第1話「冷酷な悪役令息は雪降る森を目指す」
ロマン・レンティスは、じっとりとまとわりつくような寝汗の不快感で目を覚ました。
重厚なベルベットの天蓋から、青白い月の光がわずかに差し込んでいる。
冷え切った石造りの床を這うような隙間風が、肌をなでていった。
彼は荒い呼吸を整えながら、震える手で自身の顔を覆う。
触れた頬は氷のように冷たく、ひどく滑らかだった。
『思い出した』
暗闇の中で、その事実だけがひどく鮮明な輪郭を帯びていく。
ここは彼が前世の記憶を持っていた現代日本ではない。
連日深夜まで働き詰めだった社会人としての人生は、過労という形であっけなく幕を閉じた。
休日に近所の野良猫をなでることだけが唯一の癒やしだった。
それは孤独で冴えない男の末路だ。
そして今、彼が息をしているのは、生前プレイしていたダークファンタジーゲームの世界であった。
しかも、主人公の行く手を阻む悪逆非道な公爵家の三男、ロマン・レンティスとしてである。
ロマンはベッドから身を起こし、ふらつく足取りで部屋の隅にある姿見の前に立つ。
鏡に映るのは、月明かりの下でも際立つ銀糸のような金髪だった。
氷のように冷たい青い瞳を持つ、残酷なまでに美しい青年がそこにいる。
その整った顔立ちは、ゲームの中で幾度となく見た悪役のそれと全く同じだった。
『どうしてよりによって、こんな破滅確定のキャラクターなんだ』
レンティス公爵家は、隣接する獣人帝国との国境付近で違法な密輸を繰り返している。
彼らの標的は、美しい毛並みと強靭な肉体を持つ獣人たちだ。
奴隷として高値で売り飛ばすために、一族は裏で非道な狩りを今この瞬間も続けている。
シナリオ通りに進めば、やがてその事実は獣人皇帝の知るところとなる。
激怒した皇帝の軍勢によって公爵家は滅ぼされ、獣人を虐げていたロマンもまた、最もむごたらしい方法で処刑される運命にあった。
『冗談じゃない』
ロマンは自らの唇を強く噛む。
かすかな鉄の味が口内に広がり、これが悪夢ではないことを彼に教えた。
前世の彼は、ただ動物を愛し、平穏な暮らしを望むだけの男だったのだ。
他者を傷つけ、その報いとして惨殺されるような人生など、到底受け入れられるものではない。
ロマンは鏡から視線を外し、部屋の奥にある豪華な木製のクローゼットへと歩み寄った。
重い扉を開け、手当たり次第に実用的な衣服を引っ張り出す。
金糸の刺繍が施された貴族の衣装など、今の彼には死装束も同然だった。
選んだのは、厚手の黒い外套と丈夫な革のブーツ、そして寒さを凌ぐための簡素な防寒具だ。
「もたもたしている時間はない……」
かすれた声が、静寂の部屋に落ちる。
誰かに見咎められる前に、彼は急いで着替えを済ませた。
幸いなことに、現在のロマンはまだ十八歳になったばかりだ。
本編が始まり、断罪のときが訪れるまでにはまだ数年の猶予がある。
今ならば、公爵家の悪行とすっぱり縁を切り、別の場所でひっそりと生き延びることができるかもしれない。
ロマンは使い古された革製の鞄に、少しの金貨と保存食を詰め込んだ。
刃の短い護身用の短剣も、忘れずに帯の裏に忍ばせる。
部屋を出る前に、彼は一度だけ振り返って豪華な自室を見渡した。
くすぶる暖炉の火も、足元のふかふかの絨毯も、もう二度と見ることはない。
未練など微塵もなかった。
音を立てないように真鍮のドアノブを回し、薄暗い廊下へと足を踏み出す。
深夜の公爵邸は静まり返っており、夜警の使用人たちの気配もない。
壁に掲げられた歴代当主の肖像画が、逃亡者である彼を冷たく見下ろしているような気がした。
ロマンは壁の影に溶け込むようにして、迷路のような広い屋敷の中を進んでいく。
冷ややかな石造りの床が、ブーツの底を通して体温を奪っていく。
息を潜め、裏口の厳重な鍵を慎重に外した。
錆びた金属の音がかすかに響き、彼の肩がびくっと跳ねる。
数秒間その場で立ち尽くし、誰にも気づかれていないことを確認してから、彼は外へと転がり出た。
刃物のような夜風が、ロマンの頬を容赦なく打ち据える。
空には分厚い雲が立ち込めており、星の光すら見えなかった。
粉雪が舞い始めていた。
白い結晶が、彼の金髪や外套の肩に次々と落ちては消えていく。
ロマンが目指すのは、皮肉なことに獣人帝国の国境に広がる深い雪の森だった。
公爵家の息がかかった領地内で身を隠すことはほとんど不可能に近い。
彼らの捜索の手が及ばない場所は、皇帝の軍勢を恐れて人間が寄り付かない国境の緩衝地帯しかないのだ。
凍死の危険と隣り合わせの無謀な選択だということは痛いほどわかっていた。
それでも、断罪の刃の下で命を散らすよりは幾分かましだ。
ロマンは深くフードを被り直し、真っ白に染まりゆく獣道を歩き始めた。
吐き出す息は白く濁り、夜の闇へと溶けていく。
彼が踏みしめる新雪の音だけが、静寂の世界に響き渡っていた。




