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悪役令嬢の歩き方  作者: 高坂千穂
  12月
73/161

73、違いを嗅ぎ分けているもの

「ごめんなさいね、リルル様。お父さまがこんななのは、今に始まったことではないの。隣の領にこっそり買い物に行っても、お父さまが女の人を好きになってしまって諍いを起こすから、すぐにバレてダメになってしまうの。」

 チェニーは恥ずかしそうにリルルに頭を下げた。シェーカーはチェニーの言葉などどこ吹く風で、澄ました顔をしている。

「結婚している女の人を、好きになってしまうのね?」

「ええ。お父さまは誰かの奥さんが好きなの。どうしてなのか、すぐにわかってしまうみたい。」

 リルルは首を傾げた。そういうのって匂いでもあるのかしら。

「そんなことはないぞ。チェニーにとって最良の女性がお母さまで、それがたまたま既婚者なだけだ。」

「ほら、こんな風なの。お父さま、ここでも諍いを起こしたら、調印も破棄されてしまうわ。州には食料を必要としている人が沢山いるのよ? もっと自重して?」


 チェニーの方がまともだったなんて不思議だわとリルルは思った。

 大人だからまともなわけでもないし、勝った・負けたの世界に生きていても良識は持っているということなのだろう。いや、女性のことになるとシェーカーが豹変してしまうのが、びっくりしてしまうだけのことなのかもしれない。


「リルル様。ごめんね。明日には私たちは帰るから、心配しないでね。お父さまも、結婚したいなら独身の人を探してよ。結婚している女の人には、絶対に手を出さないで?」

「チェニー、」

「わかった?」

 納得しない様子のシェーカーは、いろいろと言いたそうな顔つきをしていたけれど、やがて、頷いた。

「リルル様、クレイジュさんに申し訳ないことをしたと、チェニーが謝っていたと伝えてね。じゃあ、お父さまを連れて部屋に帰るわ。ごめんなさいね、お邪魔してしまって。」

「ううん、チェニー、わかってくれたならいいの。私はチェニーを見直したわ。」

「ありがとう、」そう言って、チェニーはシェーカーの背中を叩いた。

「リルル様に嫌われたら、クリス様と結婚出来なくなっちゃうじゃない、お父さま、しっかりしてよね!」

「チェニー、」

「もう、お父さまはしばらく反省したらいいんだわ。」

 チェニーが文句を言いながらシェーカーと去っていく様子を、リルルは手を振って見送った。

 なんだ、そんなことなのね。クグロワにもちゃんと教えてあげよう。あれは病気のようなひとめぼれなんだって。妊娠していなければ好かれなかったのかな、と思うと、それはそれで妙な話だわ、とも思う。

「リルルとよく似ているよ。すぐに婚約して諍いの芽を生むところなんて、本当にそっくりだ、」

「ティンク!」

 いつの間にかリルルの傍に立って一緒に手を振っているティンクに気がついて、リルルは慌てた。振り返れば、廊下を去っていく小姓や侍従たちの後姿が見える。

「まさか、みんな、聞いていたの? 今のやり取り。」

「ああ、廊下で騒いでいただろう? 結構集まっていたよ? それとなくリルルたちの様子を伺っていたって感じだな。」


 タッドリー事件を思い出して警戒したとは、リルル本人には言えなかった。サスマタを取りに行った侍従もいたとも言えない。誰もがシェーカーをやっつけるつもりでタイミングを見計らっていたなんて、もっと言えない。


