血塗れの大男
家に着くと、俺たちはまず手を洗った。
今日は果物をたくさん抱えて歩いてきたせいか、ルークの手は少しベタベタしている。
それを母さんが丁寧に洗ってやり、二人とも綺麗になったところで、いよいよお楽しみの時間が始まった。
「それじゃ、おやつのパイを作りましょうか」
「やった!」
「パイ!」
母さんの言葉に俺とルークは揃って声を上げる。市場でもらった果物もたくさんあるのだから、これはかなり期待できそうだ。どんなパイになるのかと考えながら、俺たちは母さんと一緒に台所へ向かい、そのままパイ作りを手伝うことになった。
台所に並べられた果物を見ていると、ルークがその中から一つを手に取り、それから作業台に置かれていたナイフへ視線を向ける。
「お兄ちゃん、僕も果物切りたい!」
「ナイフは危ないから、母さんに任せようね」
「えー……」
ルークは残念そうに唇を尖らせたが、俺は首を横に振った。自分で果物を切ってみたいという気持ちは分かるし、こういうところから料理を覚えていくのも悪くないとは思う。
それでも、今のルークに刃物を持たせるのはまだ早い。
「それより、一緒にパイ生地を作るの手伝ってくれる?」
「うん!」
そう言うと、ルークはあっさり気持ちを切り替え、俺と一緒にパイ生地をこね始めた。
よし、これでいい。ルークに刃物を持たせるなんて、俺にはまだできない。もちろん、いつかはちゃんと使い方を教える必要があるだろうし、危ないからという理由だけで何もさせないつもりはない。でも、それはもう少し先でいい。何しろ、俺の弟なのだ。もし、可愛いルークがナイフで怪我でもしたら、俺はそのナイフにありとあらゆる呪いの魔法をかけて、この世から消し去ってしまう自信がある。
……まあ、実際にそんな魔法があるのかは知らないけど。気持ちとしては、それくらいなのだ。
「お兄ちゃん、こう?」
「そうそう。上手だよ」
「えへへ!」
ルークは嬉しそうに笑いながら、一生懸命に生地をこねている。さっきまでナイフを持ちたがっていたことなどすっかり忘れているらしい。
そんな俺たちを母さんがしばらく眺めていたかと思うと、やがて俺のそばまで歩いてきて、耳元へそっと顔を近づけた。
「レオ、ありがとね」
「……うん」
母さんに褒められて、少しだけ嬉しくなる。兄として、これくらいは当然だ。ルークに何かあれば守るのは兄である俺の役目なのだから、などと少し格好をつけたことを考えていた、そのときだった。
「ただいまー!」
玄関のほうから、父さんの声が聞こえてきた。
趣味の狩りから帰ってきたらしい。趣味で狩られる魔獣からしたら、たまったものではないだろうが。
「お父さん帰ってきた!」
ルークが嬉しそうに声を上げると、再び父さんの声が響く。
「ドアを開けてくれー!」
「はーい!」
俺は台所を出て玄関へ向かった。そして扉を開ける。
「父さん、おかえ――」
そこまで言ったところで、俺の声が止まった。
そこに立っていたのは、紛れもなく父さんだった。ただし、いつもの父さんではない。頭から肩、胸元、両腕まで全身が真っ赤に染まり、服もズボンも血で濡れている。暗い赤色の髪には血が絡みつき、紅い瞳だけが妙に鮮明に見えた。
そして何より恐ろしかったのは、父さんが肩に担いでいるものだった。巨大な魔獣。身体中に無数の傷が走り、毛皮は血で固まり、力なく開いた口元からはまだ赤黒い液体が滴っている。その血が、ぽたり、ぽたりと玄関の床へ落ちていく。
「…………ん?」
血まみれの魔獣を抱えたまま、玄関に立っている父さん。その姿だけを見れば、まるで地獄からやってきた怪物だった。……いや。目の前にいるのは、俺の父親なのだが。それでも怖いものは怖い。俺は思わず一歩後ずさったが、その足がもつれてしまい、そのまま尻もちをついた。
「うわあああああっ!?」
情けない声が出た。それでも父さんから目を離せない。
「レオ!?どうした!」
どうしたも何もない。その姿で普通に俺の名前を呼ばないでほしい。怖いから。
その時、台所から母さんがやってくる。
「どうしたのレオ?大丈――」
母さんの言葉も、そこで止まった。父さんと母さんの視線が交差する。しばらくの間、玄関には妙な静寂が流れた。
