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婚約式の日。
夏希は嬉しそうだった。
「司さん」
「何?」
「……これからも、よろしくね」
「仕事が忙しいから」
突然、司が言った。
「昔みたいにはいかないと思う」
「……え?」
「俺は神崎財閥を継ぐ立場だから」
夏希の笑顔が少しだけ消えた。
それでも彼女は頷いた。
「うん……分かった」
結婚式の日も、司は冷たかった。
それでも夏希は幸せだった。
ずっと好きだった人と結婚できた。
それだけで十分だと思っていた。
けれど。
結婚初夜。
司は彼女に背を向けた。
「今日は疲れた」
「……司さん」
「寝る」
「……うん」
夏希は小さく頷いた。
一人で涙を拭いた。
それでも翌朝には、笑っていた。
「おはよう、司さん」
「……おはよう」
「朝ご飯、作ってあるよ」
司は答えなかった。
ただ、ネクタイを締めて家を出た。
それが二人の結婚生活の始まりだった。
一年。
二年。
三年。
司はほとんど家に帰らなくなった。
仕事。
会食。
海外出張。
そして、いつの間にか女性の存在まで増えていた。
最初は一人だった。
やがて二人。
そして三人。
彼女たちは司の愛人だった。
そのうち二人には子どもまでいる。
そして、夏希に対しても少しずつ態度を変えていった。
最初は遠慮していた。
けれど、司が自分たちの言葉を信じてくれると分かってからは、どんどん大胆になった。
ある夜。
神崎家で夕食を取っているときだった。
「司さん」
一人の女性が司の隣へ座った。
「この前買ってくれたバッグ、本当に嬉しかった」
「そうか」
「今度、一緒に旅行行こうね」
「時間が合えばな」
そんな会話を、夏希が同じテーブルにいる前でする。
ある日など、一人の女性が司の隣にぴったり座った。
「司さん、こっち座って」
「……ああ」
夏希は向かい側に座っていた。
女性が司の腕に自分の腕を絡める。
「ねえ、私の誕生日、覚えてる?」
「もちろん」
「じゃあ、何が欲しいか当てて?」
「また高いものをねだるつもりか?」
二人が笑う。
夏希は黙って食事をしていた。
箸を持つ手が、震えていた。
それでも司は気づかなかった。
いや。
気づいていたのかもしれない。
けれど、見ないふりをした。
「夏希さんって、本当に静かですよね」
愛人の一人が言った。
「司さんが他の女性とこんなに仲良くしてても、何も言わないなんて」
夏希は笑った。
「……言っても、仕方ないので」
「ふふ。物分かりがいいんですね」
女性は嬉しそうに笑った。
司はその会話を止めなかった。
むしろ心の中では、こう思っていた。
――夏希は、やっぱり俺に興味がない。
昔届いた手紙の言葉が、何度も頭の中に蘇る。
だから、司はますます夏希から離れていった。
夏希の誕生日も忘れた。
結婚記念日も忘れた。
ある年の誕生日。
夏希は一人でケーキを買った。
司が帰ってくるかもしれないと思って。
けれど、夜になっても帰ってこない。
時計が零時を回った。
「……今年もか」
夏希は一人で笑った。
翌朝。
ニュースサイトに司の写真が載っていた。
愛人の一人の誕生日を祝うため、高級レストランで食事をしたという記事だった。
夏希は画面を閉じた。
「……私の誕生日は、忘れてたのに」
その言葉は誰にも届かなかった。
そんな日々が続いた。
そして、ある出来事が決定的な亀裂を作った。
三人の愛人たちは、夏希に何度も嫌がらせをした。
「司さんは私を一番愛しているの」
「あなたはただの政略結婚の妻」
「早く離婚すればいいのに」
夏希が反論すると。
「司さんに言いつけるから」
そう脅された。
そして実際。
司の前では泣きながら訴える。
「奥様にいじめられました」
「子どもを産んだ私たちを邪魔者扱いされたんです」
司はそれを信じた。
「私、そんなことしてない」
「じゃあ、彼女が嘘をついてるっていうのか?」
「そうじゃなくて……」
「もういい」
冷たい声だった。
「お前はいつもそうだ」
「……え?」
「自分は悪くないって顔をする」
夏希の目に涙が溜まる。
「司さん……」
「俺たち、もう無理なんじゃないか」
夏希の呼吸が止まった。
司は書類を取り出した。
離婚届だった。
「これ」
「……離婚届?」
「ああ」
「なんで……」
司は少し黙った。
本当は。
これを渡すのが怖かった。
けれど、夏希に愛されていないと思い込んでいた司には、それ以上この結婚を続ける意味が分からなくなっていた。
「俺といるのが嫌なら、これに名前を書け」
「……司さんは?」
「俺はもう書いた」
その言葉が、夏希の胸に突き刺さった。
司は続けた。
「お前は自由になればいい」
本当は。
「俺から離れてほしくない」と言いたかった。
でも言えなかった。
愛されていないと思っていたから。
夏希は離婚届を受け取った。
けれど、その場では書かなかった。