「気が付かなかった…。」

「私は、リルル様が見慣れない親子に絡まれていると、仲間が図書室に知らせに来てくれた。」

「ごめん…、騒いでいたわけじゃないけど、そんな風に見えなくもないわね。…どこから聞いてたの?」

「リルルが腕を掴まれかけたところ、だな。」

「何もしないで見てたの?」

「いや、どうしようかと見守っていた。チェニーという女の子は父親を睨んでいたから、この子次第かなと思っていた。」

「そうね、チェニーがシェーカー様の手綱を握っていたわね。」

 くすりと笑って、リルルはティンクを見つめた。困った時に助けに来てくれるのね。まるで王子様みたい。あ、でも、バーカとしか言わない、口の悪い王子様だわ。

「心配した?」

「ああ、心配した。」


 リルルに何かあった時には自分が一番先に駆け付けたい。

 執務室の近くじゃなくて良かったとティンクは思った。ミハイルよりも先に、リルルの傍に来れた。ミハイルよりも先に、リルルを助けられた。

 図書室に近く娯楽室に近いこの場所には、ミハイルや執務の部屋の小姓たちの姿は見えなかった。


「ねえ、私が心配でしょう? 部屋まで送ってくれたりする?」

「仕方ないな。」

 本当は自分からそう言おうとしていたティンクは、バレないように表情を作ってリルルと手をつないで、リルルたち王族の住む居住区の方へと向かって歩き出した。

 可愛いリルルは今日も可愛い。何もなくてほっとした、とティンクはしみじみと思う。

「クグロワに、赤ちゃんが出来たの。」

「へえ。」

「クグロワ、結婚もしたの。」

「ふうん。」

「あまり驚かないのね?」

「驚くほど親しい関係じゃないからな。おめでとう、と思うくらいだ。」

「ティンクって、ほんと、冷たいよね。」


 クグロワが結婚して悔しがったり驚いて残念がったりしたら、明らかに変な関係だろう? とティンクは思った。

 リルルは恐らく、結婚していることを知っていたのだろう。

 知らなかったのだとすれば、もっと騒いで、もっと興奮して教えてくれただろう。ほんと、リルルはわかりやすい。

 目の前のリルルにとってのクグロワの存在は、自分の家族並みに深い付き合いのある重要なものなのだろうなと思う。シェーカーから守ろうと立ち向かっていたリルルの表情は、真剣そのものだった。


「普通に結婚して、普通に子供が産めるのって、すごいことね。」

 リルルは遠くを見ながら、ぼんやりと呟いた。

「そうだな、」とティンクは答えて、リルルは全部諦めてしまっているのだろうなと気が付いた。


 時見の巫女である以上普通ではないリルルは、いつ見るかわからない夢の為に自由に暮らすことは許されないだろうなと、ティンクは思った。リルル本人も、時見の巫女の役割を投げ出そうとしているようには見えなかった。


「バーカ、」私は、リルルだから傍にいる。ずっと、傍にいるから。

 小さく呟いて、つないだリルルの手を、親指の腹でそっと撫でた。


 ※ ※ ※


「このコーヒーは旨いな。これなら異国で売っても儲けは出るだろう、」と父は朝から機嫌がよかった。

「まるでメロンやウリのような甘酸っぱさがあるし、苦みが少なくてよい香りがする。」

 コーヒーなのにメロンってよくわかんないわね、とリルルは眉を顰めながら上機嫌な父の声を聞いていた。大人の好むものはよくわからない。

 リルルは王族専用の食堂で朝食をとりつつ、試飲会も成功しそうでよかったなと思いながら聞いていた。姉のラウラは澄ました顔で紅茶を飲んでいて、クリスはのんびりもぐもぐクロワッサンを食べている。母は昨日の公務の疲れが残っているらしく、まだ起きてきていなかった。

 様子が気になるけど、あとで聞こう、とリルルは思う。


 お城の大広間で午前中に行われた試飲会は、事前に名乗りを上げた商会を含めて、王都にいるほとんどの貴族が集まったのではないかという規模で大盛況に終わった。

 初の国産のコーヒー豆を扱うのは結局3つの商会に決まった。グロケット公爵家の商会もその一つで、あとは西部に領地を持つスブーラン伯爵家と、シャークス公爵家のすぐ近くに領地を持つランサーン侯爵家だった。

「豆の選別をしたり乾燥の手入れをしたり焙煎をする手間暇を考えると、かなりの資金と人手がいるからそんなものだろう、」と父は笑った。「まあ、おかげで今年の収穫分を均等に存分に分け与えれることができるのだから、このぐらいの規模でよかったのではないか、」とも言う。軌道に乗れば参入してくる者も増えるだろうと、父は楽観的な予測を立てている。


 試飲会の成功を目の当たりにし上機嫌のシェーカーとチェニーを予定通り見送ったリルルは、クグロワがいない日に帰ってくれてよかった~と胸を撫で下ろしていた。夜勤の予定だったクグロワは結局休みになり、代わりにサミラが出てくれていた。

 チェニーとクリスが文通の約束をしている間も、シェーカーはおとなしくしていた。シャーカーは黙って立っていれば無害で人の良さそうな州長に見える。話すと自分たちの住む世界の常識と違う考え方に、面食らってしまう。

