11 ダーラとフローラ
ネロが居なくなって数日後、文具屋のトーマスの妻ポーラが実家から子供を連れて帰ってくるというので、トーマスはポーラの実家に向かった。のんびり亭に来る人達は、明るいニュースに盛り上がっていた。ところがある週末、ケビンが険しい顔でやってきた。「おはようござます」と元気に挨拶するミオを店の裏に呼び出してこっそり告げたのだ。
「おまえ、知ってるか? トーマスさんちの赤ん坊、全然笑わないし泣かないんだって。それで母親のポーラさんも落ち込んでるらしい。さっき、ジョージさんたちがどうしたもんかって、相談してたんだ」
「どこか、具合が悪いの?」
「さっきの話だと、身体はどこにも異常がないらしいんだけど、もうそろそろ笑顔を見せたりする頃なのにって、医者にも言われたらしい」
「どうして…」
ミオが問いただす様にケビンに詰め寄るが、こればかりはケビンにも分からない。そのまま店内に入ると、アンリが二人を呼び寄せた。
「もうトーマスさんちの赤ちゃんの事はもう聞いているのね。だけど、今は仕事に集中してね」
「アンリさん、トーマスさんちの赤ちゃん、大丈夫なんですか?」
ミオが声を掛けると、アンリは小さく息を吐いて話し出す。
「子供を産むってことはね。命がけの仕事なの。出産の時に命を落とす赤ちゃんやお母さんもいるのよ。トーマスさんちの赤ちゃんは生きてる。それだけで奇跡的なことなの。無事に生まれてきてくれたことをみんなで祝福しましょう」
アンリはミオの肩をぽんっと叩くと、キュッとエプロンを結んで厨房へ入っていった。それに続いて、ケビンもロッカーに向かった。その後ろを追いながら、まだ顔を曇らせるミオに、ケビンが声を掛けた。
「おい、今は仕事に集中だぞ」
「はい」
店の外回りを掃除していても、行きかう人の顔には憂いを感じる。みんな心配しているんだ。だけど、どうすることもできない。どうしてもそのことに気持ちが持って行かれそうになる。慌てて首を振ってごみを集めていると、ダーラが通りかかって声をかけて来た。
「ミオ、あなたまでそんな顔になったら街中が暗くなっちゃうわ。きっと大丈夫。この街の人たちはみんな優しいもの」
ふわっと肩を抱かれると、強張った体の力が抜けていく。ミオは「そうですね」と答えて笑って見せることができた。白髪に明るい薄紫のカーデガンが優し気で、ダーラの人となりを現しているようだ。ふと見ると、ダーラの手には焼き菓子が二つ、握られていた。
「今日もこれから主人とデートなのよ」
「そうなんですね。楽しんできてくださいね」
ミオに見送られて老女はご機嫌で出かけて行った。その日は午後から雲行きが怪しくなり、昼下がりには雨が降り出した。おかげでティータイムの客はぐっと少なくなって、ケビンも一息つけるようになっていた。
「何を見てるんだ?」
「え? えっと、朝、ダーラさんがお出かけしていたから、雨にあっていないか心配になって」
「気づかない間に帰ったんじゃないか?」
「そうだといいんだけど…」
雨に降られて慌てて店に雨宿りに来た客が数人やって来て、ミオたちは対応に追われた。
気が付くと閉店時間が近づいていた。そんなところにセイジーが駆け込んで来た。傘は持っているものの、すでにびしょぬれの状態だ。アンリが慌ててタオルを手渡したが、セイジーは顔に流れる雨を拭こうともせずに、アンリにしがみ付いた。
「おばあ様は来られていないですか? 散歩に出かけたまま、まだ帰って来られないのです。あちらこちら探したのに見つからなくて、もしかしたら入れ違いで、ここでゆっくりされているかもと思って来てみたんですが…」
