第2話「凍てつく森で出会った銀色の毛並み」
どこまでも続く白い世界を、ロマンはただひたすらに歩き続けていた。
夜が明け、空が白み始めても、雪の勢いは一向に衰える気配がない。
針葉樹の枝に降り積もった雪が、時折風に吹かれてどさりと音を立てて落ちる。
そのたびに、ロマンは肩を強張らせて周囲を警戒した。
厚手のブーツを履いていても、足先の感覚はとうに失われている。
膝まである深い雪に足を取られ、一歩を踏み出すたびにひどく体力を消耗した。
吐く息は凍りつくように白く、まつ毛には細かい氷の粒がこびりついている。
かじかむ指先を外套のポケットに突っ込みながら、彼は荒い呼吸を繰り返した。
『このままじゃ、追っ手が来る前に凍え死ぬかもしれない』
脳裏をよぎる弱音を、彼はかぶりを振って追い払う。
ここで立ち止まれば、確実に死が待っている。
凍てつくような寒さよりも、処刑台の冷たい刃のほうがずっと恐ろしい。
ロマンは歯を食いしばり、雪に埋もれた倒木を乗り越えた。
そのとき、冷たい風に乗ってかすかな匂いが鼻腔をくすぐった。
鉄の錆びたような、ひどく生々しい匂いだ。
『血の匂い』
ロマンは足を止め、風下へと視線を向ける。
雪に覆われた白い森の中で、そこだけが異質な空気を放っていた。
危険を知らせる本能が、今すぐこの場から離れろと警鐘を鳴らしている。
獣人帝国の国境付近であるこの森には、凶暴な魔獣が生息していることも珍しくないのだ。
しかし、足は逃げることを選ばなかった。
前世からの動物を愛する本能が、傷ついた何かの存在を放っておけと告げてはくれなかったのだ。
ロマンは息を殺し、匂いの元へと慎重に足を踏み出す。
大きなモミの木の陰に回り込んだ瞬間、彼の呼吸がぴたりと止まった。
純白の雪を鮮やかな赤に染め上げて、それは倒れていた。
馬ほどもある巨大な獣だ。
月明かりの残滓を吸い込んだような、美しく輝く銀色の毛並みをしている。
それは間違いなく狼だったが、ロマンが知るいかなる狼よりも巨大で、神々しいまでの威容を誇っていた。
しかし、その見事な毛並みは今、赤黒い血で無惨に汚れている。
狼の後ろ足には、無骨で鋭い刃を持つ鉄製の巨大な罠が食い込んでいた。
骨まで達しようかという深い傷口から、止めどなく血が流れ出している。
密猟者が大型の魔獣を捕らえるために設置した、残酷な罠だ。
銀狼は荒い息を吐きながら、雪の上に身を横たえていた。
近づいてくるロマンの気配に気づき、大きな頭をゆっくりと持ち上げる。
黄金色に輝く瞳が、まっすぐに彼を射抜く。
全身の血の気が引くのがわかった。
手負いとはいえ、その瞳に宿る野性の鋭さと威圧感は凄まじい。
喉の奥から漏れる低い唸り声が、空気を震わせてロマンの肌にビリビリと伝わってくる。
今すぐ喉笛を噛み切られてもおかしくないほどの、息をのむような殺気だった。
だが、ロマンの目は、狼の瞳の奥底に潜む苦痛の色を見逃さなかった。
『痛いよな。苦しいよな』
恐怖よりも先に、胸を締め付けられるような哀れみが込み上げてくる。
前世の彼は、道端でうずくまる傷ついた猫を素通りできない人間だった。
相手がどれほど巨大で恐ろしい獣であっても、その本質は何も変わらない。
ロマンは外套のポケットから、両手をゆっくりと引き出した。
武器を持っていないことを示すように、手のひらを広げて見せる。
銀狼の唸り声が一段と大きくなったが、彼はひるむことなく一歩だけ前に出た。
「大丈夫だ。危害は加えない」
冷たい空気に溶けるような、穏やかで静かな声だった。
公爵家の三男としての傲慢な口調は、そこには微塵もない。
ただ傷ついた命を慈しむ、前世の青年の声だった。
ロマンは雪の上に膝をつき、狼の目線よりも低くなるように身を屈める。
警戒心に満ちた黄金の瞳と視線を合わせたまま、彼は少しずつ距離を詰めていった。
狼は鋭い牙をむき出しにして威嚇するが、立ち上がることすらできないほど衰弱している。
「ひどい傷だ。今、外してやるからな」
ロマンは狼の脚に食い込む罠へと手を伸ばした。
素手で触れた鉄の感触は、氷のように冷たかった。
罠のバネは非常に強固で、彼のか弱い力では到底開きそうにない。
ロマンは周囲を見渡し、雪に埋もれていた太く丈夫な木の枝を拾い上げた。
罠の隙間に枝をねじ込み、てこの原理を利用して渾身の力を込める。
腕の筋肉が悲鳴を上げ、額から冷や汗がにじみ出た。
それでも彼は歯を食いしばり、決して力を緩めなかった。
鈍い金属音が響き、重い刃がゆっくりと開いていく。
狼の脚が自由になった瞬間、ロマンは枝を放り捨て、鞄の中から清潔な布を取り出した。
「少し、我慢してくれ」
ロマンは布を傷口に当て、ためらうことなく圧迫をかける。
狼が痛みに身をよじり、ロマンの腕に鋭い爪がかすった。
外套の袖が裂け、薄く血がにじむ。
それでも彼は手を引かず、真剣な眼差しで止血を続けた。
間近で触れた銀狼の体は、驚くほど温かかった。
凍てつくような雪山の冷気を跳ね返すような、力強い命の熱だ。
ロマンはその温もりに、なぜかひどく安心感を覚えた。
前世で満たされることのなかった孤独な心が、少しだけじんわりと解けていくような気がした。
ふと顔を上げると、黄金の瞳がすぐ目の前で彼を見つめていた。
先ほどまでの刺すような殺気は消え、そこにあるのは静かな観察の色だ。
ロマンは思わず顔をほころばせそうになり、慌てて表情を引き締める。
血が止まり始めたことを確認すると、彼は布をしっかりと巻き付けて縛った。
応急処置としては不十分かもしれないが、今の彼にできる精一杯の治療だった。
「よし、これでしばらくは大丈夫だ」
ロマンは安堵の息を吐き、無防備にも銀狼の太い首筋にそっと手を伸ばした。
指先に触れた毛並みは、上質な絹のように滑らかで、驚くほど柔らかかった。
冷え切った指先が、その極上の温もりにじんわりと溶かされていく。
『すごい、最高のもふもふだ』
過酷な逃亡劇の最中だというのに、前世の動物好きの血が騒いでしまう。
ロマンはほんの少しだけ、その豊かな毛並みに頬をすり寄せた。
狼は嫌がるそぶりを見せず、ただ静かに彼の体温を受け入れているようだった。
この美しく巨大な獣が、自分を処刑する運命にある獣人皇帝カルステン・モルゲンであることなど、今のロマンは知る由もなかった。




