第七十話 「霊泉の先客」
長い山道を歩く中、急に靄が濃くなった。その靄が妙に暖かいことから蒸発したての水蒸気が滞留しているのだろう、とモチヅキは悟った。靄が濃くて道があまり見えないのが危険だが、壁伝いに歩いていく。
「しかし…今まで歩き詰めで次に登山とは、些か堪えるな…」
なんて一人言を呟きつつ岩の山道を進んでいった。そして、そこから体感で約三十分ぐらいたった頃、山道を歩いていると、花の匂いが漂い出した。心安らぐ香り。モチヅキは匂いの方向へと歩き出して自然と群生している青白い薔薇のような花を見つけた。
「……………この花の匂い。なんだか、懐かしいような…」
モチヅキはその花の匂いを一頻り嗅いだ後、満足気に霊泉へと続く道を歩いた。魔物すら出てこないこの山道は逆に不信感を抱く様なものだった。唯々殺風景な道が続き、時たまさっきの青白い薔薇のような花が生えているような感じだ。ずっとこんな道が続いた。
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岩道を一人、歩いていると唐突に濃かった靄が晴れ、何事かと思ったら青白い薔薇の様な花の群生地に出た。モチヅキは寧ろ歓喜に溢れた。あの花の匂いは何故か心が和やかになる。そんな気持ちになりながら花畑に足を踏み入れた。
「……」
気付けば多くの花の上に腰を下ろしていた。あの劇毒による痛みや痺れは、何故か感じなくなっていた。既に体が慣れてしまったのか、それともこの花のお陰なのかは分からないがモチヅキにとってはどうでもよかった。
「何故この花の匂いはこうも、何処か懐かしく、和やかな気持ちになるんだろうか…」
「それは貴方が一番と感じた記憶を想起させる匂いだからですよ、遥さん」
「!」
誰も居ないはずなのに女性の声が聞こえてきた。口調は剣聖に似ているが剣聖の場合、望月の下の名前は言わない。彼の下の名前を呼ぶ者は彼の中では一人しか居ない。
「鏡華…なのか?」
「ふふっ…。そうですよ、お久しぶりですね」
「でも、なんで…俺は…お前を、なんで?」
「落ち着いてください。あの、蒼台…いえ、こっちでは剣聖でしたか?彼女だって姿変わらずに転移してきてるので私だって転移してもおかしくないと思いますけどね?」
そう言いながらモチヅキの妻、鏡華は笑った。色味のない肌に鏡の様に透き通った銀髪、蒼碧の瞳。普通の人間ではあり得ない見た目をした彼女の麗姿を彼が見間違う訳が無かった。
鏡華はモチヅキの隣に腰を下ろした。
「そうだな…」
「おや?もしかして遥さん、泣いているんですか?」
「何、お前にまた会えたのが嬉しいだけだ。愛する妻にまた会えたのが、嬉しいんだ」
「……そうですね。私も嬉しいです。貴方に喜んで貰えたのが一番嬉しいです」
彼女はモチヅキに体を預けてきた。前の世界に居た時もこの様にしてじゃれていた。それを感じただけでモチヅキは満たされた。
「夢のようだ…本当に…」
「えぇ…。そうです…これは夢なんですよ。貴方はこの夢から覚めて、万治の霊泉に入って毒を抜かなければならない。だから…」
「…そうか。俺の夢か。だからお前が……分かった。俺は進む。そして、やる事を終えてまた、お前に会いにくる」
鏡華の言葉を遮りながらモチヅキは立ち上がり、そう言い切った。すると、自分の体がだんだんと消えていくのを感じ、夢から覚めることを察した。この短時間の間だったが満たされた時間をもう一度味わいたいとモチヅキは感じた。
モチヅキが消えた後鏡華は一人、こうつぶやいた。
「えぇ、待っています。ずっとずっと、貴方のお帰りをお待ちしてます」
普通、本人が目を覚ますと消える夢の世界だが、今回は消えずに残っていた。なので鏡華は青白い花園に腰を下ろして世界と共に消えるのを待っていたが、後ろから男が話しかけてきた。
