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第二十六話 カルネイル渡河戦 -3-

 日が沈み、夜が来た。カルネイル河畔を吹く風は不気味なほど冷えていた。


 月は大きく欠けていたが、星々の光はいつになく強く、中天を横切る星の道は銀色の雲と見紛うばかりに輝いて、これから戦場となる平原を明るく照らしていた。闇に馴れた目であれば、かなり遠くまで見渡せるほどだった。


 ハキムたちは防寒と防御を兼ねた綿入れを身に纏い、じりじりと落ち着かない時を過ごしていた。周囲の人間は傭兵でも皮鎧やチェインメイルのような、比較的しっかりした防具を身に着けている者が多い。


 しかし一行は慣れない鎧を身に着けることで機敏さを損なうより、最短最速でオヴェリウスに到達することを優先する方がよい、という結論に達していた。人聞きは悪いが、要は周囲の騎兵を楯にし、傭兵を鎧にするということだ。


 もちろん危険に対してまったくの無策、というわけではない。


 トーヤは普段使っている長刀に加え、小振りの弓を携えている。ハキムもまたクロスボウを持っていたが、これは装填に時間がかかるため、いざというときだけ使うことにした。


 攻撃の本命はリズだ。彼女は少し前から、手袋を着けたままでいる。以前ハキムが貸した火鼠の手袋。今はその上から、赤いインクでびっしり文字を書いた薄布を巻きつけていた。


 これもまた儀式魔術の一形態で、彼女が放つ炎を増幅させる効果があるらしい。普通にやれば腕が消し炭になるところだが、そこは手袋の効果を恃むことになる。


 夜半近くとなったころ、ハキムたちから近い方、北岸に点在する松明の群が、にわかにまとまるような動きを見せた。いよいよ敵が睨み合いを止め、渡河を開始しようとしているのだ。


 味方がいる南岸でも、その動きを注視しているだろう。奇襲部隊の間に緊張が満ちていき、来るぞ、来るぞという囁き声がどこからともなく聞こえる。


 そして戦端が開かれた。


 最初の変化は物事の規模に比べるとあまりに静かで、奇妙だった。渡河の前には、ラッパも嚆矢こうしも雄叫びもなかった。その代わり、打ち崩されたティンザー砦の跡地周辺が、うっすらと浮かび上がるように青白く光りはじめたのだ。


 光はやがて靄か薄膜のような朧な輪郭を得、渦巻きながら上に伸びていった。渦の中心に、この力を行使している者がいるのは間違いない。


 それは途方もなく大規模な魔術が発動する前兆だった。魔術に関して一切知識を持たない者でも、これから常識を超えたなにかが起こることは察知できたはずだ。


 林の縁で待機していた奇襲部隊の足元が不穏に揺れた。なにか大きな存在が地中を這っているような気がした。


「憶するな。我々がすることは変わらん」


 不安そうに囁き合う配下を、部隊長が低く厳かな声で叱咤している。ハキムや傭兵たちも支給された軍馬に乗り、いつでも行動に移れるよう準備を整えていた。領主直属の兵たちも同様だ。彼らは銀色の板金鎧プレートメイル突撃槍ランスを装備した重装騎兵である。


 ハキムが様子を見ている間にも、事態は刻々と変化していった。


 冷たい星の光に照らされたカルネイルの河面が、徐々に盛り上がっていった。それは激しい地響きと、持ち上げられた高所から流れ落ちる水音を伴いながら、丘のように隆起する。


 魔術が操っているのは水ではなかった。河の底を突きあげて、固い土砂による橋を作ろうとしているのだ。


「はじまるぞ……」


 部隊の誰かが呟く。乗り手の興奮を感じ取った馬が、ぶるぶると荒い息を吐いて首を振った。


 ティンザー砦に集結していた黒い群が、ぞろりと動いた。それは整然とした前進でも、勇ましい突撃でもなかった。無感情な、非生物的とさえ言える侵攻だった。しかしひとたび接敵すれば、その動きが危険な暴力性と発散するのだということを、ハキムは嫌というほど知っていた。


 死を恐れぬ、そもそも恐れという感情すら持たぬ八千のアンデッドが進撃する。


 おそらくこれが、オヴェリウス率いるキエス軍の基本戦術なのだ。アンデッドを損耗覚悟で突撃させ、相手が乱れたところを統制の取れた正規軍で蹂躙する。キエス本国からハートラッドまで一万六千もの兵を温存できたのは、きっとそうした悍ましいながらも合理的な戦術のおかげなのだろう。


 もちろん、アンデッドを使ってくるのは分かっていた。しかし水深があり流れの速いカルネイルを、迂回するでも舟を使うでもなく一気に渡河してくるとは想像していなかった。南岸に布陣した味方の動揺が、ここまで伝わってくるようだ。


「まだ動くな」


 落ち着かない部隊の兵たちを、隊長が宥めた。彼も中々胆力のある人間だ。


 一方、ハートラッドの側からも反撃が開始されていた。川岸に設置された弩砲バリスタ投石機カタパルトが次々に発射される。槍や岩が星明りの空中を横切り、隆起した河底に命中して土塊やアンデッドを吹き飛ばした。


