禁忌の技
とある休日の朝。
俺はいつも通り、早い時間に目を覚ました。隣を見ると、ちょうどルークも目を覚ました所だ。二人で顔を洗い、着替えを済ませて食卓へ向かうと、母さんが台所で朝食の準備をしていた。
「おはよう、母さん!」
「おはよう!」
「ふふっ、おはよう」
母さんは料理を作りながら、俺たちに挨拶を返してくれる。
そして少しだけ考えるような素振りを見せると、こちらを振り返った。
「そうだ、二人とも悪いんだけど、お父さんを起こしてきてくれる?」
「父さんを?」
「そう。そろそろ塩と小麦粉が無くなりそうだから買ってきてもらいたいんだけど、まだ寝てるの」
俺とルークは顔を見合わせた。父さんは休日になると、なかなか起きない。
仕事の日なら早く起きて身支度を整え、時間より少し早く職場へ向かうくらいなのだが、休日になるとまるで別人だ。
普段の規則正しい生活はどこへやら、昼近くまで平然と寝ていることすらある。
「わかった!」
「お父さん起こしてくる!」
ルークが元気よく返事をし、俺たちは二人で父さんの寝室へ向かった。
◇
扉を開けると、予想通りの光景が広がっていた。父さんはベッドの上で大の字になって眠っている。ただでさえ体のデカい筋骨隆々の男である。その父さんが大の字になって寝ているものだから、普段なら十分な広さのはずのベッドが、やけに狭く見えた。
「父さん、朝だよ!」
「お父さん、起きてー!」
返事はない。
「父さん?」
「お父さーん?」
やっぱり起きない。俺はベッドの横まで近づき、父さんの肩を揺すった。
「父さん、朝だって」
「……ん……」
おっ、少しだけ唸った。これは起きるか?
そう思ってしばらく待っていると、父さんが小さく呟いた。
「……あと五分……」
駄目だ。ルークも父さんの腕を両手で掴んで、一生懸命引っ張っている。
「お父さん、起きてー!」
しかし、四歳児の力で元Aランク冒険者の大男を起こせるはずもない。
父さんの腕は少し動いたものの、本人はまるで気づいていない。
俺も反対側から腕を掴み、ルークと一緒に引っ張る。
「せーの!」
「うーん!」
二人で力を合わせると、父さんの身体がほんの少しだけ動いた。
「ん……?」
おっ、これはいけるか?
そう思った次の瞬間——。
「……すぅ……」
「駄目だ!」
「起きないね……」
完全に振り出しに戻った。
その後も俺たちは、肩を叩いたり腕を引っ張ったり、耳元で「目覚めよ……」と囁いてみたりと、思いつく限りの方法を試してみた。しかし、父さんは一向に起きる気配がない。
二人で父さんを見つめながら、俺は腕を組んで考え込んだ。
「お兄ちゃん、どうする?」
「うーん……」
俺は改めて父さんを見る。いくら考えても、普通の方法では起きそうにない。声をかけても駄目、揺すっても駄目、引っ張っても駄目。二人がかりで起こそうとしても、本人はまるで意に介さず、気持ちよさそうに眠り続けている。
そこで、ふと思いついた。
「ルーク、父さんのお腹の上に飛び乗ってみよう」
「いいの?」
「たぶん」
たぶん、という時点で自分でもどうかと思うが、他に良い方法が思いつかない。
俺たちはベッドによじ登ると、眠り続ける父さんの身体を見下ろした。
「せーの!」
ドスン!