「あんな短時間で良かったのか?折角君の大好きな夫に会わせてあげたのに」
「……良いんですよ。夢で彼を満足させられたのならそれで…」
「へぇそうかい。なら良かった。じゃあ、俺の糧になれ」
「え…?」
「だってもう満足だろ?俺はこれから無垢な奴らを精神から殺さないと駄目なんだ。それにはまず成長が必要だからな。君のような微弱な物でも必要なのさ」
そう言いながら男は段々と鏡華に近付いて来ていた。鏡華は恐る恐る後ろを振り返る。
すると其処には闇が広がっていた。何処までも続く黒い闇が彼女を喰おうとにじり寄って来ていた。
「ひっ…!い、いや!」
「逃げても無駄だ。だって此処は俺の世界だからな」
「あっ…」
気付けば上も下も闇に覆われていた。そして、次の瞬間______。
広がる闇の中でガラスの様な物が割れる音が響いた。二度、三度、四度。繰り返し音が響いた。
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[モチヅキ視点]
「おーい…ねぇってば、ねぇ!」
「んぁっ!?」
女の声に目が覚める。聞いたことのない声だ。そして、見たことのない天井……天井?
「ここは何処だ?」
「え?此処は霊泉の脱衣小屋だけど…」
「どうして…」
「どうしてと言われても貴方が外で倒れてたからここまで運んで来たんじゃない。泣きながら倒れてるんだからびっくりしたわ」
「そうか…やっぱり夢だったのか…」
という事はあの花畑が見えた時点で俺はぶっ倒れていた事になるのか。毒の痛みとか痺れにやられたのか。それよりこの女は一体…。
「まずはなんだ…此処まで運んでくれて助かった」
「えぇ」
「それで、唐突で悪いんだが、お前は何者だ?霊泉の来訪者にしては、これと言った傷は無さそうだが…」
「さっきまで入ってたからね。この時代に目覚めてから八回も殺されちゃったから此処に来たんだけど此処はすごいねぇ、死亡回数すらリセットされちゃった」
「ちょっと待ってくれ、八回…死んだ?」
「うん。私そういう加護持ってるからね!『絶対的不死』っていうね!」
そう言ってニシシッと笑った。加護という事は旧英雄か。しかし何故だろうか、悪の雰囲気が全く見えない。
「そんな事よりさ、霊泉に浸かりながら話さない?貴方の顔色が凄い悪いから不安だわ」
旧英雄って人の心配をするのか…。と、思いながらも俺は黙ってそれに従った。服をなんとか全て脱ぎ、よろよろと脱衣所の部屋を開けると、湯船が目に飛び込んで来た。ただの温泉じゃないか。
「ん?どうしたの、止まって」
「いや、これが霊泉なのか…?」
「そうだよ。なんでも治せる万能な秘湯。それがこの霊泉!私もよくお世話になるんだよねぇ」
彼女はそう言いながら湯船に入っていった。俺もそれに続いて入る。身に染みるような暖かさだ。ずっと浸かっていたい。
「それより貴方はどういう傷を受けて此処に来たの?」
「お前の仲間の劇毒だ」
「仲間…?劇毒…。あぁっ!八十九級ね!あいつと素手でやりあうなんて凄いじゃない!」
「お前も彼奴らの仲間なら、俺を殺したいとは思わないのか?」
と、敵意の視線を向けながら俺は彼女に問うた。すると彼女は頭を掻きながら答えた。
「別に?私は人を殺すことなんて興味無いし。だって私強いからさ、弱者をいたぶるのとかしないし、剣聖とかそのクラスにならないと相手にはしないかな…」
「八回殺された奴が自分強いとかよく言えるな」
「あっ!?あれは完全に不意打ちだし!?気付かないしそんなの!だって聞いてよ!」
そこから彼女の受けた仕打ちの愚痴を延々と聞かされた。長かった。最後には『まぁ私に見せた攻撃はもう通じないから。次は勝てる』とか言って終わったが。




