第五章①〜夏合宿は海に限る〜
菅ヶ田に夏休み中の合宿開催を告げられてから、一ヶ月とちょっと。八月も終盤に差し掛かかり、一夏分の太陽の光をたっぷりと浴びた肌は、見違えるほどこんがり焼けて……はおりません。
俺は夏休みに入ってから、ほとんど何かをした記憶がない。おそらく小説の本文中に何の記載もない空白の期間だったのだろう。ただ起きて、ご飯を食べて、寝て。そんな動物園の展示動物みたいな毎日を、半透明に濁った意識の中で延々と繰り返していたような気がする。不毛で空虚な時間。もしかしたら描写のないモブは皆、ずっとこんな感じで日々を過ごしているのだろうかと、ふと考えた。例えば、彼女も。
……いけないいけない。俺は頭に浮かんだとあるモブキャラAの顔を必死に打ち消す。
ハーレム系主人公としてハッピーエンドを迎えるため、もう彼女のことは一切考えないと決めたのだ。そんなことより今考えるべきは、喫緊のイベントについて。
「八月二四日から二泊三日」
二週間前に突然、菅ヶ田から送られてきたLINEだ。絵文字の一つもない、ギャルらしからぬ無骨な短文が、俺を久しぶりの表舞台にいざなう招待状となった。
夏合宿。音楽スタジオ付きのコテージで毎年、文化祭に向けての集中練習を行うのが我が校軽音楽部の伝統だという。別にスタジオなら学校の近くにもあるのになぜ合宿に行くのかと聞かれれば、きっとそれが学生の青春というものだからだろう。
「行ってくる」
菅ヶ田に借りたギターケースを背負った俺は、存在だけ仄めかされているもののいまだ会ったことのない母に向けて挨拶をした後、集合場所の駅へと向かうため家を出る。ちなみに我が家は作者の自宅をイメージしているのか、とてもファミリー向けとは思えない独房のような内装だ。刑期約一ヶ月。やっと釈放された俺がシャバで最初に目にしたのは、ツインテールがよく似合う小柄な美少女の姿だった。
「遅ーい! 二時間も待ったんですけど!」
詩帆はぷりぷりと擬音が聞こえてきそうな腕組み姿勢で、俺の前に仁王立ちした。今が七時過ぎだから、五時頃からここに立っていたのだろうか。待ってればよかったのに。自分の家で。隣なんだから。
俺の脳内のツッコミに答えるように、詩帆はハッと口を開いた。
「違っ! べ、別にアンタを待ってたわけじゃなくて! たまたまここにしか咲かない世界に一つだけの花の蕾を見つけて、咲くのを待ってただけなんだから! 勘違いしないでよねっ!」
詩帆は我が家の玄関先を指差しつつ、早口で捲し立てた。そうか、ならばここで待つのもしかたない。確かに詩帆の言うとおり今、目の前で世界に一つだけの見事なツンデレが咲いている。
「あらあら。朝から元気ねぇ、詩帆ちゃん」
後ろからのネットリとした声に振り返ると、おそらく二〇代ほどと思われる息を呑むほど美しいお姉さんが、俺の家の玄関を内側から開けるようにして立っていた。
「出てくんなよ、お袋」
「あっ、千博のお母さん! おはようございます!」
お、お袋? 千博のお母さん、だと……? 自分と詩帆の口から出てきた言葉の意味を飲み込むのに、名探偵のこの俺をして数秒を要した。まさか、これが二次元特有の「若過ぎる母親」概念だというのか。生で目の当たりにすると性癖歪むでこれ。
「あらあら。お義母さん、って呼んでくれてもいいのよ?」
「へっ!? そ、そんなんじゃ……っ!」
またツンデレが咲き乱れる前に、そして性癖が本格的に歪む前に、俺は詩帆の手を引いて歩き出す。後ろから「あらあら、見せつけちゃって」とアンチエイジングの化物の声が追ってきたが、詩帆が「だからそんなんじゃありませんって!」と声を荒げた。
そう、詩帆の言うとおり今はまだそんなんじゃない。
なぜなら詩帆はさっき俺と出会った瞬間から、その可愛らしい言動とは裏腹に、顔だけはずっと、洗濯物の裏に引っ付いたカメムシを見るような表情をしていたのだから。
朝からいろいろあったがとにかく、俺たちは駅に向けて歩き出す。と言っても、俺は駅の具体的な場所も名前も知らない。ただ適当に歩いていれば辿り着くという確信だけがあった。おそらく作者の書いた本文がまさに「駅に向かった」みたいな雑な一文で済ませてあるのだろう。
案の定、なんとなく歩いていたら一五分ちょっとで駅らしきもの――券売機と改札とホームがあるだけの、ミニマリストが造ったとしか思えない簡素な建物――が見えてきた。家と同じく、ずいぶんお粗末な想像力である。
