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 わたくしの親世代に話をうかがうと、小学生の頃、クラスに一人くらいアイヌのクラスメイトがいたらしいです。


 話を訊いた方が室蘭の方だったのでクラスに一人だったのですが、多分地域でこの割合が変わってくるのでしょう。


 アイヌの生徒は総じて、文房具を揃えられぬ位貧乏で、その事で他の子どもにバカにされていましたが、皆何故かビックリするくらいの美男子、美少女だったらしいです。

 

 アイヌ人は背が低いが手足が長くスラリとしていて、色白で、中にはちょっと目が青い人もいたらしいです。


 ずんぐりむっくりの和人の子供たちにとっては、この薄幸の美男美女達は、さぞかし(うらや)(うら)めしかったことでしょう。

 

 

 現在、アイヌ人の人口は何人なのか?

 それは、アイヌ人とは如何なる人々の事を指すのかによって変わって来ます。


『③』にて前述しましたが、大まかな分類でも、北海道のアイヌは五つに分かれていて、しかも、それぞれかなり違いのある民族で構成されていました。


 日本人は一応『モンゴロイド』に分類されますが、アイヌ人は『アイノイド』と称される、モンゴロイドが、コーカソイド等、他の人種と分岐する前の特徴を残す、旧モンゴロイドの血が入っている方がいます。

 多分そのアイノイドの遺伝子が、アイヌ人の身体的特徴として表れるのでしょうが、コレも混血が進んだ現在では、アイヌ人をアイヌ人たらしめる決定的な証拠とはならないでしょう。  

 

 混血が進み、遺伝学的、生物学的アプローチによって分類できぬほど、北海道人の血は混ざり合ってしまいました。


 では、文化、生活などでアイヌ人を見分けることは出来るのでしょうか?


 アイヌの祭事として有名なのは熊送りの儀式『イヨマンテ』です。

『イヨマンテの夜』の歌をご存知の方もいらっしゃるでしょう。

 縄文人の『イノシシ祭り』という、本当にやっていたのか確かめる術のないものを起源とする節もありました。

 しかし、アイヌに先行する擦文文化期の、北海道内の遺構からは、ヒグマを祀ったような痕跡が見つからないそうです。


 一方、樺太や千島などオホーツク文化圏、さらにはユーラシア大陸の北極圏に近い亜寒帯内陸部、いわゆる『タイガ』に暮らす狩猟民族にはイヨマンテに似た熊送りの儀式が有ることから、この大陸由来の儀式にて、日本古来の文化とは異質な、北方文化の証左とする事が出来るかもしれません。


 しかし、北海道のアイヌ総てが、ヒグマにしろシマフクロウにしろ、狩りの対象を歓待し、その後殺して神の国に送り返すという、イヨマンテの儀式をやっていたわけではないのです。

 なにしろ色々な人々が暮らしてきたのですから。


 北海道の有る場所をよく見てください。

 北からサハリン(樺太アイヌ)、東からカムチャツカ~千島(オホーツク文化人)、南から本州(大和民族)。

 北海道は、交差点と呼ぶには西側が足りないので、『民族の交差点』ならぬ『民族の追分』なのです。



『アイヌ』とは、アイヌ語で『人間』の事です。

 これはつまり『(カムイ)』の対義語でしかありません。

 和人、つまり日本民族の事をアイヌは『シサム』と呼びます。

 これは「お隣さん」くらいの意味です。

 敢えて誤解を恐れずに言えば、アイヌ人は『人間』と『神』を区別しても、人間同士は区別していないのです。 


 これはアイヌの美徳と思いますが、思想、心情的な平等の発露と云うよりも、文字文化を持たない故の歴史観の欠如と、狭いテリトリーで暮らしてきた故、世界の広大さと多彩さの認識の欠如が原因でしょう。


 これらアイヌ人の、言ってみれば大らかさを逆手に取り、北海道に独立国を誕生させようと云う試みが、現在進行形で行われております。


 北海道に暮らしていた様々な背景のある人達を、無理矢理に合体させて、キマイラのように歪な、『アイヌ民族』なるものを創造し、国連で定められた『先住民族の権利に関する国際連合宣言』を論拠として、先住民族としての権利を主張する運動です。