 接近してきたアンデッドたちに対しては、防壁に配置された射手が次々と火矢を放った。幾百の小さな火が一斉に弧を描いて飛ぶさまは壮観だったが、大軍の進撃を止めるには至らない。


 やがて、アンデッドの先頭が防壁に取りついた。


 そのとき突如として、防壁を覆うように青白い炎の壁が噴き上がった。リズが伝えた夜の火が、大規模な儀式魔術によって広範囲に出現したのだ。


 夜の火はアンデッドの肉体に巡るエーテルを触媒として、水気のある肉体をまるで乾いた藁束のように燃やした。そして飛び散った火花の一片ひとひらがほかのアンデッドに移り、また青い火柱を作る。


 これこそ、対アンデッドの秘術が本領を発揮する場面だった。カラマスで散発的に攻めて来る相手に使われたときと比べ、派手さと殺傷数で数段上の効果を挙げている。


 とはいえ、キエス軍はアンデッドだけから成るわけではない。


 それまで北岸に控えていた人間の歩兵部隊が前進をはじめた。素早く、それでも統制の取れた動きで、隆起した土砂の橋を渡っていく。


 キエスはまだ軍の一部を割いただけに過ぎないが、その数はハートラッド側の全軍とほとんど同規模に見えた。薄く広く伸ばした防衛線で攻撃を凌げるだろうか?


 しかしここで、二つ目の儀式魔術が行使された。


 ハートラッド軍の本陣があると思しき場所から、何本もの太い光の柱が立ちのぼる。塔のような大きさのそれはゆらゆらと高度を上げたかと思うと、突如として放られたように飛翔し、河面へと勢いよくその先端を突っ込ませた。


 うねる光の柱ははじめ水飛沫を上げなかったが、次に河面から現れたとき、それは重量感のある実体を伴っていた。光は分厚い水の膜を纏い、数倍の太さに膨れ上がっている。


 それはまるで水の鞭だった。


 果たして複数の光る水柱は、そのしなる実体を叩きつけるようにして敵軍を襲った。


 ドバァン、という轟音がハキムのところまで聞こえてきた。桶の水を掛けられた程度ならともかく、小さな池の水がひと固まりになって頭に降ってくるようなものだ。巻き込まれた兵士の身体がどうなっているのかまでは見えないが、少なくとも踏み止まることは不可能だろう。


 アンデッドの進撃。大規模な魔術による反撃。戦時における苛烈な侵攻は時として災害に例えられるが、これも間違いなくそういった種類の、人間の常識を逸脱した出来事だった。


 ハキムの傍で、味方が小さな歓声を上げる。しかし、続くそれはすぐに飲み下されることになった。オヴェリウスからの反撃があったのだ。


 またしても河面が隆起して、今度は黒い腕のようなものが伸びてきた。水柱と同じだけの太さがあるそれは、固く力強い動きで河の上を走り、水柱の中ほどを掴んだように見えた。


 互いの魔術が、ぎりぎりと力比べをしているのが分かった。それはこの戦における、一つの分水嶺であるように思えた。


 ハートラッド側の誰もが、祈るような気持ちでそれを見つめていただろう。しかし水は一旦、オヴェリウスの方へと流れた。水柱が黒い腕に握りつぶされると、その先端もただの命なき水に戻り、無害な光る雨となって橋の上に降り注いだ。


 水柱の脅威を凌いだ敵軍が、再び防壁へと押し寄せる。


「全隊、聞け!」


 そのとき、部隊長が声を張り上げた。


「現在、敵軍はカルネイルの渡河に注意を向けている。今が攻撃の好機である。我々の目的は、キエス軍の本陣、オヴェリウスの首ただ一つ」


 いよいよか、と部隊全体が再び緊張に包まれる。ハキムもごくりと喉を鳴らして、指示を聞き逃すまいとした。


「重装騎兵! 予定通り先鋒を務めろ! あの悍ましい化け物どもに、故郷を蹂躙させるな!」


 返事の代わりに、ガシャン、と武具が打ち鳴らされた。


「傭兵隊、重装騎兵に続け! オヴェリウスを討った者には、莫大な恩賞と名誉を約束する。グランゾールの酒場という酒場で、貴様らの英雄譚を歌わせろ!」


 鋭い雄叫びを上げながら武器を振り上げる者。あえて陽気な調子で隣を叱咤する者。傭兵たちの反応はそれぞれだったが、冷笑する者や悪態をつく者、怯えを示す者は一人もいなかった。恐るべき衝突を目の当たりにしてなお、奇襲部隊の士気は高い。


「よし、よし、行くぞ。離れんなよ。気合い入れていけ。ここが正念場だ」


 ハキムは仲間たちに声をかける。それとほぼ同時に、進撃の命が下された。


「進め!」


 こうして三百の騎馬は星明りの平原を行く一本の矢となり、キエス軍の心臓を目指して駆け出した。


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