自分が面白くないと思う作品がランキング上位にいることを「不正」と言いたがる人の心理
以前にも別のエッセイか何かでチラッと書いたことがある気もするが、一度この題材を主にした考察としてまとめてみたいと思う。
表題の件。
結論から言うと「認知的不協和」が原因であろうと考えている。
「認知的不協和」とは何ぞやということに関しては、検索をかければ簡単に出てくるので、知らない人にはその方向でお願いしたい。
「すっぱい葡萄」の寓話が出てくるだろう。
まあ一応、僕の理解で大雑把に説明しておくと、「人間は矛盾したものを内側に抱えていると気持ち悪いから、その矛盾が無くなる方向に思考を逃がすものだ」ということだ。
そして、「自分が面白くないと思う作品がランキング上位にいることを『不正』と言いたがる人」には特徴があって、それは「面白い作品は誰が読んでも面白い」と思っていること。
この考え方こそが、彼の中で認知的不協和を起こす原因になっている、と僕は考えている。
ライトノベル系の記事をまとめているニュースサイトのコメント欄などを見ると、特定の作品の「アンチ」が湧いているのをよく見かけるだろう。
リゼロはクソだとか、禁書のどこが面白いんだとか、まあまあとにかく自分が嫌いな作品の悪口を言いたがる人であふれている。
実は僕なんかも、『とある魔術の禁書目録』はいまいち自分の中ではヒットしなかった人だ。
人気作だから読んでいれば面白くなってくるのかと三巻ぐらいまで読んだのだけど、どうにも首を捻る感じだったのでそこで切った。
かと思うと、一方では『とある科学の超電磁砲』などを見ると面白いと感じるのである。
この意見を言うと「あー、分かる分かる」と言う人にも結構出会う。
この二つの作品はわりと良い対比で、なかなか綺麗に好みが分かれるのではないかと思っている。
ただこのとき「面白い作品は誰が見ても面白い」という考え方を根っこに持っていると、そこで認知的不協和が生じる。
前提1:『とある魔術の禁書目録』は人気作なので、誰が読んでも面白い作品であるはずだ。
前提2:『とある魔術の禁書目録』は僕が読んでもあまり面白くない。
結論:矛盾、矛盾、気持ち悪い、気持ち悪い!
ということになる。
で、この場合はさすがに「不正」と言うのは無理があるので、「『禁書』を面白いというヤツは作品を見る目がない」とか、そういった方向に思考を逃がす。
こうすれば自らの自尊心も傷付けずに済み、一石二鳥の「解決策」となる。
余談になるが、一部の作者が「読者に見る目がない」などと言うのも、おおよそこれと同じ心理現象だろう。
自分が面白いと思う作品が評価されないことに対して、大多数の読者を見下すことで、自尊心の確保と認知的不協和の解消の両立をはかっているわけだ。
さてもう一つ。
この認知的不協和の解消方法として、さらに拗らせたパターンがある。
それは、「『禁書』を面白いと思うことは間違っている」という方向に思考を逃がすというものだ。
『禁書』に人気があることは間違っている、それはあるべき世の中の姿ではないと考えるわけだ。
すると彼は『禁書』の人気や「間違っている奴ら」を攻撃し始める。
世の中を正しく、あるべき姿にしなければならないと考えるのだ。
至るところで執拗に作品を攻撃し、貶めようとする「アンチ」の誕生である。
さてここまで説明すれば分かると思うが、「自分が面白くないと思う作品がランキング上位にいることを『不正』と言いたがる人」というのも、これとまったく同じ心理の過程をたどっているものと考えられる。
それを「不正」であることにすれば、彼の中ですべてが綺麗にまとまってくれるのだ。
それがすごくすっきりするから、そこに思考を逃がす。
だけど僕は、あるべき方向はそうじゃないと訴えたい。
「面白い作品は誰が読んでも面白い」という考えのほうを捨てるべきなのだ。
それですべての認知的不協和が解消するし、誰かに冤罪を押し付けることも、無闇に誰かを貶めるようなこともせずに済むようになる。
非常に素晴らしい作品は、それを見た人の95%が面白いと感じるかもしれない。
でも「残りの5%」に自分が入っていてもいいだろう。
それは決して劣っていることでも何でもないし、人の感性というのは人それぞれ違っていて良いものだ。
僕はそのように考えている。
さらに付け加えると、「小説家になろう」の読者層の感性の平均値は、かなり「偏っている」傾向にあると思われる。
「小説家になろう」の読者層と、月9ドラマの視聴者層と、朝ドラの視聴者層と、週刊少年ジャンプの読者層と、深夜アニメの視聴者層と、ハリウッド映画の視聴者層とでは、それぞれ好みの性質が大きく異なってくる。
これを全部まとめて一緒くたにした、層の偏りを意識しない見方で「面白い」を語ると、「大きな偏りのある文化圏内では」大きく「外す」ことになる。