第6話「温かな毛皮と甘い微熱」
昼を過ぎた頃から、森の天候は急激に悪化し始めた。
灰色の雲が空を重く覆い尽くし、強風が雪を巻き上げて視界を白く染め上げる。
肌を刺すような猛烈な吹雪が、ロマンの体力を容赦なく削り取っていった。
分厚い外套を着込んでいても、布の隙間から入り込む冷気が針のように骨まで凍らせる。
『足が、もう動かない』
膝まで埋まる新雪をかき分ける力は、すでに彼の腕と足から失われていた。
肺が冷たい空気を吸い込むたびに痛みを訴え、視界の端がかすれ始める。
雪に隠れた木の根に足をとられ、ロマンは前触れもなく雪原へと倒れ込んだ。
「くそ……」
かすれた声が、吹き荒れる風の音にかき消される。
立ち上がろうと腕に力を込めるが、筋肉は麻痺したように言うことを聞かなかった。
このまま雪に埋もれてしまえば、二度と目を覚ますことはないだろう。
死の気配がすぐそばまで迫ってきたとき、強烈な風雪が不意に止んだ。
いや、風が止んだのではない。
巨大な銀狼が、倒れ込んだロマンをかばうように風上に立ち、その巨体で吹雪の壁となっていたのだ。
銀狼は雪に顔を埋めるロマンの襟首を、鋭い牙で優しく咥え上げて上体を起こさせた。
そして、自らの前足を折り曲げ、ロマンの目の前で低い姿勢をとる。
「乗れって、言うのか」
広い背中を指し示すような仕草に、ロマンは目を見開いた。
魔獣や獣人が誇り高く、やすやすと背中に他者を乗せないことは前世の知識として知っている。
ましてや、これほど神々しい威容を誇る獣が、人間の乗り物になるなど考えられないことだった。
しかし、黄金の瞳は強い意志を持ってロマンを急かしている。
背に腹は代えられない状況に、ロマンは震える腕を伸ばして上質な毛並みをつかんだ。
這い上がるようにして広い背中にまたがると、銀狼は力強く立ち上がった。
視線が信じられないほど高くなり、厚い毛皮の熱が太もも越しに全身へと伝わってくる。
ロマンが首筋の毛を強い力で握ったのを確認すると、銀狼は雪を蹴って走り出した。
吹雪の森を駆け抜けるその速度は、人間の足とは比較にならないほど速い。
それだけの速度を出しているにもかかわらず、背中の揺れは驚くほど少なかった。
冷たい風は銀狼の巨体が切り裂き、ロマンの元にはただ頼もしい温もりだけが残る。
どれほどの時間が経ったのか、銀狼は岩山の陰にある小さな洞窟を見つけて足を踏み入れた。
風の吹き込まない静かな空間に、ロマンは安堵の息を長く吐き出す。
背中から滑り降りようとしたが、凍え切った足は着地の衝撃に耐えられず、彼はそのまま崩れ落ちそうになった。
すかさず銀狼が鼻先で彼の体を支え、ゆっくりと地面に座らせる。
「情けないな。助けてもらった上に、世話までかけちまって」
ロマンは自嘲気味に笑うが、歯の根が合わずに言葉がかすれた。
限界まで冷え切った体は、細かい震えを止めることができない。
すると、銀狼はロマンの体に巻き付くようにして、その巨体を丸く横たえた。
柔らかく豊かな尻尾がロマンの膝を覆い、温かい腹が彼の背中を隙間なく包み込む。
冷え切った洞窟の中で、そこだけが別世界のように甘い熱を帯びていた。
ロマンは銀狼の体温にすがりつくように、その毛並みに顔を埋めた。
呼吸をするたびに、獣特有の匂いではない、不思議なほど甘く落ち着く香りが肺を満たす。
それは、運命の番同士だけが感じ取れる、魂を焦がすような深い香気だった。
ロマンはその香りの意味を知らないまま、熱に浮かされたように目を閉じる。
凍えていたはずの体の芯から、微熱のような甘い痺れが広がっていくのを感じていた。
カルステンの胸の高鳴りが、密着した背中を通してロマンの心音と深く重なり合っていく。
二人の魂が、冷たい雪山の片隅で静かに共鳴し始めていた。




