
おもむろに立ち上がったリルルは、ふらつきながらティンクの前に立った。背中に手を伸ばして、かぎ爪のようなドレスのホックに手をかける。
「こんなの着ていたら、リルルじゃないみたいだよね?」
制服姿の私や、小姓姿の私が、ティンクといる時の私だよね。着飾って、澄ました顔をしているのは、私に見えないよね。
ティンクは黙って、リルルの前に立ち、リルルが何をするのかを見ていた。ドレスのボタンをようやく外したリルルの足元に、ドレスが落ちた。
下着姿になったリルルは、ひょいとドレスから足を抜くと、ティンクの前に立った。
「こんなの着てたら、私が私に見えないよね。ね、よくわかんないでしょう? ねえ、ティンク、私はティンクが好きよ。いつも感謝してるわ。感謝をどう表したらいいのかわからないけど、今はあなたを抱きしめたい気分なの、」
甘えるようなリルルに、ティンクは頬を染めて、「ああ、」と答えるので精いっぱいだった。上擦った声に気がついて、自分でも恥ずかしく思った。
抱きしめたリルルが、薄着だからかいつもよりも肉感的で、ティンクは次第に、このまま一つになりたいと思えてきた。
ティンクに抱きしめられるのは、マックスに抱きしめられるのとはまた違って、とても愛おしく感じるのはどうしてなんだろう。リルルはそう思いながら、ティンクの背中に腕を回した。
いつもバーカとしか言わないのに。
いつも酷いことしか言わないのに。
ティンクなら許せてしまうのは、どうしてなんだろう。
顔が綺麗だから? 付き合いが長いから? 私のことを好きだと言ってくれるから?
リルルは考えているうちに、暖かくて眠たくなってきた。
ティンクが抱きしめてくれると嬉しい。ティンクがキスしてくれると、嬉しい。
今は、ティンクだけが、私の恋人だわ…。
片手で上着を脱いでネクタイを外して、ポイっとソファアにかけると、ティンクはリルルを抱きかかえた。うっとりとティンクを見つめるリルルは、少し頬が赤かった。
見つめながら歩いて自分の寝室に連れて行き、ベッドの上に降ろした。
「リルル…、」
頬を撫でてリルルの瞳を覗き込むと、部屋の様子を把握していたリルルと視線が合って、二人はゆっくりとキスをしていた。
「ティンク…。」
他の誰かとは違う、ティンクは他の誰でもない。
はじめてのことをする時はいつも一緒にいてくれた。
リルルは手を伸ばして、ティンクの頬を撫でた。
リルルが自分の腕の中にいる。ティンクは抱きつぶさないようにリルルを優しく抱きしめた。
夢の中で感じるよりも、柔らかくて、甘い、果物のような、果樹園のような香りがした。
耳や首筋に優しくキスをしていると、やがて、リルルの寝息が聞こえ始めた。
「リルル?」
こんな展開でまさか、本当に寝るのか?
ティンクは絶句して、リルルの寝顔を見つめていた。やがて、リルルらしいなと思い直した。
目の前に眠り姫がいる。
想像の世界で知るリルルとは違う、本物が眠っている。
そっと、下着に手を伸ばしかけて、ティンクはリルルの顔を見つめた。
この子は自分の婚約者で、でも、きっと自分とは違う誰かを選んで結婚してしまう人だ。本当は触れてはいけない人だ。
好きなのに。
愛しているのに。
目の前のリルルを、すべてを自分のものにしたいのに。
ティンクにはできなかった。
「可愛いリルル…、」
純潔を奪うと、リルルは悲しむだろう。
信頼も失うだろう。
苦しくて悲しくて、愛おしくて、ティンクは眠るリルルに毛布をかけると、寝室を出た。床の上のドレスに皺が寄らないように伸ばして、ハンガーにかけた。せめて眠りの邪魔をしないように、隣の部屋で本を読んで静かに時が満ちるのを待った。
本を広げてみても、ティンクの心はうわの空だった。
※ ※ ※
リルルが目を覚ますと、見慣れないベッドに首を傾げた。上質のリネンに手触りの良い毛布…。自分が下着姿なのも不思議だった。
記憶を遡って、ここがオルフェス侯爵の屋敷だと思い出す。
時計を見れば王城から迎えが来る約束の時間に近くて、慌ててベッドを降りた。
部屋を出て隣の部屋へ行くと、ソファアに座るティンクの横顔が見えた。
「ティンク、私、もう帰らなくちゃ。」
「ああ、起きたのか。そうだな、リルル。」
膝の上の広げた本から視線を逸らさずに答えたティンクに、リルルは少し戸惑った。
「どうかした?」
その恰好でどうかした、はないだろう。視線を逸らしたままティンクはイラっとしたけれど、改めて下着姿のリルルを見て、ちょっと悪戯心を起こした。
「リルル、ごちそうさま。」
「何が?」
「美味しくいただいた。」
「は?」
いただくって、私、そういうことをしちゃったの?