 わたくしはアイヌ文化を愛する者ですが、この運動には反対します。

 これはなにも、わたくしが北海道に入植した開拓民の子孫というルーツがあるからと云うわけではありません。


 この試みは北海道各地に残るアイヌ文化の残滓を、完全に破壊する行為だからです。

  

 2020年、民族共生象徴空間などと銘打って白老にオープンした『ウポポイ』をご存知でしょうか?

 コロナの影響で一時延期になりましたが、当時官房長官だった菅首相がオープン時に訪れております。

 白老のポロト湖という小さなみずうみに面したその場所にはウポポイ以前にも『ポロトコタン』という、アイヌの博物館が有りました。

 

 白老にはアイヌが住んでいたからこそこの場所なのでしょうが、この地に住んでいたのは『シュムクル』と呼ばれる人達で、東北地方からやってきた蝦夷(エミシ)の末裔です。


 シュムクルが暮らした白老に有るウポポイにて、客向けの公演プログラムに、シュムクルと血みどろの抗争を繰り広げた道東メナシクルの祭事『イヨマンテ』を題材とした演舞等があることに、アイヌの人達は違和感を感じないのでしょうか?


 かつて北から侵入し、遺伝子が変化するほど殺され強姦された樺太アイヌの服を、シュムクルのコタンがあったウポポイに飾ることに抵抗は無いのでしょうか?


 どの位の人数のアイヌの方がウポポイで働いているかは分かりませんが、ひょっとしたらアナタの祖先を虐殺したアイヌの衣装を着させられ、アナタの祖先を虐殺したアイヌ達の真似事をさせられているのかもしれないのに。


 現在、ウポポイにて、さらに北海道各地にあるアイヌ系施設で行われるアイヌ文化を紹介したプログラムに見受けられる『浅はかさ』は、各地で培われてきたアイヌの文化的背景を無視して、画一的な統一規格の『アイヌ民族』なる架空の種族を紹介しているからです。


 今も残るアイヌの方々から、現状に対する違和感が、もし、今後も出ないのだとしたら、それは各地の文化がすでに死に絶え、彼らにしても答えが見いだせないからでしょう。


『人種』という言葉で定義するならば、DNA鑑定など生物学的なアプローチでアイヌ人を見定めることが出来るのでしょうが、『民族』という言葉で定義しようとすると、それは言ってみれば心意気の問題なので、わたくしが突然服を脱いで鮭の皮を体に張り付けて、マレプ(鉤爪の付いた銛みたいな漁具)を手にしたら、もしかしたら普通に都市で暮らす現代のアイヌ人より、アイヌ民族になれるかも知れません。


 まさに今、出自の怪しい似非アイヌ人か、増えています。


 アイヌ人としてのアイデンティティを守り、アイヌとして生きていきたいアイヌ人の方達は、この様な一見味方のようで、実はあなた方の文化を軽視している似非アイヌ人を、あなた達が培った文化で正さなければいけないのです。


 こんな事をわたくしが意見しようものなら、


「昔にあった些細な違いをあげつらい、アイヌ民族を分裂させようという差別主義者だ!!」


 と、一斉攻撃されるでしょう。


 仮にそう言われたのならば、大和民族であるわたくしにはこう答えるしかありません。

  

「そうですね。 

 昔にあった些細な違いをあげつらい、(日本)民族を分裂させようという行為も、良くありませんね」

 



 エミシとエゾ    了



----------


本文はここで終わりですが、紹介しきれなかったトピックスを少しだけ続けます。


 

