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第二十七話 逃れえぬ渦 -1-

 星が明るい。


 林の中から出て平原に進み出ると、なおのことそれが感じられる。


 その冷たい光に照らされながら、一団となった騎馬が駆けている。ティンザー砦のすぐ脇にあるキエス軍の本陣、魔術を行使しているオヴェリウスの居処を一直線に目指している。


 ハキムの心臓は高鳴っていた。興奮からではなく、主に緊張から。


 危険なことはこれまでにもあったが、戦争の只中に身を投じるのははじめてだった。鍵や罠や扉ではなく、敵陣を突破したことなど今までに一度もない。どこから、どのような形で死が襲ってくるかと身構えれば、五感は嫌が応にも鋭く尖る。


 馬に便乗しているエシカが身を固くしているのを感じる。彼女も馬に乗ることはできるが、危険を考えてハキムと共にいた。


 武器は護身用の短剣だけ。それとお守り代わりに、貴重な亡霊の指輪を渡してある。姿を隠しての不意打ちならば、なんとか戦えなくもないだろうし、ハキムたちに万が一のことがあったとき、こっそり逃げるのにも使えるだろう。


 もちろん、効果の限界や危険性は伝えており、使用は土壇場になってから、と強く言い含めてあった。


 またハキムの奥の手を預けておく代わり、命がけでエシカを守ることはしない。事前に全員でそう取り決めてあった。彼女は自分の判断で危険な渦に身を投じるのだし、目的はあくまでオヴェリウスを討つことだからである。


 もちろん多少のリスクを冒して仲間を守るのは当然のことだし、トーヤなどはこっそり楯になる決意をしているに違いなかったが。


「ハキム、左前方から敵だ」

 ハキムと並走していたトーヤが、こちらに騎馬を寄せながら叫んだ。


「リズも。僕の右にいてくれ。矢が飛んでくるかもしれないから、頭を低く」


 彼の手綱捌きは堂に入ったもので、自らの馬を操りながら周囲に注意を巡らせ、ハキムやリズを気遣う余裕もあった。


 ハキムがちらりと左前方に目を遣ると、トーヤの言う通り、星明りの平原をこちらへ駆けてくる騎馬の一団があった。奇襲への対応を命じられた敵の遊撃部隊だ。頭数はこちらとほぼ同じ。見事な白銀の板金鎧が、遠くからでも煌めいて見えた。


「このまま突っ切れ!」


 先頭から号令が響く。いちいちやり合っては本陣到達も覚束ない。ハキムは頭を低くして手綱を強く握り、脇目も振らず前方に駆けた。


 やがて部隊同士が交錯し、煌めく突撃槍ランスの穂先が次々に襲い掛かってきた。トーヤが馬上で刀を振り、敵の乗り手を一人叩き落とした。近くで味方の傭兵が一人、槍に貫かれて吹き飛んでいった。その光景を横目に見ながら、ハキムは誰にともなく毒づいた。


 とはいえ騎兵の突進は、防御よりも攻撃に力を発揮する。味方の大半は難なく妨害をすり抜け、敵の本陣まで残り数百歩の距離に迫った。


 しかしオヴェリウスの喉元へ到達するためには、分厚い歩兵の集団を突破する必要がある。馬の速力、奇襲という有利を以てしても、相当の激戦が予想された。


 予想する? それはもう目前にあるのだ。一瞬先の未来にさえ、想いを馳せている余裕はなかった。ハキムはなんとか馬を操ってトーヤの後ろに寄せ、目を閉じないようにしながら、激突に備えるのが精一杯だった。


 そして先頭の重装騎兵が、夜に蠢く鉄兜の群に突っ込んだ。激しい金属音と怒号が響き、土煙が舞う。切り裂かれこじ開けられた間隙に、傭兵たち二百騎が続く。


 これが戦争だ。これが白兵戦だ。転倒した歩兵が馬蹄に踏みしだかれ、突き出された槍や鉤で乗り手が引きずり降ろされる。ハキムも一度歩兵に取りつかれたところを、兜の隙間から短剣を見舞って事なきを得た。落伍は即ち死を意味する。


 より奥へ。より奥へ。熱狂は気持ちを逸らせるが、十重二十重とえはたえの戦列を突破するうちに進撃の速度は落ちていく。しかし退路なき兵たちは強引に道を作り、障害を叩き壊して前へ往く。