覚えてないけど、ティンクに絡んだ気だけはするわ。
耳まで真っ赤になって体を抱きしめてしゃがみ込んだリルルに、ティンクは留飲を下げた。
「冗談だ。何もしていない。そういうのは私の主義に反する。」
「そ、そう。ごめんね。きっと酔っぱらって寝ちゃったのね。」
下着姿の自分が何を考えていたのかなんて、リルルはちっとも記憶になかった。
「そういうことにしておこう。よく眠れたか?」
「うん…。」
ティンクを上目遣いに見つめると、リルルはハンガーにかけてあったドレスを手に取って、着替え始めた。
「背中、留めてくれてもいい?」
「ああ、じっとしてろ。」
背を向けたリルルを前に立たせ、座ったままティンクはかぎ爪のようなホックを丁寧に一つ一つ止め始めた。
「何もしなかったお礼が欲しいな。」
「何もしなかったお礼?」
「ああ、リルルには、何もしなかったお礼。」
何かをしていたら、そんなことを言わないだろうから、そうした方がいいのかな。
背を向けたまま、リルルは首を傾げて空中を見つめた。ティンクにクリスマスに何かしてあげたかった気持ちは思い出して、私は何もしてあげなかったんだろうなと気が付いた。
「じゃあ…、ちょっとそこに座って。目を瞑って?」
ソファアに深く座って瞳を閉じたティンクの膝の間に横向けに座って、リルルはティンクの首を抱きしめた。耳に口を近付けて、「愛している、」と囁いた。
うっすらと瞳を開けて、ティンクはじっとリルルを見つめた。
軽い気持ちで言う愛してるなんておはようと言うのと同じで、意味なんてあってないようなものなんだろうなとティンクは思った。
リルルの言う『愛している』は、自分の欲しい『愛している』という言葉とは違う気がする。
「リルル、愛していても、結婚はしないだろう? なら、愛しているとは、表現が正確ではないな。」
細かいわね〜。リルルは口を尖らせた。さらっとティンクがとんでもないことを口走ったとは、気が付いてもいない。
「んー、じゃあ、ティンクが好きよ? ならいい?」
いいも悪いもないだろう? ティンクはじーっとリルルを見つめて、「リルル、それはお礼とは言わないぞ、」と呟いた。
「お礼は、キスでもいい?」
ほっぺにチューって、『あり』なのかな。
「じゃあ、キスを。」
キスをしても嬉しくなさそうなのはどうしてなんだろう。リルルはティンクの頬にキスをして、表情を読んで、不満に思った。
キスって嬉しくないのかな。嬉しいと思わせるほどキスしたら、笑ってくれるかな。
チュッチュと音を立てて顔中にキスをしていると、ティンクは次第に嫌そうな顔になってきた。
リルルがくすくす笑いながら、それでもしつこく嫌そうな顔のティンクにチュッチュとキスをしていると、ドアがノックされた。
「お迎えがいらっしゃいました、リルル様。ティンカード、入るぞ、」
ドアを開けて入って来たのは、オルフェス侯爵で、リルルがティンクの首を抱きしめて頬にキスをしているところを、しっかりと見られてしまった。
「父上、返事を聞いてから入ってください。」
照れているのか怒ったように、ティンクがぶっきらぼうに言った。
「すまなかった。リルル様、ティンカードは何か悪さをいたしましたかな?」
「いいえ、とっても紳士的でした。なので、お礼をしていたところですの。」
すくっと立ち上がって、リルルは服の乱れを直し、ティンクに「またね?」と微笑みかけた。
「送ろうか?」
「そうね、そうして貰おうかな?」
「私も同行した方がよろしいですかな?」