ちなみにここに着くまでの間、詩帆とは作者が用意したトークで上辺だけは大いに白熱したのだが、やらされてるこっちは内心くっそつまらなかったです。「しゃもじの良いところについて」で盛り上がる高校生がどこにおんねん。詩帆なんて無表情で一生鼻の穴ほじる鼻くそ製造機と化してたぞ。
「お、おはようございます! 皆しゃんもう先に行っちゃいましたよぅ!」
「チッ、遅ぇんだよ。迷惑かけやがって」
駅の前では尾藤と菅ヶ田が待っていた。他にも軽音楽部の部員はいるはずだが、予定調和のようにメインキャラである俺たちだけが取り残され、四人で合宿所であるコテージの最寄り駅へと向かう流れになる。
電車に乗ると、二人掛けの椅子が向かい合った四人席がこれまた予定調和のごとく空いており、そこに腰掛けた。俺が先に奥の一角を陣取ると、俺の隣の席を巡って三人娘の小競り合いが勃発する。
「私が隣! べ、別にどうしても千博の隣がいいってわけじゃなくて、ただ幼馴染は『隣』という概念に紐付けされた存在だから、しかたなく……」
「いつも隣なんだから今日ぐらい譲れよ。おら、葉栗もこんなちんちくりんよりアタシが隣のほうが嬉しいだろ?」
「はわわわ! そんなにスカートをたくし上げて、菅ヶ田しゃんえっちぃですぅ!」
「そういうお前もピチピチのシャツ着て、その胸の駄肉をアピールする気満々じゃねぇか。クソビッチ」
「そ、そんなんじゃ! ただ、葉栗しゃんに似合うって言ってほしかっただけで……ゴニョゴニョ」
「二人とも身体使って必死だねー。でも残念、千博の『うまい棒サラミ味』は全然反応してないみたいだけど」
「……は? 葉栗のうまい棒はどう考えてもチーズ味だろ。何言ってんだテメェ」
「そっちこそ何言ってんの? 絶対にサラミだもん、千博のうまい棒は」
「プッ! アハハハハッ! サラミとか、男のうまい棒に夢見すぎだっつーの生娘」
「……そっちこそ経験ホーフぶってるけど、どうせ男の人のうまい棒なんて食べたことないくせに」
「んだとコラぁ!」
「ふぇぇ、お、落ち着いてくださいぃ! 私はコンポタがいいですぅ……」
ガチでやめろ作者! 子供たちに大人気のうまい棒を卑猥な隠喩に使うな! 偉い人に怒られても俺知らないからな? むしろ怒られてこい!
で、結局。ジャンケンという平和的な解決策の末、俺の隣は菅ヶ田、正面が尾藤、斜向かいに詩帆という形で落ち着いた。そして俺のうまい棒も、間を取ってめんたい味で落ち着いた。
が、それは小説の作劇上の話。俺たちにとってもっと本質的な問題は……
「千博! はい、あーん」
「? なんだその、弁当箱にぎゅうぎゅうに詰まってるもんは」
「千博が好きなキャベツ太郎だよ! 私、早起きしてたくさん用意してきたの! ……はっ! べ、別にアンタのためじゃなくて! 家の庭が偶然キャベツ太郎畑で、いっぱい余ってただけだからっ!」
「は、葉栗しゃんっ! 私のビッグカツも食べてくださ……って、ひょわあっ! 目と目が合ってドキッとした拍子にうっかり手が滑って、胸の谷間に挟まっちゃいましたぁ!」
「ズルいぞオメェら! おい、葉栗! アタシのヤングドーナツも……ってコラ! 落とすなよ! ったく、毎度毎度アタシに拾わせやがって。ほら食え。地面に落ちて三秒以内だからセーフだぞ」
「ちょ、ちょっと待てよハニーたち。心配しなくても順番に全部味見してやっから」
一見、思春期男子からしたら生唾もののハーレム。電車の中で物を食べるなとか三秒ルールすなとかキャベツ太郎畑ってなんやねんとかツッコミどころは多々あるが、まぁ総じて、美少女三人に好意を寄せられる羨ましい男だろう。
だがその実情は。
「じゃあ私から! はい、今度こそあーん」
朝からずっと鼻くそをほじほじした指でキャベツ太郎をつまみ、俺の口に作業的に詰め込む詩帆。その目は、あまりにも退屈すぎてとりあえず何もない壁をジッと眺めているときのそれだ。こいつはほんと、興味ないやつの前ではオフモードだな。
「次は私が。あ、あーん……」
尾藤は右手で胸に挟まったビッグカツを引き抜きながら、左手の親指を下に向けてブーイング。表情も、顔中の穴という穴から憎悪が噴出、否、憤出している。どうしたらそんなマントルまで見下すような顔できるの、ねぇ?