やがて、母さんの顔からすっと笑顔が消える。
「…………あなた」
「ん?」
「その格好は何?」
「いや、これは狩りで――」
次の瞬間、バコォオオオンッ!というものすごい音が玄関に響いた。
「ぐおっ!?」
どこから出したのか、母さんの手にはフライパンが握られている。そしてそのフライパンが、血まみれの父さんの頭へ容赦なくフルスイングされていた。
「子供たちを怖がらせるような格好で帰ってこないで!」
「す、すまん……」
「せめて、血を落としてから帰ってきなさい!」
「はい……」
父さんはうずくまり、頭をさすりながら、涙目でしょんぼりとしている。ついさっきまで地獄から這い出してきたような姿だったのに、今では完全に怒られた犬の様に見えて、思わず声を掛ける。
「……父さん、大丈夫?」
「ああ……大丈夫だ。ちょっと風呂に入ってくる……」
「そうして。それと、その魔獣はちゃんと片付けといて」
「はい……」
母さんに指示された父さんは、しょんぼりしながら魔獣を抱えて裏庭へ向かっていった。俺はその背中を見送る。ついさっきまで、あまりの恐ろしさに身体が動かなかったというのに、今ではなんだか可哀想なものを見てしまった気分である。
……父さん。強く生きてくれ。
そんなことを考えていると、母さんが俺たちへ声をかけてきた。
「レオ、ルーク」
「なに?」
「どうしたの?」
「あとはお母さんがやっとくから、二人も一緒にお風呂入ってきたら?」
「お風呂!」
「行こう、ルーク」
「うん!」
我が家には風呂がある。一般家庭ではやや珍しいそれは、母さんの強い要望で設置されたものらしい。元日本人の俺にとってはとてもありがたいが。
◇
俺たちが湯船に浸かっていると、粗方血を落としてきた父さんも入ってきた。
「父さん、さっきの魔獣って何?」
「ん? ああ、あれか」
「あれは森の奥で見つけた魔獣だ。結構強かったぞ」
「どうやって倒したの?」
ルークが目を輝かせる。
「それはな――」
父さんは嬉しそうに、魔獣を見つけたときのことを話し始めた。どうやって追跡したのか、どんな場所で戦ったのか。さらに、昔冒険者をしていた頃にはどんな魔獣と戦ったのか。
なかなか、いや、かなり刺激的な内容の話を聞いているうちに、俺は改めてこの人が元Aランク冒険者だったことを実感していた。
「冒険者って、そんなに危ないの?」
俺が尋ねると、父さんは少し真面目な顔になった。
「ああ。楽な仕事じゃないぞ。強い魔獣と戦うこともあるし、危険な場所に行くこともある。命の危険が多いが、その分やりがいもある仕事だ」
「ふーん……」
「レオ、冒険者に興味があるか?」
父さんが俺を見る。俺は少し考えてから首を横に振った。
「うーん……すごいなぁとは思うけど、やっぱり僕は父さんみたいな衛兵になりたいな!」
「僕も!」
隣にいたルークも元気よく続ける。
「レオ……! ルーク……!」
父さんの声が震えた。……あ。これはまずい。そう思ったときには、もう遅かった。父さんの目に、みるみる涙が溜まっていく。やばい。また父さんが泣き出してしまった。俺とルークは顔を見合わせ、なんとか父さんをなだめることになった。
そんなこんなで風呂から上がり、身体を拭いて服を着る。そして居間へ戻ろうとしたところで、ルークが突然足を止めた。
「……いい匂い!」
俺も鼻を動かしてみる。甘くて香ばしい匂いがする。焼けた果物とバターが混ざったような、なんとも食欲をそそる匂いがキッチンのほうから漂ってきていた。
「パイだ!」
「うん!」
俺とルークは顔を見合わせる。さっきまでの父さんの血まみれ姿も、風呂で聞いた冒険者の危険な話も、そして最後には父さんが泣き出したことも、今この瞬間だけはどうでもよくなった。
俺たちは顔を見合わせると、どちらからともなくキッチンへ向かって駆け出した。
血まみれの魔獣を抱えた父さんが帰ってきたことで始まった、少しばかり恐ろしい休日の午後。
けれど、そんな休日の最後に俺たちを待っていたのは、母さんが焼いてくれた甘くて香ばしいパイと、裏庭に吊るされた魔獣だったものだった。