「大丈夫です。オルフェス侯爵。ティンクはいつでもとっても紳士的ですから。」
「そうですか。それは誉め言葉と受け取ってよろしいのですかな?」
リルルはティンクと顔を見合わせた。
「ええ。」
リルルをエスコートして部屋を出たティンクと一緒に、結局、何か話したい様子のオルフェス侯爵もついてきた。3人で話しながら玄関のホールまで向かった。
「この冬休みは、グロケット公爵領へと行かれるそうですな。」
「ええ、公務が重なっておりますの。遠く東方の国の王子が入国されるので、そのおもてなしを兼ねております。」
「ほう…。おもてなしねえ。」
オルフェス侯爵の瞳が鋭く光った。
「王城では過ごされないのですかな?」
「そうしたいのも山々ですが、公務なので。」
まさかシャークス公爵の遺品の楽器を高く売るための努力なのだとは、リルルには言えなかった。姉や父に時間を売り飛ばされたのだとも言えない。
「オルフェス侯爵はどちらに?」
「私は領地へ帰る予定ですが、王都に残るかもしれません。領都にはウィラートがおりますからな。ティンカードは年明けに試験もありますし、お城での仕事を優先して帰らないようですな。」
侯爵はティンクをじろりと睨む。
「例年なら、向こうで領民たちと新年の祝祭を行うのです。」
「花火大会もあるのですか?」
「私の領地はそういったことはやりません。12月31日から1月1日の夜に向けて、紙気球を打ち上げるのです。」
「紙気球ですか?」
「新しい年の運気が上がっていくように、これくらいの紙製の気球に願いを書いて蝋燭を乗せて、海に浮かべた小舟から、思い思いに空へと打ち上げるんです。」
「素敵ですね…。」
リルルはティンクの夢の世界で見た景色が夜になり、海に浮かんだ小舟からたくさんの気球が空へと昇る想像をした。
「美しいでしょうね。」
「ええ、誰もがその明かりが夜空へと昇っていく様子を見ながら、祝杯をあげるのです。」
ティンクをちらりと見ると、視線を逸らした。何か不都合でもあるのかしら。
「もしかして、ティンクはいつも新年は王都にいるのですか?」
「アハハ、バレてしまいましたな。ティンカードは私の領地へ帰るといっても、春か夏が多いですな。冬はあまり一緒に帰ってくれません。」
「まあ、どうして?」
「いいだろ、そんなこと。お迎えの馬車が来ているから、早く行こう、」
ティンクは誤魔化すように言って、リルルを急がせた。
玄関先のホールには、侯爵夫人やウィラート夫妻がリルルを待っていた。お城から来た馬車の馭者や近衛兵もいる。
「リルル様、お迎えに上がりました。」
「ありがとう。皆様、今日は楽しかったです、ありがとうございました。」
リルルがお辞儀すると、ウィラート夫妻が握手をしてくれた。名残惜しそうに、オルフェス侯爵も握手をしてくれる。
「こちらこそ。またいらっしゃってくださいね。」
侯爵夫人はリルルを優しく抱きしめて、「良い記念になりました、」と囁いた。
リルルが馬車に乗り込もうとすると、ティンクがすかさず手を貸してくれた。お礼は、夢ですればいいかな、とリルルは思った。
「またね、ティンク。会いに行くから、待っててね。」
リルルが囁くと、一瞬目を見開いた後、意味を理解したのかティンクは小さく微笑んだ。
※ ※ ※
夢の鍵を使ってティンクの部屋に向かうと、いつもの白い部屋につながって、闇に包まれた暗い外の風景に、リルルは少し心細く思った。
壁際の床に置かれた籐細工の間接照明が、優しく足元を照らしていた。