 ウポポイは概ね不評で、特に展示物にある「OK印の小刀」が物議を醸しています。 


 OK印の小刀とは、大阪で主に農具などを製造している岡田製作所の商品です。


 展示されている場所に説明文が無いので一見、「アイヌの作った小刀なのかな?」と思ってよくよく見ると柄に『OK印』。


「こんな戦後の、しかも大阪で作った農具を、アイヌの品みたいに展示するなんて!」


 などと呆れたり怒ったりする方が多いそうですが、これは有る意味アイヌを象徴する品です。


 前述しましたが、アイヌ人には鍛冶技術が有りませんでした。


 北海道に住んでいた擦文時代の蝦夷(エミシ)達を蝦夷(エゾ)たらしめたのは、交易により和人から入手した鉄器と、『アイヌ漆器』と呼ばれる(うるし)製品の存在が大きいからです。


『チセ』と呼ばれるアイヌの家はワンルームです。

 ウポポイにも再現されたチセが有りますので見た方、入った方もいらっしゃるでしょう。

(当然ですが本物のチセには、ウポポイの奴みたいに電源コンセントやサッシ窓なんて有りませんが)

 チセの東側には「宝物」を置く場所があります。

 東面の壁にはタペストリーのような紋様が入ったゴザを張り、和人との交易で得た太刀や漆器具などを置いていました。

 何故漆器なのか?

 漆器に入れた汁は気温が低くても冷めにくいので、アイヌの人達にとても重宝されたのです。

 祭具としても使われるほど漆器具はアイヌ文化の重要な位置を占めました。

 漆器に描かれた柄を見てみると、そこには日本の伝統的な文様である「三つ巴」だったり、武田氏の流れを汲み道南渡島半島を支配した蠣崎~松前氏の家紋である「丸に割菱」が描かれていました。

 漆器ははじめ、松前藩に『朝貢』したアイヌの酋長達への『お土産』だったらしいです。 

 アイヌ人は大層喜び、毛皮などの産物と交換して漆器を手に入れたそうです。

 内地の職人は、お客であるアイヌのニーズに応える為なのか、熊などアイヌの人たちが喜びそうな絵を漆器に描いています。

 これらのアイヌ漆器を使って「熊送り(イヨマンテ)」の神事などを執り行っていたのでしょう。


 わたくしは、この事を考えると、世間一般で云われるほど、当時のアイヌと和人の関係は、険悪ではなかったのではないかと思うのです。

 

 だって職人は、相手の喜びそうな製品を作っているのだから。



 

 北海道南部、最古の寺院が有る有珠は、二十年毎に噴火する有珠山を始め頻繁に災害のある地域ですが、ここにもアイヌが住んでいました。


 有珠にはこんな民話が残されています。


 ウスコタンには昔、善良なアイヌが住んでいたが、噴火で集落は全滅してしまった。

 その後何処からか流れてきた悪いアイヌが住み着いたので、今でもウスコタンには悪人が多いのだ。


 なんとも救いのない話である。


 有珠には善光寺という寺があり、一応北海道最古の寺院となっています。 

 寺の前身となるお堂に阿弥陀像が安置されたのは、伝えるところによるとなんと西暦826年。


シャクシャインの乱で焼かれ、荒廃したお堂が松前藩によって再興し、善光寺と呼ばれるようになるのは1613年頃以降らしい。

 平安時代、この有珠の辺りにはどの様な人々が居たのか?

 わたくしの予想では、そこには蝦夷エミシ)が住んでいたのではないかと思うのです。

 つまりは、稲作に対応できなかった大和民族です。




 わたくしが縄文時代が好きなのは、これは推測なのでしょうが、この時代に貧富の差が余りなかったという事と、犬が埋葬された跡が有り、しかもその犬には骨折の治療痕があって、つまりは猟犬として猟の役に立たなくなってもその犬を飼い続けて、死後に埋葬している程ワンコ好きなところです。


 樺太アイヌはそんなに犬には優しくなかったみたいです。

 

 北海道北部と樺太中部の貝塚のような場所から、解体痕のある犬骨が沢山出てきます。 

 また樺太アイヌは、犬の毛皮をまとっていました。


 これらの事柄からも樺太アイヌは縄文人の後継者では無いような気がするのです。  



 以上で終わります。


 ありがとうございました。

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