 同じ大地に住む人間なのにとっても不思議、とリルルは手を振りながら考えていた。クグロワはシェーカーと接触しなくて済んだし、あれ以上の事態は起こらなかったから、良かったわ。

 今度会う時はいい面が見れるといいな、とクリスを見ながら思った。


 ※ ※ ※


 クグロワが夜勤に入らない代わりに、早速新しく人を雇う話がまとまったらしかった。年明けの1月から働き始めることに決まったのは、ピフルール公爵家で侍女として働いていたカロヨンの上の妹のヴェラだった。

「家に帰って、夕食の時に姉に、一緒に働いてほしいのって頼んでみました。私にこの仕事を譲ってくれた姉は、休職中で家にいますから。」

 ヨネアが恥ずかしそうに言った。

「本当は4月からここで働かせていただくのは姉のヴェラだったのです。前の職場に馴染めないでいた私に、姉は自分の都合だと言ってヨハネス殿下にお断りを申し出て、私を推薦してくれたのです。」


 リルルはお茶の支度をしてくれるケイティとリディアと一緒に、ヨネアの話を聞いていた。これから4人でお茶の時間にするのだった。仕事に馴れたケイティとリディアと黙々と仕事をこなすヨネアの日は、予定よりも仕事が捗り、こうしてお茶をする時間も生まれる。


「姉のヴェラはもともと外交官秘書を目指していた野心家なのですが、実際外国に住む勇気がなくて侍女をやっているちょっと変わった人間なのです。普通にお城で働けばいいものを、『ピフルール公爵様は外交官を輩出してきた立派なお家柄だから、お話を聞けるだけでもありがたい』と聞かなかった人で、いくつか外国語も話せますし、ピアノも弾けます。私よりも、人とのかかわり方が上手いのです。」

「ヨネアだって、真面目だし、いい子だと思うわ。」

 リルルにお菓子を勧めながら、ケイティが褒める。

「私は…、前のお屋敷だと、どうしてなのか浮いてしまって。人間関係に疲れて働くのが嫌になってしまっていたので、ヴェラが、お城ならカロヨンがいるから安心だと思うわって、言ってくれて…、」


 リディアはなんとなくヨネアが浮く理由を理解してしまった。真面目で控えめな性格なヨネアは黙々と仕事をする。手抜きしたりお喋りする侍女が多い職場だと浮いてしまうのだろうなと思った。


 カロヨンを怒らせると私たちが黙ってないものね、とケイティはこっそり思った。リルルの侍女たちはあまり入れ替わりもなく結託が強く、仲が良かった。仲間であるヨネアを泣かす奴は許さないわ、とも思う。


「ヴェラは優しい人なので、カロヨンが嫁いで、お母さまが兄嫁と上手くいってない様子なのにも気が付いて、仕事をやめてずっと実家にいるのです。私なんかよりも優秀な人なのです。」

 自嘲するヨネアに、リディアは「そんなことないわ。ヨネアも頑張っているもの。ヴェラは、武術はどうなの?」と聞いた。

「カロヨンよりも俊敏で、同格かそれ以上です。ヴェラは護身術よりも格闘術に長けています。」


 さらっと格闘術って言っちゃうけど、普通の令嬢じゃないよね、それ、とリルルは思う。男性は女性を守るのが普通の価値観で、世襲制の地位にある家でもない限り女性騎士はほぼいないこの国では、護身術は嗜みとして習っても、格闘術までやれてしまう娘の数は少ない。

 ヴェラってカロヨンみたいに美人なのに武術に優れていたりするのかな、と思ったリルルは、目の前の可憐な容姿のヨネアが実は護身術に長けているのも思い出して、この3姉妹はすごいと思った。親御さんって、男爵だけど文官だった気がするんだけどな…。


「そう、リルル様のことをお守りするにはとてもいい人材ね。人柄もよさそうだし。いい御縁ですね、リルル様。」

 リディアは何度も頷いている。リディアの夫は騎士だからか、価値基準が実戦的だとリルルは思う。

「あとは、リルル様の秘密を守れるかどうか、だわ。」

「その辺は、大丈夫だと思います。外交官としていろんな国の人が出入りするピフルール公爵家で長年問題なくやってきた姉ですから、そういう、人の秘密を守ることは得意だと思います。」