リルルは部屋を抜けて暗い中庭へ出て、外の木陰に立った。この前の夏にここに来た時、このベンチに二人で並んで座ったことがあったわ。リルルはそんなことを思いながらベンチに腰かけた。
街には家の灯りが漏れていて、港には多くの人の輪郭が見えた。人々の手には灯りがあり、誰もが港から出る船を見送っている。
水平線は夜の闇に溶けていて、湾内に浮かんだ船には煌々と灯りが光の玉のように積まれていた。
「リルル、あれがうちの領の新年の祝祭だ。港町ウェマはこんな感じだ。」
いつの間にか隣に立つティンクは、白いシャツに白いジャケットを羽織って立っていた。自分の姿を振り返れば、今日の昼間着ていたような深緑色のカクテルドレスを着ている。
「私は…、子供の頃に乳母と見た。祖父が亡くなった年に見たのが最後だ。領都だと、川から打ち上げるんだ。」
ティンクは少し俯いて隣に座ると、小さな声で言った。
「紙の気球は魂の乗る器だと、乳母は言った。空に帰っていくように、細い蝋燭が燃え尽きると、紙の気球も燃えてしまう。お亡くなりになったおじいさまもティンカード様のお願いを神様に届けに行かれたのですよ、と教えられた。」
リルルを見つめる瞳はまっすぐで、リルルは胸が締め付けられた。
そっと手をひくと、ティンクはリルルを抱き寄せた。
「私は、祖父がいなくなってしまうのが嫌だった。空に帰っていくことは喜ばしいことなのだろうけれど…、嫌だったんだ。」
空へと帰っていくと、ここにはいなくなってしまう。そう思うのはわがままなのだと思っていても、嫌だったんだ。ティンクは心の中で呟いた。
「だから、新年の祝祭には帰らないのね?」
ティンクはリルルを見つめると、キスをして囁いた。
「本当にそう思うのか?」
「違うの?」
「バーカ、」おでこをくっつけあって、二人は微笑んだ。
海から、開始の合図なのか、狼煙のように細い花火が打ちあがる。
港やあちこちの家々から、歓声が聞こえてくる。
領地に帰ったら、リルルに会えなくなるだろう?
ティンクは、隣りに座り目を輝かせて海を見つめるリルルの横顔を見た。
子供の頃のティンクは往復の時間も考えると、できるだけ王都から離れたくはなかった。
リルルが冬の長期休暇に前女王と旅行し帰国する日に、登城して小姓の仕事をしながら帰ってくるのを楽しみに待っていたなんて、言いたくはなかった。リルルが大勢の大人に囲まれて帰ってくる時に、ちらりとでも見れたらいいなと思っていたなんて、言いたくもなかった。
自分の婚約者が無事でいることがどんなに嬉しいことなのか、今のリルルなら理解できるだろうか。
空に、ひとつ、ふたつ、と、暗闇の中に、海に浮かべた船の上から紙の気球が上り始め、やがて一斉に浮かび上がった。
暗い水面に光を映して、明るい光の玉がいくつもいくつも空へと昇っていく。
「綺麗ね…。」
幻想的な光景に、リルルは目を輝かせて見つめていた。これはティンクの記憶の祝祭。これは、ティンクの領地の祝祭…。
見上げた深い闇色の空の彼方に、暖かな光がやがて溶けて消えていく…。
「いつか、本物を見に行きたいわ。」
それは、誰と? と言いかけて、ティンクは黙った。
「連れて来てくれる?」
リルルの言葉に、目を見開いてティンクはリルルの横顔を見つめた。
「ああ。リルルが望むなら。」
そんな日は来るのだろうかと思っても、ティンクには、そうあってほしいと願わずにはいられなかった。
ありがとうございました。




