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第一章 午前七時十二分

第一章 午前七時十二分


 午前七時十二分。


 目覚まし時計が鳴る三分前に、俺は目を覚ました。


 別に、早起きが得意なわけじゃない。むしろ逆だ。あと五分、あと十分と、鳴りもしない目覚ましに縋りつきながら、毎朝のように布団から出ることを拒んでいる。


 それなのに、仕事の日だけは決まって目が覚める。


 眠っている間でさえ、俺の身体は出勤時間を忘れてくれないらしい。


 天井を見つめる。


 薄汚れた白い壁紙。隅にできた小さな染み。カーテンの隙間から差し込む、どこか頼りない朝の光。


 昨日と同じ部屋、同じ朝。



 そして、きっと今日も同じ一日が始まる。


「……行きたくねえな」


 声に出してみたところで、返事はない。


 当然だ。ここには俺しかいない。


 スマートフォンを手に取る。通知は三件。天気予報、通販サイトの広告、それから会社のグループチャット。


 昨夜の二十三時四十七分。


『明日は少し早めに来るように』


 上司からのメッセージだった。


 何があったわけでもない。ただ、昨日の仕事が予定より少し遅れた。それだけのことだ。


 理由を尋ねる気にはなれなかった。


 尋ねたところで、納得できる答えが返ってくるとは思えなかったからだ。


 俺は画面を伏せた。


 カーテンを開けると、向かいのマンションの窓が見えた。


 洗濯物を干している人がいる。スーツ姿で慌ただしく出ていく人がいる。小さな子どもの手を引きながら、笑っている人がいる。


 みんな、それぞれの朝を生きていた。


 俺だけが、昨日から一歩も進めていないような気がした。


 歯を磨いて、顔を洗って、適当に選んだシャツに袖を通す。


 冷蔵庫を開けたが、食べたいものはなかった。正確には、何かを食べようという気力がなかった。


 扉を閉める。


 静かだった。


 冷蔵庫の低い駆動音と、窓の外を走る車の音だけが、部屋の中に薄く響いている。


 この部屋に帰ってきたとき、俺はいつも思う。


 静かでいい。


 誰にも話しかけられなくていい。誰の顔色も窺わなくていい。何かを失敗して、頭を下げる必要もない。


 ただ、ひとりでいられる。


 それなのに。


 どうして、こんなにも息苦しいのだろう。


     *


 駅のホームには、今日も人が溢れていた。


 電車が到着すると、誰かに押されるようにして車内へ入った。吊り革をつかむ。目の前の男の鞄が、何度も俺の腕にぶつかった。


 すみません、の一言もない。


 別に、謝ってほしいわけじゃなかった。


 ただ、何もかもが少しずつ、俺の神経を削っていく。


 窓に映った自分の顔を見た。


 二十五歳。


 まだ若い、と言われる年齢なのだろう。


 けれど、鏡に映る自分は、ずいぶん前から何かを諦めているような顔をしていた。


 何を諦めたのかは、よく分からない。


入社当初は仕事終わりに寄りたいお店もあったのかもしれない、休日にはどこか行きたい場所があったのかもしれない。それなのに、今は帰りの電車で座れるのかどうか。そんなつまらないことしか考えられなくなった。

 


 電車が揺れた。


 俺は視線を落とし、スマートフォンを取り出した。


 画面には、昨夜の上司からのメッセージがまだ残っていた。


 返信欄を開く。


『承知しました』


 それだけ打って、送信した。


 たった八文字。


 それで今日一日の面倒事が、少しだけ遠のいた気がした。


 もちろん、そんなことはない。


 会社に着けば、また頭を下げる。誰かの機嫌を窺い、理不尽な言葉を飲み込み、何事もなかったように笑う。


 そして夜になれば、この部屋に帰ってくる。


 明日も、その次の日も。


 いつまで続くのだろう。


 そんなことを考えた瞬間、電車のアナウンスが聞こえた。


 次は、俺の降りる駅だった。


     *


 帰宅したのは、午前零時を少し過ぎた頃だった。


 正確な時間は覚えていない。


 玄関の照明をつけ、靴を脱ぎ、鞄を床に置く。


 部屋の空気は冷たかった。


 朝、家を出たときと何ひとつ変わっていないはずなのに、夜の部屋は、いつも少しだけ知らない場所のように感じられる。


 俺は上着を脱いで、机の前に座った。


 食事をする気にも、風呂に入る気にもなれなかった。


 ただ、何も考えずに座っていたかった。


 机の上には、使いかけのノートが一冊置いてある。


 いつ買ったものだったか、思い出せない。


 表紙は少し擦れていて、角が折れていた。最初の数ページには、仕事の予定や買い物のメモが書いてある。その先は、ほとんど白紙だった。


 俺は何気なくページをめくった。


 白い紙が、何枚も続いている。


 何か書こうかと思った。


 今日、何があったのか。


 何が嫌だったのか。


 本当は、誰に何を言いたかったのか。


 けれど、ペンを持っても、何も浮かばなかった。


 言葉にしてしまえば、自分が本当に苦しんでいることを認めなければならない気がした。


 俺はノートを閉じた。


 そのとき、ふと思った。


 もし、この部屋にもうひとり誰かがいたら。


 もし、何も説明しなくても、俺がどれだけ疲れているのかを分かってくれる人がいたら。


 そんな人がいるはずもないのに。


 俺は小さく笑った。


「……何考えてんだ、俺」


 返事はなかった。


 いつものことだった。


 照明を消して、ベッドに横になる。


 スマートフォンの画面には、午前零時十三分と表示されていた。


 明日も仕事だ。


 眠らなければならない。


 目を閉じる。


 それでも、眠りに落ちる直前、俺はなぜか、机の上のノートが気になった。


 誰かに読まれるはずもない、白紙のノート。


 そこに、何かを書き残しておけばよかったのだろうか。


 そんなことを考えながら、俺は眠った。


 このときの俺は、まだ知らなかった。


 この部屋には、俺の知らない夜があることを。


 そして、その夜を生きている誰かが、俺と同じように、孤独を抱えていることを。


⸻

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