「最後はアタシの番だ。チッ、また思い出が一つ増えちまったじゃねーか……」
菅ヶ田は……自分がヤングドーナツ食べたそう。それ以外確かな思いが無さそう。よだれダラッダラだし。本当に俺のことサポートする気あんのかな……
要するに、皆ただ作者の描いたシナリオ通り演技してるだけ。偽りのハーレム。義務ハーだ。
だがしかし! 駄菓子菓子だ。夏休み前のあの日、菅ヶ田は確かこう言った。大事なのはキャラ自身の意識変革だと。そしてキャラがイキイキすることで物語はより魅力的になり、時に結末すらも変わり得ると。
その話を踏まえて俺は考えた。考えに考え、さらに考え、おまけにも一つ考え、最終的に至極単純な答えを導き出した。俺たちは今シナリオに嫌々従っている。ゆえにキャラがイキイキしていない。死んでいる。
だったら俺がするべきことは簡単。
この合宿でこいつら全員本心から俺に惚れさせ、そして俺自身もこいつらを好きになり、ハーレムを嫌々じゃなくしてみせる! ラブ&コメで世界を救うんだ! そのためなら、俺はなんだってしてみせるぜ!
――という決意表明から約三時間後。私物の水着に着替えた三人娘と一緒に、俺は広大な海を臨む砂浜に立っていた。
なぜか俺だけ、ピッチピチの女子用スクール水着を身にまとって。
なぜこんなことになってしまったのか。話は少しさかのぼる。
一時間前。俺たちはコテージの最寄り駅に到着した。駅のホームに降り立った俺の鼻腔をまずくすぐったのは、磯の香り。
「あっ、見て見てあそこ! 海水浴場だよ!」
詩帆が言った。指差す先には、そこそこ広さの駐車場が併設された白い砂浜。カラフルなビーチパラソルやテントが乱立する様は、言うなれば海のお花畑。見ているだけで心踊る。
が、残念ながら今回俺たちは、バンド練習のための合宿に来ているのだ。水遊びはおあずけだろう。
「このためにわざわざ水着を新調してきたんだ。早く行こうぜ!」
ん? 菅ヶ田の発言で、俺の頭にはクエスチョンマークが浮かぶ。
「そ、その前に荷物だけコテージに置いてこないとぉ」
ん?? 尾藤が続いたことで、クエスチョンマークが二つに増える。
「そうだねー! でも別に、バンド練習なんかより海を楽しみにしてたわけじゃないんだから! 勘違いしないでよねっ!」
ん???
「あぁん? 海で遊ぶなんて聞いてねぇぜ」
そう、ちょうど今思っていた言葉が自分の口から零れた。そういえば、合宿編が始まってから先の展開が全く読めない。つまり、作者は全部その場の思いつきで書いている、ということになる。
「あれ、言ってなかったか? コテージの近くに海水浴場があるから、初日は海で遊ぶのが伝統だって」
「完全に初耳だ」
「困ったな……どっか水着買えるところあるか? コテージの売店で売ってりゃいいけど」
「去年来た時は売ってなかった気がするよ。海水浴場のほうも、確か海の家とかなかったよね」
「マジか。検索したけど、近くにショッピングモールもなさそうだ」
「どうしよう、困ったね……」
「悪ぃ、アタシがちゃんと伝えてれば」
「うぅん、菅ヶ田ちゃんに全部任せきりにしてた私たちにも責任あるし」
用意されたセリフを言い切ってしまったのか、突然の沈黙が俺たちを包む。おそらく今、全員が同じことを思っているだろう。
作者のやつ、一体何考えてるんだ?
水着回。ラブコメではド定番だ。だから合宿中に海で遊ぶこと自体は、別に悪い展開じゃない。
問題はなぜ、主人公がその輪に加わられなさそうな状況になっているのか。どう考えても水着回のメインは女性陣とのキャッキャウフフ、そしてちょっぴりエッチなハプニング。それがなければ、読者視点何も面白くなどないだろう。俺や彼女たちがそれを望んでいるかではなく、ラブコメの定石の話だ。
それともう一つ。普段はこんなふうに、不自然にセリフが詰まることなどない。なぜなら俺たちは作者が本文をサイトに公開した段階で、その地点までは淀みなく動くようにできているからだ。なので今の状況、考えられる要因としては……作者が、一度公開した本文をいじっている、のか?
「そ、そんなこともあろうかと! 実は! 葉栗しゃん用の予備の水着を持ってきましたぁ!」
数分続いた膠着を破ったのは尾藤のセリフだった。どうやらようやく、作者が本文の修正を終えたらしい。
「おぉ! さすがは尾藤ちゃん!」
「気が利くじゃねぇか! 助かったぜ尾藤!」
「私が水泳の授業で使ってるやつなので、サイズだけ若干不安ですけどぉ」
「大丈夫だよ! 尾藤ちゃん結構背高いし、千博は意外と華奢だし」
……は? 何言ってんだこいつら。というか、言っている本人たちもまさかのセリフにキョトンとしているように見える。ハッキリ言って嫌な予感しかしなかった。そして創作物の常として、嫌な予感が杞憂で終わることなど滅多にない。
「助かるよ尾藤。じゃあ、遠慮なく貸してもらうぜ。お前のスク水」
口から勝手に出た危惧したとおりのひと言に、俺は絶望の淵に叩き落とされた――。