話し込んでいる間に閉店時間になって、一緒に探そうとするケビンとミオは、雨も強くなってきたので一旦家に帰された。自分の部屋に帰っても、じっとしていられないミオは、箒を取り出して雨のベランダに飛び出した。レインコートを着込んで箒にまたがると、じんわりと高度が上がっていく。雨は強くなるばかりで、腕や頬に当たる雨粒が痛いぐらいになってきた。こんな雨の中じゃ風邪をひいてしまう。ミオは今朝あったダーラの姿を必死で思い出していた。
「確か、今朝は薄紫のカーデガンを羽織ってた。そう、白髪に良く似合っていたんだ。後は、手に焼き菓子を持ってたような」
そう思い立って、まずは教会の裏の墓地へと向かった。ミオの想像通り、墓地には焼き菓子が一つ、置かれていた。ただ、その後の足取りは分からない。セイジーがあれほど探して見つからないということは、この街の中にはいないのかもしれない。しかし、高齢のダーラが、そんな遠出をするだろうか。
一方、文具屋のトーマスの妻ポーラは、途方に暮れていた。生まれたばかりの我が子がどうやら通常の発育をしていないことは、早いうちに気が付いていた。実家の両親も心配するなか、個人差があるからと平気なふりをしてきたのだが、いよいよ隠し切れなくなってきたからだ。子どもの成長は個人差が激しい。きっとそのうち笑顔を見せてくれる。きっとそのうち愛らしい声で空腹を訴えてくれる。毎日そんな望みを胸に小さな体を抱き上げていた。
「ポーラ、こんなかわいい子を産んでくれてありがとう」
夫の幸せそうな顔を見た時は、本当に幸せだったのに。最近は、我が子を抱き上げようともせず、ただひたすら自分を気遣う夫を見るのが辛い。
「ポーラ、お客さんだよ」
もう、何度か知り合いがお見舞いに来てくれたが、最後には複雑な顔を見せられる。ポーラは重い足取りで応接室に向かった。
「ポーラ、出産おめでとう。よくがんばったわね。赤ちゃんを見せてくれる?」
「ダーラさん! お一人で来られたのですか?」
「ほほほ。親切な人が馬車に乗せてくれたのよ。それより、ちゃんと眠れているの? 顔色があまりよくないわ」
日向のようなほっこりする笑顔に張り詰めていた心が溶かされて、ポーラはわっと涙をあふれさせた。奥の部屋からトーマスが子供を抱き上げて連れてくると、ダーラの笑みが一層華やかに広がる。
「まぁ、まぁ。なんて愛らしいの。あなたはそこにいるだけでたくさんの人を幸せにするのね。いっぱい笑って、ママを元気にしてあげてね」
ダーラの言葉にポーラは一層涙をあふれさせた。
「この子、ちっとも笑わないんです。ただぼんやりしているだけ」
「あら、そうなの?」
ダーラはしばらく赤ん坊の様子を見ていたが、おもむろに自分のかけていた眼鏡をはずすと、そっと赤ん坊の目の前に掛けてみた。すると、はっとしたような表情を見せたとたん、赤ん坊は花が咲いたような笑顔を見せたのだ。
「ああ! フローラ! フローラが笑ったわ!」
「なんて、愛らしいんだ! フローラ、やっと笑ってくれたのか」
「ほほほ。良かったわね。ちょっと見えにくかっただけなのね」
トーマス達は、ダーラに何度も礼を言って喜び合った。すると、ふいにダーラがフローラを抱き上げて、すたすたと台所に向かっていく。
「ダーラさん、どちらに?」
「ほほほ。今日もご機嫌ですわね、ブレンダ様。ミルクはいかが?」
「ダーラさん? どうされました?」
ポーラやトーマスの声はまるで聞こえていないかのように、フローラを抱いたダーラは、粉ミルクを探し始める。そして、すぐにミルクを用意すると、慈しむようにミルクを与えたのだ。
その夜、ポーラの母親の勧めで一泊したダーラは、翌日、トーマス達が自分の家に戻ると言うので、一緒に馬車に乗せてもらって帰宅することになったのだ。
つづく
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