二人で父さんのお腹の上に飛び乗る。
「ぐっ……!」
さすがに父さんが呻いた。
「おっ!」
「起きた?」
これはいけるかもしれない。そう思っていると、父さんがゆっくりと目を開けた。
「……なんだ……?」
「父さん、おはよう!」
「お父さん、おはよう!」
「……ああ……おはよう……」
よし、起きた。俺は内心で小さくガッツポーズをした。
これで母さんから頼まれた仕事は無事完了——。
「…………」
父さんは再び目を閉じた。
「寝た!」
「また寝た!」
駄目だこいつ……早く何とかしないと……。
俺は思わず頭を抱えた。
「お兄ちゃん、どうしよう?」
「…………」
どうする。声をかけても駄目、揺すっても、叩いても駄目、引っ張っても駄目。
それどころか、二人がかりで身体の上に飛び乗っても、ほんの一瞬しか起きなかった。
なら、もっと強い刺激を与えるしかない。俺は父さんをじっと見つめながら考えた。そして、一つの案が頭に浮かぶ。
……いや、しかし。さすがに、それは危険だ。しかし、もう時間もない。母さんから頼まれた仕事なのだ。ここまでやっておいて失敗するわけにはいかない。俺はしばらく迷った末、覚悟を決めた。
「ルーク、ちょっと離れて」
「?」
「最終手段だから」
「さいしゅうしゅだん?」
「うん」
意味は分かっていないだろうが、ルークは素直に父さんから離れてくれた。俺も父さんから少し距離を取り、ゆっくりと腰を落とす。
視線の先には、未だに気持ちよさそうに眠っている父さん。狙いは決まっている。我ながら、恐ろしいことを考えていると思う。俺は今から、禁忌を犯そうとしているのだ。だが、ここまでやっても起きない父さんが悪い。そう自分に言い聞かせ、覚悟を決めた俺は足に力を込める。
最終手段、そう——。
父さんの股間めがけて、エルボー・ドロップを決めるのだ。
そして、飛び上がろうとした、その瞬間。
「レオ、何してるの?」
「…………」
背後から声が聞こえた。俺の身体が完全に固まる。嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、ゆっくりと振り返る。
そこには母さんが立っていた。
「……母さん」
「何してるの?」
笑顔だった。ただし、目が笑っていない。まずい。非常にまずい。
俺は必死に頭を回転させた。正直に言うのは論外だ。かといって黙っていても、今の姿勢を見られている以上、何か説明しなければならない。
ならば——。
「あ、いや……父さんが起きないから、お腹に飛び乗ろうかな~って……ハハハ……」
母さんは何も言わず、しばらく俺を見つめていた。俺も笑顔のまま固まるしかない。部屋の空気が妙に重くなり、隣ではルークまで何かを察したのか、静かに母さんと俺を見比べている。
やがて母さんは小さくため息をついた。
「……そう」
その一言とともに、母さんの周囲に魔力が漂い始めた。
「ひっ!」
思わず息を呑む。母さんから魔法を教わっている俺には分かる。これは非常にまずい。
母さんは何も言わずにベッドの横まで歩いていくと、未だに気持ちよさそうに眠っている父さんを見下ろした。
しばらく沈黙が続く。俺も、ルークも、何も言えない。
そして母さんは、いつもよりずっと低い声で、たった一言だけ、父さんの耳元で呟いた。
「起きろ」
瞬間——。
「うおおおおおおっ!?」
父さんがベッドからものすごい勢いで飛び起きた。まるで襲撃を受けた兵士のように。
「な、なんだ!? 何事だ!?」
父さんは周囲を見回している。しかし、敵なんてどこにもいない。いるのは母さんと俺とルークだけだ。
そして父さんは、ようやく目の前に立つ母さんの姿に気づいた。
「あ……」
父さんの動きが止まる。
「セ、セレナ……?」
「おはよう、あなた」
「…………お、おはようございます」
一瞬で敬語になった。さすが父さん。判断が早い。
「朝ご飯できてるわよ」
「はい!」
父さんは元気よく返事をすると、ものすごく素早い動きで寝室を出ていく。さすが元Aランク冒険者、逃げ足も素晴らしい。俺はその背中を呆然と見送っていたが、やがて隣にいる母さんの視線に気づいた。
ゆっくりと振り返る。
「レオ」
「はい!」
反射的に背筋が伸びた。
「危ないことしちゃダメよ」
「…………」
「ハイッ!」
大きな声で素直に返事をして敬礼する。
朝食の準備に戻る母さんの姿を見つめ、しばらく動けないでいる俺の隣では、ルークが不思議そうな顔で俺を見ていた。
「お兄ちゃん、何しようとしてたの?」
「…………」
俺は何も答えられなかった。
◇
「おう! 二人とも早く食べよう!」
ルークとともに食卓に戻ると、父さんが大きな声で俺たちを呼ぶ。
――ついさっきまで、何をしても起きなかったくせに。思わずそう突っ込みたくなったが、口には出さない。隣ではルークが嬉しそうに笑っているし、母さんは何事もなかったかのようにテーブルに朝食を並べている。
父さんも、さっきまでの騒ぎなどすっかり忘れたような顔で笑っていた。