 まったくの不意打ちではなかったにせよ、その決死の勢いに気圧されたのか、一瞬守備側の陣形が緩んだ。その隙を見計らい、また前進する。本陣まであと少し。


「ハキム! エシカ! 無事か!」

 前方にいたトーヤが、振り返らずに呼び掛けてくる。


「まだ生きてる! リズ、どこだ!」

「すぐ後ろ!」


 奇襲部隊は七割ほど残っているようだ。まだだ。まだ進める。


 先鋒はいよいよ本陣の至近まで到達しようとしていた。


 しかし突如、目前にあった景色が味方の騎馬ごと消えた。それは星の光さえ呑み込むような、巨大な闇色の壁だった。


 壁からはいくつも触手のようなものが伸びて味方に絡みつき、その肉体を鎧ごと締め上げ、砕いていった。そこかしこから人馬の悲鳴が上がる。


 部隊の一部は馬体を翻して壁を迂回しようとしていたが、それも阻まれた。側面や背後にも黒い壁が現れたのだ。


「ルトゥムだ」


 ハキムの口から言葉が漏れ、背筋を冷たいものが走った。それはオヴェリウスが操るアンデッド中でも、一際異様で悍ましい不定形の怪物だった。しかも以前見た個体より遥かに大きい。数十もの人骨を使って練り上げた特別製に違いなかった。


「助けてくれ!」


 誰かの上ずった声が聞こえる。ハキムは奇襲部隊の纏っていた熱狂が、急速に剥がれていくのを感じた。前進が阻まれ、味方同士の渋滞がはじまった。


 それは非常にまずい状況だった。騎兵の脚が止まれば、あとは数で上回る敵にすりつぶされる運命だけが待っている。壁の隙間からは、カラマスでも見たアンデッドの重装兵が迫って来ていた。


 味方全体に絶望感が広がっていく中、ハキムは短槍を振り回しながら周囲を鼓舞するクーパーの姿を見た。その近くでは、彼の仲間も奮戦している。レザリアでの経験が、この異形に対する恐怖を減じさせているのだ。


「怯むな! コイツは殺せる敵だ。中に入ってる骨を狙え!」


 そう言って、クーパーは立ちはだかるルトゥムの一角に鋭い穂先を突き立てた。巨体の一部が力を失い、動かぬ黒い泥となる。


「もう逃げ道はねえんだぞ! このクソッたれどもを奈落アビスに叩き返して先に進むんだ! こんなところで終われるか!」


 その激励は部隊を多少なりとも勇気づけ、壊乱一歩手前のところで辛うじて踏み止まらせる。しかし意気を保っただけでは、事態を打開するのに到底足りなかった。


 ハキムもクロスボウの一射でルトゥムを傷つけたが、形勢に大きな影響を与えるには程遠かった。四方を塞ぐルトゥムによる囲みは徐々に狭まり、味方は敢闘虚しく追い詰められつつあった。


「ハキム、使うよ」


 すぐ傍らで、決意に満ちたリズの声がした。渦巻き光り輝くエーテルが、彼女の金髪をざわざわと揺らしている。鋼鉄をも溶かす膨大な熱量が、生成され、解放され、顕現するのを待っているのだ。


 リズの腕には火鼠の手袋が着けられ、その上からは呪文の記された白布が巻かれている。今や文字は白熱して布を焼き、熱を通さないはずの手袋さえ焦がしていた。もしこれを皮膚の上に巻いていたら、彼女の腕はやはり骨ごと消し炭になっていることだろう。


 周到に用意した魔術をこの段階で使うかどうか。もはやハキムが答えるまでもない。このときまでに、状況は極めて逼迫していた。目視できる味方は当初の半分以下になっている。


 詠唱が紡がれはじめた。


 彼女の周囲を漂い、ゆっくりと渦巻いていたエーテルがほどかれ、輝く風として四方に広がった。それは術者から離れて一旦光を失ったように見えたが、闇に潜む熱として素早く周囲に伝播した。そして立ちはだかる異形の壁に到達したとき、魔術は恐るべき破壊の力を現した。


「灰になれ」


 ルトゥムや重装兵の身体がひび割れて、その内部から光が見えた。少しでも動ける者は危険を察知して、破裂寸前の敵から距離を取った。


 次の瞬間、星明りに慣れたハキムの目が眩み、耳朶が轟音に震えた。熱を持って膨らんだ空気が全身に叩きつけられ、右も左も分からなくなった。


 しばらくなんとか身を守り、腰に縋り付いているエシカともども、馬から振り落されないよう必死に耐える。火と煙と死が、暴風となって吹き荒れているのだけは感じ取れた。


 ようやく顔を上げたとき、周囲の状況は一変していた。複数いたルトゥムは完全に消滅し、地面には燃え殻さえ残っていなかった。その外側では炎が盛大に燃えている。


 よく見れば、赤々とした灼熱を纏っているのは数百数千の人間だった。もちろん倒すべき敵ではあるのだが、その光景はハキムが戦慄するほどに凄惨だった。味方の大多数も完全に圧倒され、茫然自失となっていた。


「進め!」

 誰かが言った。周囲の何人かが、その声で正気を取り戻した。


「進め!」

 別の誰かが叫んだ。少しして、味方の集団が徐々にまとまりはじめた。


「進め! 進め!」


 やがて大勢がそれに和した。ハキムは片手で手綱を握り直し、空いた手で馬の首を叩いた。馬はブルルといなないて、妙に人間臭い仕草で頭を振った。


「行け!」

 踵で勢いよく馬の腹を蹴り、ハキムは焼けたカルネイル河畔を再び進みはじめた。

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