第二章 午前零時十三分
午前零時十三分。
僕の一日は、いつもここから始まる。
目を覚ますと、部屋は暗かった。
カーテンの隙間から、向かいのマンションの窓が見える。いくつかの部屋には明かりがついていたけれど、その数は多くない。
誰かが起きている。
ただ、それだけのことだった。
その部屋の中で、誰が何をしているのか。
恋人と電話でもしているのだろうか。それとも、家族でソファーでくつろぎながら、今日あった出来事を話しているのだろうか。
くだらない話をして、笑い合って。
またね、おやすみと言って、それぞれの部屋に戻っていく。
そんな、ありふれた夜を過ごしているのかもしれない。
もちろん、本当のことは分からない。
もしかしたら、あの部屋にいる誰かも、僕と同じようにひとりで夜を過ごしているのかもしれない。
それでも、窓から漏れる明かりを見ていると、つい考えてしまう。
あの光の向こうには、誰かの声があるのだろうか。
誰かの笑顔があるのだろうか。
自分の帰りを待ってくれる人がいて、何気ない話を聞いてくれる人がいて、眠る前に「おやすみ」と言える相手がいるのだろうか。
考えれば考えるほど、そこにあるはずのない景色ばかりが浮かんできた。
「……いいな」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
誰に聞かせるつもりもなかった。
ただ、そう思った。
窓の向こうには、確かに人がいる。
それなのに、まるで世界から僕だけが取り残されているような気がした。
*
夜の街を歩くのは好きだった。
誰もいないから、という理由もある。
でも、本当は、誰もいないことを確かめられるから好きなのかもしれない。
街灯の下には誰もいない。道路の向こうにある自動販売機だけが、白々しい光を放っていた。
遠くから車の音が聞こえる。
それ以外には、何もない。
朝になれば、この街にも人が溢れるのだろう。
駅のホームには、眠そうな顔をした人たちが並ぶ。電車が来れば、誰かに押されながら車内へ入っていく。会社に向かう人もいれば、学校へ行く人もいる。
みんな、それぞれの場所へ向かっていく。
僕だけが、どこへも向かえない。
そう考えて、少しだけ笑った。
別に、行きたい場所があるわけじゃない。
ただ、行こうと思えば行ける場所があるということが、少しだけ羨ましかった。
*
夜のコンビニには、独特の明るさがある。
外の世界から切り離されたような白い光。整然と並んだ商品。誰もいない通路。
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
店員の声がした。
僕は小さく会釈して、飲み物を一本手に取る。レジに持っていくと、店員はバーコードを読み取り、金額を告げた。
「袋はどうされますか」
「いらないです」
「ありがとうございます」
それだけだった。
ほんの数秒。
僕が最近、誰かと言葉を交わした記憶を辿ると、たぶん、この会話がいちばん新しい。
名前も知らない店員。
明日になれば、きっと僕のことなんて覚えていない。
もちろん、それでいい。
覚えていてほしいと思うほど、僕はあの人のことを知らないのだから。
店を出て、ペットボトルの蓋を開けた。
冷たい水が喉を通っていく。
街は、相変わらず静かだった。
僕は歩きながら、ふと、ある部屋のことを考えた。
あの部屋には、いつもひとりの男がいる。
朝になると目を覚まし、顔を洗い、仕事へ向かう。疲れた顔で帰ってきて、机の前に座る。何かを書こうとして、結局、何も書かずにノートを閉じる。
彼はいつも、ひとりだ。
誰かに何かを言いたそうな顔をしているくせに、誰にも何も言わない。
僕は、彼のそういうところを知っていた。
知っているつもりだった。
彼がどんな夢を見ているのかは知らない。仕事で何を言われたのかも、誰に傷つけられたのかも、すべてを知っているわけじゃない。
それでも、彼がひとりでいることだけは、よく分かった。
だから、僕は時々、彼に話しかけたくなる。
今日も大変だったね、とか。
無理しなくていいんだよ、とか。
そんな、ありふれた言葉を。
でも、言えない。
僕の声は、彼には届かない部屋に戻ると、机の上には一冊のノートが置かれていた。
何度も開いては閉じてきた、古いノート。
僕は椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろした。
何かを書こうと思った。
今日、街を歩いているときに見かけた、窓の向こうの家族のこと。
コンビニの店員と交わした、ほんの数秒の会話。
誰とも話さずに終わった、僕の一日のこと。
書こうと思えば、いくらでも書けるはずだった。
けれど、ペンを握ったまま、何も書けずにいた。
本当は、そんなことを書きたいわけじゃなかった。
僕が書きたかったのは、あの人に向けた言葉だった。
朝になれば仕事に行って、疲れた顔で帰ってくる人。
誰にも見せないところで、きっとたくさんのことを我慢している人。
僕は、彼のことを知っていた。
全部ではない。
彼が何を考えているのか、何に傷ついているのか、すべてわかるわけじゃない。
それでも、彼が今日も一日を終えたことだけは、知っていた。
「……今日も、お疲れさま」
誰にも届かない声で呟く。
それから、僕はノートに視線を落とした。
白いページの上に、ペン先をそっと置く。
書いてしまっていいのだろうか。
こんな言葉を残したところで、彼が読む保証なんてない。
そもそも、僕が書いた言葉が、彼に届くことなんてあるのだろうか。
しばらく迷ったあと、僕はゆっくりとペンを動かした。
『昨日も、お疲れさま。』
たった一行。
それだけ書くのに、ずいぶん時間がかかった。
書き終えた文字を見つめながら、僕は小さく笑った。
明日の朝、彼がこのノートを開くだろうか。
もし読んでくれたなら。
もし、ほんの少しでも気持ちが軽くなったなら。
それだけで、今夜は少しだけ、眠れそうな気がした。
僕はノートを閉じた。
そして、誰もいない部屋の中で、もう一度だけ呟いた。
「……おやすみ」
午前零時十三分。
僕の一日は、まだ始まったばかりだった。