 どんな人が来るのかわからないけど楽しみね、とリルルは思った。

「カロヨンは知ってるの?」

「いえ、決まってから話すと母もヴェラも言ってましたから。」

「ヨネアのおうちの人は、お城で娘が3人とも働くことになって、何も言ったりはしないの?」


 行儀見習い程度に仕事をさせるというには、カロヨンはしっかり働き過ぎている気がする。お城で働き始めて10年は経っている。

 ロマニール先生との結婚がなければ、親御さんが怒りそうなほど仕事人間だわ、とリルルは思う。貴族の女性は程よいところで結婚、がまだまだ世の常識だった。ヨネアがそうなってしまう前にヨネアにも結婚相手を見つけてもらおうと思う。

 あ、その前にケイティだわ。ちらりとケイティを見ると、ケイティはまだ結婚しませんからね、とでも言いそうな顔をしている。


「ええ、喜んでいました。母はカロヨンがいい人と結婚できたのはリルル様のおかげと喜んでいたくらいですから。」


 スリーヴァ子爵領は小さい領地ながらも農地に恵まれて豊かな領だった。しかもロマニールは留学経験もある知識人で、穏やかな性格だった。カロヨンと価値観も合い、何より姉を大事にしてくれるところが好ましいとヨネアは思っていた。


「そう、ならよかった。」

「兄も結婚して子供がいますし、私たちが家にいるよりは働いていてくれた方がいいと言っていますから。」

「わかる。私のうちも兄が、うるさい小姑になるくらいなら働いていてほしいって言ってるわ。」

 ケイティが笑うと、リディアも頷いた。「うちもそうよ。お城で働いて結婚して家を出てるから、兄嫁と揉めたことがないもの。」


 リルルのところで働く侍女たちは偶然なのか、誰もが家を継ぐ兄がいて、妹か弟かがいる長女だった。どの家も、行儀見習いで何年か働かせて程よい頃に結婚と目安を立てて働くのを良しとしたんだろうになあと、リルルは思う。


「私たち兄妹は親の方針で武術を修めていますから、お役にも立てると思います。」

「ヨネア、この際聞きいてみたいのだけれど、親御さんって文官だったよね?」

 リルルは思い切って聞いてみることにする。カロヨンは自分の話になると微笑んで誤魔化すことが多い。ヨネアなら話してくれそうな気がしてきた。

「ええ、そうですね。刑務官として内勤の仕事をしていますね。」

「お城でやるような…、護身術の講習会でやるような訓練ではないのでしょう? ヨネアたちのお父さまがお好きなの?」

 お城の護身術の講習会は、仕事着のままで行うので、侍女はワンピースを着たまま出来る程度のことしか訓練は行わなかった。

「いいえ…、そうですね、もしかしてカロヨンは話していませんでしたか?」

「そうなの。もしかして知らないのは私だけだったりする?」

 ケイティとリディアはリルルの顔を見た後、視線を逸らした。

「なんとなくですが、知っています。私たちの親の世代は知っています。」

 ヨネアは躊躇った表情になり、でも、決心したのかリルルをまっすぐに見た。

「姉の…、ヴェラは幼い頃に、誘拐されそうになったのです。」

 貴族の娘なのに? とリルルは言いそうになって黙る。どんな娘だって何かのきっかけでそういう危険な目に合うことはいくらだってある。

「私が生まれる前の話なようですから、まだカロヨンも初等学校に行っていない頃だと思います。カロヨンと、兄と、3人で遊んでいたヴェラは…、かくれんぼをしていて、そのまま連れて行かれそうになってしまいました。場所は、私たちの住む屋敷ではありません。近くの王都の王立の植物園です。白昼堂々の犯行だったので、道行く人も、連れていかれるヴェラがその人の娘だと思ったようです。」

「…どうやって助かったの?」

「姉たちがよくその植物園で遊んでいることを知っている近くの道場の門下生の皆さんが、たまたま走っている最中に父ではない男性に抱きかかえられているヴェラに気が付いて、取り返してくれました。姉たちはそんなところでかくれんぼしていることを母に怒られましたが、父はそんなに暇ならお前たちも道場に通えと入門を決めてしまいました。」

「確か、見目のいい娘ばかりを連れて行って船に乗せて売り飛ばす商人がいたのよね。その事件がきっかけで、未成年の売買は法律が整備されて重罪と明文化されたのではなかったかしら。」

