第4話「言葉の通じない獣にこぼした本音」
森の木々の隙間から、朝の白々とした光が真っ白な雪面へと差し込んでいた。
ロマンは心地よい温かさの中で、緩やかに意識を戻す。
まぶたを開けると、目の前には一面の銀色の毛並みが広がっていた。
彼は自分が、巨大な狼の腕の中に隙間なく包み込まれて眠っていたことに気づく。
『しまった、傷に障ったかもしれない』
ロマンは慌てて体を起こし、銀狼の後ろ足を確認した。
しかし、布を巻いた傷口からはすでに血がにじんでおらず、周囲の腫れも引いている。
傷口そのものが、一晩で驚異的な回復を見せて塞がりかけていた。
獣人や一部の魔獣が持つ並外れた治癒力を、彼は目の当たりにする。
「すごいな。もうほとんど治っているじゃないか」
ロマンが感嘆の声を漏らすと、目を覚ました銀狼が重々しく頭を持ち上げた。
昨日ほどの切迫した雰囲気はなく、黄金の瞳は静かに彼を見つめている。
これならば、無理に付き添う必要はないだろう。
ロマンは立ち上がり、外套についた雪と葉を払ってから、傍らの鞄を手にした。
彼の目的地は、ここからさらに北へ進んだ先にある国境の緩衝地帯だ。
追っ手の目を逃れるためには、こんなところで立ち止まっている暇はない。
だが、温かい毛並みから離れた途端、ひどい寂しさが胸の奥に押し寄せてきた。
「俺は、もう行くよ」
言葉が通じるとは思っていなかったが、ロマンは気づけば口を開いていた。
銀狼の静かな瞳が、すべてを受け入れてくれるような気がしたからだ。
「本当は、逃げたくなんてなかったんだ」
唇からこぼれ落ちたのは、前世から抱え続けていた孤独な本音だった。
公爵家という冷酷な血筋に生まれ、破滅の運命を背負わされた理不尽さ。
誰かを虐げたり、誰かから命を奪われたりするような人生は、もう二度とごめんだった。
ただ静かに、動物たちに囲まれて温かい日差しの中で眠りたい。
それだけが、彼のささやかすぎる願いだったのだ。
「俺の家は、お前たちみたいな美しい獣を狙って、ひどいことをしている。いつか獣人皇帝の逆鱗に触れて、全員殺される運命なんだ」
自嘲気味に笑うロマンの言葉を、銀狼はまばたき一つせずに聞き入っていた。
人間の言葉を理解しているかのような賢しい振る舞いに、ロマンは少しだけ救われた気持ちになる。
「だから、お前も気をつけろよ。皇帝に見つかる前に、もっと森の奥へ逃げるんだ」
まさか目の前にいるのがその獣人皇帝本人であるとは知る由もなく、ロマンは真剣な表情で忠告した。
鞄を肩に掛け、フードを深く被り直す。
もう振り返らないと決めて、彼は北へ向けて雪を踏み出した。
その瞬間、背後から伸びてきた強い力が、彼の外套の裾を力強く引っ張った。
「え?」
ロマンが驚いて振り返ると、そこには立ち上がった銀狼の姿があった。
巨大な牙が、彼の外套の端を確かな力で咥え込んでいる。
傷はまだ完治していないはずだが、四本足で立つその姿には息をのむような威厳が満ちていた。
黄金の瞳が、彼を射抜くように見下ろしている。
離さない。
決して逃がしはしない。
言葉を発せない獣の瞳が、そう強烈に語りかけていた。
ロマンは困惑し、外套を引こうとしたが、銀狼の力は並外れており、まったく動く気配がない。
「どうしたんだ。腹が減ったのか」
ロマンがたずねても、銀狼はただ静かに喉を鳴らすだけだ。
引き留めようとするその行動に、彼を仕留めるような敵意は一切感じられない。
むしろ、そこにあるのは強烈な執着と、保護欲のようなひどく甘い感情だった。
ロマンは大きくため息をつき、ピンと張った外套の布地を見つめる。
逃げなければならないという焦りと、この極上の毛並みに寄り添っていたいという誘惑。
雪降る森の中で、彼は巨大な獣に捕らえられたまま、身動きが取れなくなっていた。