 リディアはケイティを見つめ、ケイティはうんうんと頷いた。

「そうなのね。…ヴェラは、まだそのことで辛い思いをしてたりするの?」

「いいえ、私の目からは特に何もわかりません。でも、格闘術が長けているのはヴェラですから、何か心に思うものが有ったのでしょうね。」

 リルルはヨネアの手を握って、「話してくれてありがとう、」と微笑んだ。無事だったのだとしても、身内が誘拐されそうになったなどいい思い出ではないだろう。リルルが重ねた手に、リディアやケイティも手を重ねる。

「私はヴェラが来てくれて嬉しいわ。誘ってくれてありがとう、ヨネア。」

 うんうんと頷いて、リディアたちもヨネアを見つめる。

「ケイティが結婚するより先に、ヴェラとヨネアにもいい旦那様を見つけないといけませんね、」とリディアが笑った。

「あら、私は諦めちゃうのね、」

「あなたは勧めても決めないでしょう?」

「ここで働くの、楽しいのですもの。」

 ケイティがおどけて口を尖らせる。リルルが笑うと、リディアが優しくヨネアに微笑みかけた。

「お城はいい仕事場だものね。ずっと一緒にいたいよね。」

 ヨネアが照れて微笑むと、ケイティも優しく微笑んだ。

「お城は安全ですからね。王族をお守りすると言っても、その前に騎士や侍従もいますから。」


 夫が近衛の騎士のリディアが何気なく言った一言で、お茶を飲みながら、リルルはふと、この前見た夢を思い出して、暗い気分になった。安全なはずの場所で、王族が半裸に近い恰好の女性に殺されてしまう映像が頭によぎる。


 あの若い王様のような人は、最後に誰かの名前を呟いていた。


 リルルと言われているような気がして、リルルは悲しくなる。

 鳥リルルが見た最後の光景を思い出し、同時に血の匂いを思い出して、リルルは身震いをした。


「…死ぬ時に呟く名前は、最愛の人の名前なのかしら。」

 手にしたカップの中を見つめたまま黙ってしまったリルルが、カップを置いてそっと独り言を零したのを、リディアたちは不安そうに見つめていた。

 何かを思い出されたのかしら? アレクセイ様のことかしら?


「リルル様、最後に私はきっと、リルル様のお名前を呟くと思います、」

 ケイティが場の空気を和ませるように微笑んだ。

「いつかケイティの大切な人が私以外にも増えるといいな、」とリルルは微笑んだ。「私、その場にいてあげられないかもしれないもの。」

 短命と言われる自分はそんな先の未来を夢見ていいのだろうか。リルルは何気なく呟いた言葉に、リディアたちの顔が曇った。

 ケイティはそれでも、リルルに微笑みかけた。

「もしかしたら、夫になった人の手を握りながら、かもしれません、」

 くすりとリディアは笑う。

「ケイティならありそうよね。あ、ごめん、付け加えるわ、って笑って、もう少し長生きしそうよ?」

「ですよね~、その時のお気に入りの役者の名前をつけ足していくかもしれません。」

 ヨネアはケイティを見ながら、「お芝居が気になるから死ぬのは止めておく、って言いそうですね!」と笑った。

「そうそう、チケット高かったのっ!って笑ってね!」

 明るく笑うケイティたちにつられて笑っているうちに、リルルはあれは夢だもの、きっと変えていける可能性だってあるんだわ、と思い直した。まだ時間はあるわ、可能性なだけだもの。


 あんな風に自分が死んでしまうのだとしたら、私は最後に誰を選ぶんだろう。


 真っ先に思い浮かんだのは、ミーシャだった。

「私、ミーシャと今月もお茶会の約束が出来なかったから、ミーシャに会いたいって言うかも、」

 時計を見つめて、ケイティは立ち上がった。

「リルル様、まだ間に合います。御仕度しましょう。ミハイル様はまだお仕事なさっておられますよ、きっと!」

「そうですわね、お菓子も持っていかれますか? お仕事上がりの方にはチョコレートが好評でしょう、」

 リディアも立ち上がって、お菓子の用意をし始める。ヨネアはさっとお茶の片付けを始める。

「ありがとう、そうね、ちょっと行ってみるね。」

 リルルは鏡の前に立ち自分の格好が乱れていないか確かめると、手櫛で髪を耳に掛けた。

ありがとうございました

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